上演日 2001年5月24日
会場  ベルゴーラ劇場(フィレンツェ5月音楽祭)
キャスト
太守セリム:マルクス・ヨーン(俳優)
コンスタンツェ:エヴァ・メイ(ソプラノ)
ベルモンテ:ライナー・トロスト(テノール)
ブロンデ:パトリツィア・チョーフィ(ソプラノ)
ペドリッロ:メフルザード・モンタゼリ(テノール)
オスミン:クルト・リドゥル(バス)
演出:アイケ・グラムス
指揮:ズービン・メータ

 まぎれもなく人類史上の天才の一人にして偉大なる音楽家アマデウス・モーツァルトの、数世紀も前に評価の決定した名作オペラについて、こんなこと言うのは勘違いもはなはだしいのかもしれない。
 が、やっぱりモーツァルトのオペラは退屈である。
 『後宮からの逃走』だけではない。『フィガロの結婚』も『魔笛』も聞いていて眠くなってしまうシーンが多い。『ドン・ジョヴァンニ』だけは、主人公の放蕩の末の地獄落ちで終わるドラマティックなストーリである上に、音楽もスピーディーで明暗のメリハリが効いているので、全編集中して聴くことができる。

 このライブも巨匠ズービン・メータの指揮する管弦楽良し、エヴァ・メイを筆頭とする歌手陣良し、美しく幻想的な舞台美術良し、と文句のつけようのない第一級の舞台なのだが、やはり冗長と感じる。
 このオペラが最初に上演された際、作曲を注文したヨーゼフ2世は「音符が多すぎる」と感想を言い、それに対してモーツァルトが「ちょうど良い数です、陛下」と答えたというエピソードがある。(映画『アマデウス』の中にこのシーンが出てくるらしい)
 自分もヨーゼフ2世に賛成する。
 音符が多すぎる。
 
 モーツァルトの交響曲や協奏曲を聴いて同じように思うことはまったくない。素人の自分が聴いても完璧である。ただの一音の追加も削除も必要でないと感じる。長すぎもせず、短すぎもせず、それなりの演奏であれば退屈することもない。
 オペラについてだけ冗長な感じを受けるのである。
 
 たとえば、全曲中最も有名なコンスタンツェのアリア『どんな責め苦があろうとも』(第二幕)は、低い音域から高い音域までコロラトゥーラの美声と華やかな技巧が楽しめる、聴いていて身の浮き立つような、一度聴いたら耳について離れないような、まさにモーツァルト印の傑作である。これをまた佐藤しのぶ似の美貌でプリマドンナとしての貫禄十分なエヴァ・メイが完璧なテクニックと品位ある情感を込めて、実に見事に歌っている。この歌唱を聞くだけでも、このDVDを見る価値がある。
 が、この曲、なんと前奏の長いことか!
 歌が始まるまで、少なくとも5分以上はかかっている。
 その間、舞台に立っているエヴァ・メイとマルクス・ヨーン(太守セリム)は、無言の振る舞いからなる二人芝居でつなげているわけであるが、やっぱりどうにもこうにも不自然である。間が持たない。
 マルクス・ヨーンはプロの俳優であるから、表情やら仕草やら、実に計算された凝った芝居を見せてくれる。拉致して匿ったコンスタンツェへの報われぬ愛に悩むイスラム国の太守を存在感たっぷりに演じている。実際、名優と言うべきであろう。
 だが、拉致された女性達が操を守ったかどうかというテーマだけで延々何十分も独唱や重唱を繰り広げるような、そもそもがナンセンスな筋立てのコメディで、こんな重厚な芝居をされてもなあ~。

 モーツァルトのオペラを芝居としてではなく、交響曲のように一つの音楽として聴くならば、第一幕=第一楽章、第二幕=第二楽章のように受け取るならば、おそらくそこに完璧を見ることができるのだろう。我々はどうしてもオペラを、芝居として、演劇として、物語として、見てしまうから、演劇的な時間感覚をそこに適用してしまう。
 100%音楽の人であったモーツァルトは、現代なら「発達障害」とされたであろうモーツァルトは、物語的な時間感覚に疎かったのかもしれない。