2014年イギリス、デンマーク、ノルウェ製作。

犯した罪は罰せられる
鼓笛を鳴らして大勢を殺す場合を除いて

 ・・・というヴォルテールの言葉から映画は始まる。
 
 外乱や内乱の時には多くの命が奪われる。
 「勝てば官軍」で、勝ち残って権力を得た側は、戦時中の敵方への仕打ちについて、それがどんなに残虐非道なものであっても罰せられることはない。‘戦争犯罪人’は立場が逆転すれば‘祖国の英雄’である。英雄は殺した敵の数が多いほど讃えられ尊敬される。
 だが、ベトナム戦争よりこのかた、兵士のPTSD(心的外傷後ストレス障害)が大きな社会問題になっているように、法治国家に暮らし、命と人権と平等の価値を教え込まれている現代人にとって、たとえそれが‘合法的’であろうとも、愛する祖国や同胞を守るためであろうとも、人を殺傷することには抵抗が伴う。罪の意識や死後の行く先の恐怖から逃れることは至難の業である。

 この映画は、1965年9月30日深夜にインドネシアで発生した「9・30事件」後の大虐殺を描いたドキュメンタリーである。
 これは、大統領親衛隊の一部が、陸軍トップの6人の将軍を誘拐・殺害し、革命評議会を設立したが直ちに粉砕されたというクーデター未遂事件であるが、それだけでは終わらず、未曾有の大混乱をインドネシア社会に呼び起こした。
 9・30事件そのものは未だにその真相が明らかになっておらず、陸軍内部の権力争いという説も強いが、当時クーデター部隊を粉砕し事態の収拾にあたり、その後第2代の大統領になったスハルト少将らは、背後で事件を操っていたのは共産党だとして非難し、それに続く1、2年間にインドネシア各地で、100万とも200万ともいわれる共産党関係者を虐殺したのである。
 それまで、容共的なスカルノ大統領のもとでインドネシア共産党は350万人もの党員と、傘下に多くの大衆団体をかかえる有力な政治勢力のひとつであった。しかしかねてからそれを快く思っていなかった陸軍はその力を削ぐ機会を伺っており、この9月30日の事件を口実にそれに乗り出した。
 とはいえ、当時共産党は合法政党であったから、国軍が前面に出るのではなく、イスラーム勢力やならず者など反共の民間勢力を扇動し、密かに彼らに武器を渡して殺害させたのである。ごく普通の民間人が武器を握らされ、国軍からにわか仕立ての訓練を受けて殺害に手を染めた。イデオロギーの違いから近隣の者はおろか肉親にさえ手をくださねばならない場合もあった。
 スハルトによる新体制が確立した後の1973年に、この一連の虐殺の中で共産主義者の命を奪ったものに対しては法的制裁が課されないことが検事総長によって正式に決定されたが、その記憶は多くの人にとってトラウマとなって残っている。
(『アクト・オブ・キリング』公式サイトより抜粋)

 100万人以上の共産主義者の虐殺。
 当時幼少だったとは言え、インドネシアでこんな凄まじい事件があったなんて知らなかった。スカルノ大統領の第3夫人であったデビ夫人が夫が失脚したあとにフランスへ亡命したことは、もちろんテレビや雑誌で知っていたが、こんな地獄を生き延びた人なのだ。下手すると、スカルノ大統領ともども、ルイ16世とマリー・アントワネット同様の最期が待っていたのかもしれない。 

 上記サイトによると、オッペンハイマー監督は、はじめ人権団体の依頼で虐殺の被害者を取材していた。が、当局から被害者への接触を禁止され、対象を加害者に変更した。彼らが嬉々として過去の行為を再現して見せたのを目にして、「あなたたち自身で、カメラの前で当時の模様を演じてみませんか」と持ちかけた。これに「待ってました」とばかり応じたのが、上記のならず者(作品中では‘ブレマン’と言っている)の一人であり、かつて虐殺を実行した殺人部隊のリーダーであり、おそらく今や80歳近くになるであろうアンワル・コンゴであった。
 当時メダン市の映画館でダフ屋をやっていたアンワルは、軍の要請で共産主義者の捕獲と暗殺を手がけることになる。もともと暴力的気質を持ちサディスティックな一面もあるアンワルにとって、これはまたとない欲望充足の機会となった。軍(体制側)の後ろ楯と‘愛国精神’という錦の御旗を得て、彼の残虐性はとどまるところを知らない。独自で編み出した針金を用いた絞殺方法で1000人近くをその手にかけたのである。

 「歴史を正しく伝えるべき」という据わりのいい使命感(=建て前)の裏に透けて見える、若い頃見たハリウッドのアクション映画に出てきたようなヒーローを演じられるという快感(=本音)を隠しようもなく、クランクインしたばかりのアンワルはダンディなスーツに身を包み意気揚々のスター気取りである。自ら行った殺人シーンをまさに当時の殺戮現場で、饒舌に説明を加えながら、捕らえられた共産主義者役の役者を楽しそうに絞殺するその様子は、釣り好きのオヤジが大物との奮闘を自慢げに語るのに似て、まったく‘罪悪感ゼロ’である。観る者は、アンワルのいかりや長介とオバマ大統領を足して2で割ったような愛嬌のある風貌と、二人の可愛い孫を相手にしているときの市井の人と変わらない好々爺ぶりと、一方の‘血も涙もない’快楽大量殺人者の前歴に、どう埋めていいのか分からないギャップを感じることになる。
 
 メルヘンチックで寓意的な美しい映像を合間にはさみながら、アンワルがからんだ過去の事件を、大掛かりな野外ロケやハリウッドのギャング映画まがいのセットやカメラアングルを用いて忠実に再現しつつ、撮影は滞りなく進んでいく。
 共産党関係者の住む村に火をつけて、男を殴り殺し、女を暴行し、子どもを道端に放り出す。捕獲した男を一室に閉じ込めて、取調べと称して複数人でリンチを加えていく。そのとき現場にいた当事者(加害者)の記憶と助言によって演出がなされ、まさに加害者本人によって暴行シーンが演じられるだけあって、これらのシーンの迫力はプロの俳優顔負けである。被害者役のエキストラたちが本当に泣き出してしまうほどに。
 一方、撮影が進んでいくにつれて、アンワルの表情に微妙な変化が表れる。それは内面の変化を映し出している。最初の頃の陽気な自信満々の表情は消え去り、複雑な陰りを帯びるようになる。出演を了解したことを次第に後悔し始める。とりわけ、監禁されてリンチされる共産主義者の役を自らが演じたことで、彼のアイデンティティには大きな揺らぎが生じる。
 苦痛に満ちたシーンを演じ終えたあと、アンワラは監督に向かってこう問いかける。
「尊厳が奪われたときに恐怖が起こった。自分が捕まえた連中も同じ気持ちだったのか?」
 監督は淡々と答える。
「いや、それは違うでしょう。彼らはまもなく死ぬことを知っていたのですから」

 最後の撮影(クランクアップ)は、最初の撮影と同じシーンである。
 アンワルが共産主義者たちを絞め殺すのにいつも使っていたビルの屋上。セリフも同じ、演技も同じ。
 しかし、アンワルはもはや最初の時のようには気軽に自分自身を演じることができない。セリフを言うたびに強烈な吐き気が襲い、内臓がえぐられているかのような苦痛の叫びが夜空にこだまする。

 カメラ(演出)の干渉の仕方にポイントがある。
 オッペンハイマー監督は、この唾棄すべきサディストであるアンワルに対して、またアンワルや仲間のブレマン達のしたことに対して、一定の距離を保ち続ける。責めるでなし、非難するでなし、批判するでなし、軽蔑するでなし、解釈するでなし、説教するでなし、反省や後悔を求めるでなし、怒りをぶつけるでなし、恐れおののくでなし、あきれかえるでなし、反対に、持ち上げるでなし、おだてるでなし、やったことに賛同するでなし・・・。終始、友好的で客観的な態度を保ち続ける。(そうでなければ撮影は途中で頓挫したであろう。)
 それは、たとえば、『行き行きて、神軍』(原一男監督、1987年)において奥崎謙三が戦時の元上官の家に押しかけて武力行使でもって罪を告発するようなスタンスとも違うし、薬害エイズ事件の際に桜井よし子が血友病の権威である安部英医師を自宅前に待ち伏せて、出てきたところをカメラともども追っかけて、堅い口を開かせようと喰らいついたスタンスとも違う。
 アンワル当人が撮影に際して何の圧迫も義務も感じず、自由に語り、自由に演じ、自己表現することが可能な状況に置かれたことによって、被写体であり演技者でもある本人の中で自由な感情の発露が起こり、演じることで役柄と同化し、自己省察が自動的に始まったように思われる。
 その結果として、自己変容が生じたのではないだろうか。アンワルたちのしたことを一方的に責め、反省と謝罪を求めるようなスタンスからは、決してこのような変容は生まれなかったに違いない。
 
 このスタンス、自分が今勉強している社会福祉の分野で、ケースワーカーの基本的な対人援助の行動規範としてよく推奨される「バイスティックの7原則」を連想させる。

バイスティックの7原則
①個別化の原則
 利用者を個人としてとらえ、利用者の問題状況に応じて個別的な対応をすること
②意図的な感情表出の原則
 利用者の考えや感情(肯定的な感情も否定的な感情も)を自由に表現できるように働きかけなければならない。そして、その利用者の感情表現を大切に扱わなければならない
③制御された情緒関与の原則
 援助者は自身の感情を自覚し吟味しながら、援助者が利用者の表出した感情を受容的・共感的に受け止めること
④非審判的態度の原則 
 援助者は利用者の言動や行動を、一般の価値基準や援助者自身の価値基準から良いとか悪いとか評価する態度を慎まねばならない。利用者のあるがままを受け入れれるように努め、利用者を一方的に非難してはならない
⑤自己決定の原則
 援助者は利用者の意思に基づく決定ができるように援助していく。
⑥秘密保持の原則
 利用者から信頼を得るためには、援助関係のなかで利用者の言動や状況を秘密(プライバシー)として守らねばならない。
⑦専門的援助関係の原則
 援助者は、個人的な関心・興味から利用者に関わってはならない。援助者は、常に専門職としての態度で臨まなければならない。

 もっとも、まったくの‘成り行きまかせ’の撮影というわけではない。
 作り手の企みはそこかしこに存在している。
 たとえば、加害者であったアンワルにあえて被害者の役をやらせる(ロールプレイ)ところ。
 たとえば、殺害された共産主義者の養子をエキストラに持ってきて、アンワルたち加害者の前で――アンワルや国家をまったく責めることなしに――親亡き後の悲惨な半生を涙ながら語らせるところ。
 こうしたカメラと演出とちょっとした仕掛けとが触媒となって、アンワルの変容――罪の意識の芽生え――が起こったのである。
 刑務所の更生プログラムよりよっぽど効果的かもしれない。

 それにしても気になるのは、撮影終了後、アンワルはどうなったのだろう?
 罪悪感が高じて病気(鬱病とか)にでもなっていないだろうか。
 自害してはいないだろうか。
 よもや元の能天気なブレマン(ならず者)に返り咲いてはいないと思うが・・・。
 いまでも悪夢を見てうなされているだろうか。

 いったん開いた心の扉を閉ざすことはできない。
 多くの無辜の民の血で染まったその老いた両手で、可愛い孫を今でも抱けているだろうか?



評価:B+

A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」
        「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」   

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」「ボーイズ・ドント・クライ」
    

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!