四十後半にしてヘルパー2級を取り、老人ホームで働き出して、ようやく丸3年。
 介護福祉士の受験資格が整った。来年1月の国家試験を受けて3月には晴れて介護福祉士、人生初の国家資格である。(捕らぬタヌキだが・・・)
 この日が来るなんて夢のようである。

 介護の仕事に就く前は「まあ、やってみて無理だったら撤退しよう」くらいの気持ちであった。実際に働き始めてからは「1年持てば上等だ」くらいの気持ちだった。よもや同一施設で3年続くとは思わなかった。
 こちとら、腰痛(椎間板ヘルニア)という爆弾を抱えている身であるし、介護施設の仕事は「ブラックだ、安月給だ、人間関係が大変だ、辞める人が多くて慢性的に人手不足」といったマイナス情報ばかり耳に入ってくるし、高齢者--特に‘ジジイ’とのコミュニケーションに自信がなかったし、働き出してからはなかなか仕事が覚えられなくて失敗を繰り返しては先輩職員に叱られていた。
 我ながらよく頑張ったなあと思う。
 
 新しい施設のオープン間もない採用だったので、気がつけば上から数えたほうが早い古株になっている。介護歴だけみても、自分より介護経験の長い先輩たちがこの3年間で多く抜けていったため、今や中堅どころ。一緒に働いて気を使わなくてはならない(=敬語を使わなければならない)相手の数がどんどん減っていくので、動きやすい=働きやすい環境になりつつある。
 仕事にも慣れた。
 職員用入口のドアを開けるときの気の重たさ、シフト入りするときの緊張感、フロアにいて「何をしたらいいか、どう動いたらいいか分からない」身の置きどころ無さ、一つ一つの介助に対する不安、仲間に負担をかけることの引け目。そういったものがいつの間にやら消えている。
 一通りの介護技術と知識が身について、他のスタッフと利用者の介護方法を検討することのできる最低の共通基盤に達したと思う。新しく入所してくる利用者に接しても、「ああ、この人は前にいたAさんと同じタイプだな」とか「Bさんと同じような介助方法でよいのだな」とか「Cさんの時に上手くいった声がけを試してみよう」というように経験値が生かせるようになった。
 石の上にも3年。
 介護福祉士受験資格が「3年の実務経験」を要することの意味合いがよく分かる。
 つまり、「自分は介護士です」と自信を持って言えるようになるには、少なくとも3年の月日が必要なのである。


1. 蓄積疲労
 
 3年経って、経験と同時に、疲労も蓄積されている。
 首と肩のコリが結構きつい。目の疲れは老眼のせい、スマホ画面の凝視のせいもある。
 予想外だったのが腰の痛み。最初の2年ほどは毎週のように仕事帰りに腰痛クリニックに通っていたものが、3年目からは通院を必要としなくなった。腰痛を起こさない介助の仕方(ボディメカニクス)を常に心がけているため、背中や腕やインナーマッスルなど必要な筋肉が発達したのだろう。趣味の山登りとヨガのおかげもあるだろう。休憩時間に長椅子に仰向けに寝転んで腰を伸ばしているのも良いのかもしれない。腰痛不安から解放されたわけではないものの、突然「グキッ!」となることもなく、何とかうまく付き合っている。
 体の疲れは年齢のせいも大きい。入浴介助(7~8人を入れる)した日など、帰宅しても何もできず横になってしまう。20~30代の頃のように、仕事が終わってから街に繰り出すなどまず考えられない。毎日毎日が10キロの持久走を果たしたようでクタクタである。翌朝起きても100%充電完了ということはなくて、前日の朝の85%くらいの体力からのスタートになる。勤務3日目の朝は85%の85%で72%からのスタートだ。さすがに4日連続勤務は勘弁してもらった。
 もっとも、肉体的な疲労ならば山登りだって同じである。休日に山登りしても一晩寝れば体力は回復する。むしろ、パワーアップしている。
 
 真にきついのは精神的な疲労、いわゆる気疲れである。
 歩けないのに車椅子から立ち上がる転倒リスクの高い利用者、10分おきに「トイレに連れて行って」とせがむ利用者(複数!)、失禁して便臭ただよっているのにトイレ介助を拒否する利用者、徘徊し大声を上げながら出口を探し回る利用者、ささいなことで他の入所者と喧嘩する利用者、職員を罵倒し暴力を振るう利用者、「あれやって、これやって」と依存したがる利用者、誰かにかまってもらえないと一日中叫び続ける利用者、なかなか薬を飲んでくれない利用者・・・。
 こうした利用者への対応でスタッフはいつも緊張を強いられ、困惑し、うんざりさせられ、発散できない怒り――利用者に怒りをぶつけることはできない――にフラストレーションは高まる一方、ストレスの針はいつも振り切っている。多くの介護職が辞めていく理由の一つはここにある。気疲れのあまり鬱になってバーンアウトしてしまうのだ。
 自分の場合、①友人や気の合う同僚に愚痴を聞いてもらう、②休日の山歩きや温泉で気分転換をはかる、③瞑想する、④仕事以外のときは仕事のことを考えない(趣味やボランティアに没頭)、⑤仕事の中に楽しみを見つける工夫をする、といった手段でストレス解消をはかるようにしているが、それでも完全には払拭され得ない。
 介護職こそ長期のリフレッシュ休暇が必要なのであるが、現状ではなかなか・・・。
 蓄積疲労が喫水線に達したとき、どうしたものかな?


2. ルーチンワーク

 仕事を始める前は深く考えなかったことであるが、介護の仕事はルーチンワークなのである。
 って、今さら言うのも変?
 利用者の日々の生活を支える仕事だから、ルーチン(きまりきった仕事)は当たり前なのだ。起床→朝食(排泄)→10時のお茶(排泄)→体操→昼食(排泄)→入浴→午後のおやつ(排泄)→レクリエーション→夕食(排泄)→就寝→夜間の見守り、という一日のスケジュールの中で利用者を介助していく。逆に言うと、あらかじめ決められたタイムスケジュールに利用者全員を合わせるように、段取りを組んで、業務を行っていく。悪く言えば「スケジュールありき」だ。介護職員がよく口にする「フロアが回る」というのは、このスケジュールどおりに利用者が動いてくれた、という意味である。
 
 介護保険制度の基本理念は、「個人の尊厳」と「自立した日常生活」である。「自立した日常生活」とはADL(日常生活動作)が自分ですべてできるという意味ではない。介護者の手を借りながら、「自分の意思で生活の仕方や人生のあり方を選択し、決定できる」ということである。
 だから、理念どおりならば、施設のタイムスケジュールに従うも従わないも個人の自由である。朝食抜きでも、一ヶ月風呂に入らなくても、薬を飲まなくても、レクに参加しなくても、眠くなるまで共同スペースでテレビを見ていても、他の利用者の迷惑にならない限りは自由なはずである。

 しかし、そうはなっていない。
 施設側は、決められたスケジュールで利用者が動いてくれることを望む。介護職もそのほうがありがたい。集団生活なので、行動が統一されたほうが管理しやすいからである。少ないスタッフ数で、事故のないようにすべての利用者を見守るためには、学校や軍隊や刑務所のように、規律ある団体生活が営まれる必要がある。
 そしてまた、施設にしてみれば、時たま監査に入る行政や足繁く訪ねてくる家族の目も気になる。利用者の自由意志(別名「わがまま」)を尊重して、「風呂に入れていない」「食事を提供していない」「薬を飲ませていない」「レクに誘っていない」「リハビリをしていない」ということが明らかになれば、どういういざこざに発展するものか分かったもんじゃない。(たとえば、厚生省令では、介護老人施設では最低週2回以上入浴させなければならないことになっている。) また、食事の提供やリハビリの有無は、介護報酬という名の施設に入ってくるお金にも影響する。

 本人の自由意志を本当に尊重したいのなら、行政や家族などの外野がたとえ口を挟んでも施設が揺らがないでいられるだけの法的なバックアップ(根拠)が必要であろう。
 たとえば、本人の署名入りの契約書内で「薬は飲ませないでくれ。入浴は週一度の清拭で十分。夜間の見守りはいらない。延命処置は必要ない。以上の通り対応して何か起こってもそれは自己責任であり、自分も家族も施設には一切責任は問わない」と一筆もらっておけば可能かもしれない。
 だが、「和をもって貴しとなす」日本人でここまで徹底して自己決定できる人はそういないだろう。なにより、施設に入らなければならない高齢者は、多かれ少なかれ認知がある。どこまで本人の自己決定をそのまま受け入れるかは微妙な問題である。

 施設に入所したばかりの頃は、集団生活に馴染めず、‘わがまま’を連発していた利用者も、2~3週間過ぎると存外慣れてしまう。「あきらめがついた」と言うべきか。あるいは、フロアを汗だくで走り回る職員の姿を見て、‘年長者らしく’我を抑えるのかもしれない。すると、大概、世俗の垢がとれたように脱色した風情になる。
 我々介護職はそれを見て「○○さん、やっと落ち着いたね」などと言ってホッとするのであるが、自宅で自由に過ごしていたときの活気を失い、日がな一日食席に座って次のルーチン行事の始まりをぼーっと待っている利用者は、どうしたってボケが進んでゆく。ADL(日常生活動作)も落ちていく。
 介護スタッフはその様子を横目で見ながら、どうすることもできない。「フロアを回す」のに手一杯だからだ。一人一人の利用者とじっくり会話する時間はなかなか取れない。ADL維持あるいは向上のためのリハビリを実施する時間もなかなか取れない。
 ルーチンワーク(業務)が利用者も介護者も縛っている。


3.あっぱれ、Kさん

 Kさんという利用者がいた。
 鳶職をしていた大正生まれの男性である。
 Kさんは、転倒リスクがあるのに車椅子から立ち上がって歩いてしまう。施設に入る前にもそれで転倒を繰り返していた。むろん、認知もある。
 我々は、立ち上がって圧が無くなると電子音楽が鳴り出す仕組みの座布団(センサー)を車椅子の座面に敷いた。曲目はモーツァルトの『フィガロの結婚』に出てくる有名な劇中歌「もう飛ぶまいぞ、この蝶々♪」であった。Kさんが立ち上がって歩き出そうとするたびに、「もう飛ぶまいぞ、この蝶々♪」の軽やかな調べがフロアに鳴り響く。我々は、それが聞こえるとすぐさまKさんの元に駆けつけ、Kさんの体を抑えて、ふたたび車椅子に座ってもらう。あるいは、尿意を催して立ち上がったのであればトイレに誘導する。ほとんどの場合、帰宅願望の強いKさんは、家に帰ろうと出口を探して歩き廻るのだった。そんなときは手の空いている職員を見つけて、Kさんが歩き疲れるまで、フロアを手引き歩行してもらった。
 我々もKさんばかりを見ているわけにはいかず、結局数回転倒させてしまった。センサー(音楽)が鳴ってもすぐ駆けつけることができなかったのだ。一度は肩を骨折し、一度は顔の半分に大きな青あざができた。(「ファントム(オペラ座の怪人)みたい」と若い女性職員には好評だった。) 家族(息子さん)もしばしば来訪され事情は分かっていたので、全般協力的で、介護スタッフの苦労を申し訳ながっていた。
 数ヶ月過ぎ、入退院を繰り返してKさんも弱ってきた。椅子から立ち上がるだけの力を失い、居室や車椅子上で寝ていることが多くなった。我々も「やっとこれでKさんシフトから解放される」とホッと一息ついた。
 が、ここからがKさんの凄いところである。
 自力ではもはや立てない、歩けないことがわかると、なんとハイハイを始めたのだ。
 椅子から床に器用に滑り降りて、両手・両膝を床につき、フロアを赤ん坊のように這い回る。他の利用者が座っているテーブルの下、職員が事務作業するステーションの中、居室が並ぶ長廊下、夕食中であってもレク中であっても関係なかった。むろん、職員の制止はどこ吹く風。精神安定剤は出ていたが、終日効くわけではない。
 とりあえず転倒リスクはないと分かったので、我々は障害物を撤去し、Kさんの所在確認だけして、あとは放っておくしかなかった。そのうち入浴担当の職員が気づいたのだが、Kさんの両膝は打ち身のように青くなっていた。膝当てするようになった。
 Kさんはフロアを所せましと這いずり回った挙句、力尽きると、電池の切れたゼンマイ仕掛けのロボットさながら、その場で寝込んでしまう。自分が早番のとき朝早くフロアに上がってみると、廊下の突き当たりで芋虫のように寝転がっているKさんを見て、思わず笑った。聞くと、夜通し這っていたと言う。Kさんの寝顔は子供のように可愛かった。
 しばらくすると、ハイハイもできなくなった。車椅子上で一日こっくりこっくりするようになった。食事やおやつのときだけ職員の声がけで目を覚ます。大正生まれの人らしく、出された食事は残したことがなかった。「もう飛ぶまいぞ、この蝶々♪」の調べが流れることはなくなった。
 その後、Kさんは緊急入院した先で亡くなった。

 介護の仕事をはじめて丸3年、利用者である高齢者の抱える苦しみに‘鈍感’になっている自分に気づいてギョッとすることがある。勤め始めの頃は、施設生活を受け入れられず、帰宅願望で落ち着かない利用者に共感し、様々な‘問題行動’も無理からぬことだと同情していたのだが、現在はどうかすると、「なんでいい加減大人しくなってくれないんだろう」と管理者目線で遇している。
 一方で、ある程度‘鈍感’にならないと施設介護は務まらないとも思う。利用者の苦しみに深く共感してしまうと、どうにもならない現状(老い=苦)にやりきれなさを覚えて、介護者自身が鬱になってしまう。
 高齢者介護とはまた、本人はやりたがらないけれど本人の健康にとっては必要なことを本人に強いる現場でもある。断固として入浴拒否を続ける老女を浴室に連れて行き、数人がかりで服を脱がし、大声で叫び暴れる彼女を風呂場の床に敷いたマットの上に押さえつけて、手早く頭髪と体を洗い、一気にシャワーをかける。(もちろん家族了解の上だ)
心の声1 「これは虐待じゃないのか」
心の声2 「でも、何日も風呂に入れないでいることも虐待ではないか」
心の声1 「本人はあんなに嫌がっているじゃないか」
心の声2 「たとえば、子供が風呂を嫌がるからといって、何日も入浴させないで放っておく親がどこにいようか? それは親として失格だろう。認知症患者は子供と同じだ。」
心の声1 「・・・・・・・」
 こういう体験を重ねていくことによって、介護職員は次第に‘鈍感力’を身につけるのかもしれない。  

 入所して一カ月以上経つのに、なかなか集団生活に馴染めず、スタッフを手こずらせる‘対応困難利用者’を見ると、「勘弁してくれよ~」と思う一方で、最後の‘人間的な’闘いに力を振り絞った鳶のKさんをそのテーマ曲と共に思い出して、「あっぱれだったな、kさん」と一人ごちるのである。