ただそのままでいる2014年ナチュラルスピリト社より刊行。

 表紙とタイトルに惹かれ、中野サンモール内の「まんだらけ」で1000円のところを500円で購入。90ページそこらのブックレットなので、帰宅して数時間で読了した。
 
 著者の名前は、はじめて聞く。年齢不詳。女性。
 アメリカの神学校で哲学、神学、倫理学を学んだ後、マサチューセッツ州の救急センターでカウンセラーおよび瞑想指導者として勤め、現在はボストンのホームレスのための施設で働いている――と著者紹介にある。

 精神世界(スピリチュアリティ)の黄金律の一つである「‘今ここ(now here)’に意識を向けることの重要性」を説いている。
 その意味では、特段目新しい思想やアイデアが書かれているわけではない。

 今この瞬間の経験しか存在していないということを、哲学的に理解することができる。この理解はこの上なく重要だ。まさに今ここにあるものしか存在していなくて他には何もないってことを、理論の上でしっかり理解しておかなくちゃいけない。それがわかっていないと簡単に騙されてしまい、達成困難な遠いゴール(仕事、人間関係、知識といった外面的な目標や、悟りのような内面的な目標)に望みをつなぐはめになる。

 本書のユニークなところは、こういった哲学的テーマ(非二元の理論)を極めて論理的に語りながらも、深刻でも難解でも堅苦しくもなく、またお仕着せがましくも説教臭くもなく、全編が軽やかな筆致とさりげないユーモアにつつまれ、読んでいて清流の音を聴くような心地よさが広がるところである。著者の筆力もさることながら、著者自身ある種の‘悟り’を体現しているからこその表現の深さと的確さと自在さなのであろう。

 自分(ソルティ)も「今ここ」の大切さを常々意識しながらも、「今ここ」から心が離れている瞬間の多い毎日を過ごしている。
 心は「今ここ」にいることを好まない。「今ここ」を空っぽにして、「いつかどこか」を彷徨っている。
 たとえば、コンビニでレジにいる瞬間。カウンターの向こうにいる店員に注意を向けず、「ピッ!」とバーコードで読まれている商品にももはや関心をもたず、今日の仕事のことを思い返していたり、誰か人に言われたことや自分が人に言ったことについていろいろ思いをめぐらしていたり、家に帰ってから寝るまでにやることを頭に描いていたりする。店員がよっぽどのイケメンででもない限り、店を出たら男だったか女だったかすら覚えていないだろう。
 たとえば、列車に乗っているとき。同じ車両の乗客たちに注意を払うこともなく、窓外の景色を楽しむこともなく、また読書をするでもなく、ぼんやりと空想や妄想や追憶にふけっていることが多い。列車に乗ることは目的地に行くまでの‘手段’に過ぎず、乗っている時間は‘過程’であって、そこで出会う人々は‘風景’に過ぎない。子供の頃のように、列車に乗ること自体がこのうえない喜びで、そこで過ごす時間こそが至福の時で、隣席の見知らぬおじさんやおばさんから話しかけられることに新鮮な驚きを覚えたようには、「今ここ」の列車体験を楽しめてはいない。(もっとも自分は‘乗り鉄’なので、状況が許せば列車体験を楽しむのだが・・・)
 仕事(老人ホームの介護)をしていても、目の前の一人一人のおじいちゃん、おばあちゃんにじっくり向き合って話を聴き共にいる時間を味わうことが疎かになって、片付けなければならない業務(記録や流しの片付けやレクリエーション!)に気がとられてしまうことがよくある。そんなときに限って、転倒事故や誤嚥などのアクシデントが起こって、無理やり「今ここ」に引き戻されたりする。
 
 「今」でなくて「いつか」、「ここ」じゃなくて「どこか」を追い求めてしまうのは、進歩と発展を是とする近代人の宿痾であろう。資本主義がそれに拍車をかける。なぜなら大衆が現状に満足したら経済活動は衰退してしまうからである。
 企業は常に目新しい商品を開発し、購買欲をそそらなければならない。そのために「今の自分に満足してはいけない。理想の自分、理想の生活、理想の人生を追求せよ」というメッセージを陰に陽に発し続ける。人々の移動を盛んにするために「‘ここ’でない‘どこか’にこそ、あなたが求めるものがある」と欲望を煽り立てる。消費行動を生み出す鍵は落ち着きをなくさせることにある。
 そうして、我々は鼻先に吊り下げられたニンジンを追っかけて走り続ける馬車馬のように、「‘いつかどこか’の理想の自分」を追い求めてがむしゃらに走り続ける。それが習い性となってしまっている。「そんな理想の自分なんてものはない」と気づいたときには、もう老い先短くなって健康も損なわれているというのが、昨今の風潮なのかもしれない。
 
 以下引用。

 自分、あるいは「自分運動」とも言える作用は、欠けているような気がするものを探すというところにその特徴がある。「自分運動」は勘違いで、その勘違いによって経験が問題視されてしまう。個として閉じられた、独立した自分が存在していると仮定したとたんに、わたしたちは思い煩うようになる。
 
 生の神秘に気づきたければ、今の状況にないものは必要ないんだと理解すること、そしてそれによって自分の欲求の強迫衝動をかわすことが最も大切になる。実現すべき、今より素晴らしい感覚も境地も状態もありはしない。制限の多い少ないにかかわらず、そこから解き放たれなければならないような感覚も、境地も、状態もない。これがそれだ。
 
 目覚めや悟りとは、今のこの瞬間の生の神秘に気づいて、今この瞬間以外にはどんな「もの」もないとわかっていることだと定義してもいいだろう。
 
 「自分」とは、人生を通じてほとんど休みなく作用しつづける概念だ。「自分」という概念は、突き詰めてみれば、自分の経験とは何かしら別の、いくぶん隔たって存在している主体があるという思い込みだ。そう思っていると、経験には何かが欠落しているとか隠された要素があるということになる。
 経験には隠された要素などない。解明されるべき神秘など、どこにもない。すべてが神秘だ。そして神秘は今ここにあって、すでに明かされている。
 
 心が「今ここ」にいないと気づいたとき、すでに心は「今ここ」にいる。
 心が「今ここ」にいるとき、「自分」は存在しない。 
 ‘気づき’こそが鍵である。