2014年文芸社より刊行。
戦場のはてに 001

 著者は1924年(大正13年)さいたま市(旧大宮市)生まれ。90歳を超えている。
 1944年(昭和19年)9月、南支派遣極2904部隊要員として従軍。1946年3月に無事復員するまでの1年半を‘大陸’で戦った。南支とは南支那(中国南部)のことである。
 70ページあまりのこの薄いブックレットは、一個人の、それも19歳の初年兵の体験した太平洋戦争(大東亜戦争)末期の生々しい記録なのだが、これを敵軍との戦いの記録というのは当たらない。
 それは、事実上この時点で勝敗は決しており、「戦い」は終わっていたからである。
 それを知っていたのは中央政府や軍部の上層部ばかりではなかった。ほかならぬ著者自身も気づいていた。
 一緒に入隊した1200名の仲間達と博多を出港する船の中で、黒田少年は思う。
 
 軍隊最下層の我々一兵卒には、行先を聞いても教えてもらえず、戦場に征くのに、上官は革の編上靴、一兵卒は地下足袋、小銃は二十名に一丁の割当てで殆どの兵は手ぶら、何も持たない。救命胴衣は代用品等々の物資不足で日本は遅かれ早かれ戦争に負けると思った。
 
 救命胴衣の代用品とは、直径20センチ、長さ1.5メートル位の孟宗竹の竹筒である。船が遭難して海に投げ出されたら、その竹筒に捕まって生き延びろというわけだ。
 これだけ見ても、日本軍にはもう実際闘う気力も兵力も資力もなかったのが分かる。「竹槍でB29を突き落とせ」と言うのも笑い話ではない。
 いったい、黒田少年ら1200人の初年兵は今さら何をしに中国に渡ったのか。
 
 昭和19年入営の我々初年兵1200名は、飢餓と恐怖から身を守り、食べ物と寝る場所を求めて生死の狭間をさ迷い、華南の原野を150日間3000キロ、銃弾一発も撃つことなく終戦まで歩き通し、僅か400名たらずの兵が生還。これが真実の戦争であった。
 
 我々は、死の淵を歩く初年兵でした。雨の日も、風の日も厳冬の日も猛暑の日もいとわず、何十万もいる華南の敵地区を本隊を目指して、何ヶ月もひたすら歩くことが戦争でありました。
 
 行軍――すなわち、ただ列をなして、危険地帯を十分な防備も食料も情報もなく歩きに行ったのである。
 
 本隊追及3000キロ、体力の極限を精神力と我慢で鞭打ち、飢餓に耐える行軍であった。
 その間、栄養失調症、マラリヤ、デング熱等の病気に倒れたり、機銃掃射に撃たれ、拉致され行方不明になったり、行軍が辛くて自爆したり、逃亡したり、あるいは担送中の病人が死亡し、急遽手首を切り焼いて遺骨にする。このような情況は、内地の方々には計り知れない真実であります。
 
 黒田と同時期に中隊長として中国大陸を転戦し、戦後歴史学者として名を馳せた藤原彰は、その著書の中で「日本軍の約230万もの戦没者の過半数が戦闘行動による死者(いわゆる名誉の戦死)ではなく、餓死であった」と指摘している。その真偽のほどは知らぬが、黒田の手記を読む限り、いかに沢山の‘死ななくてもよいはず’の若者たちが軍の命令一つで無駄死にしていったかが推測される。
 お国のための戦闘行動による死が「より貴い」とか「より価値がある」というわけではない。行軍による餓死が「より無駄死に」というわけでもない。それを言うなら、戦争による死はすべて無駄死にである。
 すでに負けが分かっていながら特段の理由もなく戦地に送られ、無鉄砲・無計画な行軍によって命を落としていった若者たち。ありていに言えば、「死にに行った」ってことだ。「敵ではなく、ほかならぬ軍部に(国に)殺された」ってことだ。
 いったい、日本って・・・?
 
 黒田は賢い少年であった。
 「お国の言うこと、することはいつでも絶対正しい」と頭から信じ込んでいたわけではなかった。
 
 国の為に行軍し戦場に征く途中で、餓死することが忠義なのか? 軍の幹部が赤紙(召集令状)を発行し、一銭五厘の切手を貼って、兵を集め戦場に送り、食料を補充せず、見殺しにすることが、忠義なのか? その理不尽さに激しい憤りを感じた。
 
 おそらく、黒田少年だけでなく他の1200名の少年兵のうちにも、いや従軍していた兵士たちのうちにも、いや内地にいて愛する息子の無事を祈っている父母たちのうちにも、同じことを思い、同じ憤りに身を震わせていた人は相当数いたであろう。
 だが、それを表立って口にすることはできなかった。反対の声を上げても手遅れであった。
 そこが一番の悲劇である。
 
 平和を訴え戦争に反対する声は、あるところまで社会の右傾化が進んでしまうと、体制側によって未然に押しつぶされてしまう。その一線を超えると、反体制派に対する弾圧が加速していく。先鋭的な一部の左翼が血祭りに上げられると、それを見た大衆は恐れをなして口を噤んでしまう。そうして、恐怖政治(テルール)が始まる。もはや何をしようと遅すぎる。
 そうなる前に、「戦争反対!」のシュプレヒコールを往来で堂々と叫ぶことができる権利が「権利として」あるうちに、その権利を守る運動をある一定の強度で持続させなければならないのである。「誰か他の人が引っ張ってくれるから大丈夫だろう」と綱引きの手を緩めたら、相手側に簡単に持っていかれてしまう。なぜなら、「戦争をしたい」と思っている人種のほうが、本来持っている力(=攻撃性)が強いからである。
 「平和は勝ち取るもの」という言葉は、「無明にある人間は、ほうっておいたら争いに引っ張られていく。それを押しとどめる努力(=戦い)こそ日々大切である。」という意味だと思うのだが、最近は「憲法9条を変え戦争できる国にして、他国からの侵略に対して抵抗できる力を持とう。平和は戦争の戦利品だから。」といった言説が巷間にあふれている。
 
 あるとき、黒田少年兵らは捕らえられた捕虜を殺すことを上官に命じられる。
  
 あの生きている捕虜を突くのかと思うと、残酷な事だ、できることなら、この場から消えたい。逃げようものなら、敵前逃亡罪で、嫌だと言えば、敵前抗命罪という陸軍の刑法により、即座に銃殺される。つまり捕虜を殺さなければ、自分が銃殺されるという絶体絶命の状況下に立たされているのであった。
・・・・・・・・・
「黒田! 敵を突け!」
分隊長の腹の底から振り絞った、一段と力強い号令が頭の天辺まで響いた。
「はい!」
と返事と同時に、
「やあああ!」
掛け声もろとも、脱兎の如く走り、心臓めがけて力一杯踏み込みざま、
「エイ!」
と突き刺すと同時に引き抜く。
「残心の構え」
に戻った。その間百分の一秒足らずの一瞬の出来事だった。
 
 不条理に徴兵され、不条理に行軍させられ、不条理に人殺しを命じられ・・・。
 黒田千代吉は齢90にして、思い出すのも辛い体験を包み隠さずさらけ出さずにいられなかった。そうせずにはいられない不穏な空気を今の日本に嗅ぎ取っているのである。
 
  戦争は、人間を殺し、残酷・悲惨です。
  憲法十二条に「自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない」とあります。この「不断の努力」とは、いつも気をつけろと言う意味です。「気を抜こうなら」まだまだ悲劇を繰り返しかねない。
 
 暖かくなった。書を捨てデモに行こう。
 デモができる社会であり続けるために。