ありのままの自分に気づく

2014年角川SSC新書。

 初めて読む小池龍之介。
 書店の仏教書コーナーに、本人の姿写真を表紙カバーにした著書が積まれているのを良く見かけるが、肌のきれいな頭の良さそうな若いお坊さんというイメージがあった。ベストセラーとなった『考えない練習』や『超訳 ブッダの言葉』をパラパラと立ち読みして、日本のお坊様にしては非常に初期仏教(いわゆる小乗仏教)的だなあ~と思っていたが、ウィキペディアを読むと、なるほど「初期仏教の僧」と紹介されていた。

実父・小池法雄が住職を務める山口市の浄土真宗本願寺派正現寺副住職を務めていた。2010年(平成22年)に父の後任の住職に就職するため、住職申請を行ったが、本願寺派の教義に反した活動・出版をしたとして、不許可処分を受ける。そこで、宗派離脱の通知を行ったところ、2011年(平成23年)1月7日付で、月読寺の運営が、宗教法人浄土真宗本願寺派僧侶規程(宗則第9号)第12条の2に当たるとされ、破門処分を受け僧籍削除となる。同年、山口県知事から単立宗教法人化の規則変更の認証を受け宗派離脱した正現寺の第22代住職並びに同寺を運営する宗教法人の代表役員に就任。(ウィキペディア「小池龍之介」より抜粋)

 別記事で取り上げた『浄土真宗は仏教なのか?』を書いた藤本晃とまったく同じような処遇(または迫害)を浄土真宗本願寺から被って、独立している。時期もちょうど同じ頃だ。浄土真宗の本部で、最近はやりの初期仏教に‘かぶれて’好き勝手なことをする若いお寺の坊主たちを苦々しく思い、粛清する動きがあったのだろうか。
 ともあれ、読んでみると、まったくの初期仏教(=テーラワーダ仏教)である。
 ブッダの教えそのもの。
 すんなり入って、齟齬するところがなかった。 

以下、引用。

 私たちの脳は満足して幸せになりたがっているくせをして、実は必ず不満足に戻り続ける仕組みに、プログラミングされているのです。つまり、「満足したいのに、決して満足できない」という、拷問のようなゲームをやらされているとも言えるでしょう。絶対クリアできないような嫌なゲームは、私の子供時代には”クソゲー”と呼ばれていたものでしたが、釈迦が「一切皆苦」と宣言するとき、それは言わば「この人生は、仏道によって脱出しない限り、一生不満足なまま死んでゆくクソゲーだ」と言い放っているようなものです。

 私たちが「好ましい」「好ましくない」とか、「生が特別な価値あるもの」であるとか、「死が特別嫌なもの」であるとか、「老いは嫌なもの」であるとか価値付けているものは、主観というフィルターを離れて考えてみれば、それらに良いも悪いもへったくれもありません。あるいは、死に対して生が特別なものだとか、生に対して死が特別なものだというのも実際にはありません。それは、ありのままの世界においては単なる変化なのです。

 このように主観を通じて現実を捻じ曲げることで私たちは「自分のだ」「いつか満足できるものに出会うはずだ」「思い通りに物事を固定できるはずだ」と錯覚し、騙され続けているのですけれども、無常・苦・無我・不浄の薬により、捻じ曲げ方をゆるめていくことによって、客観(ありのまま)に近づいていく。圧倒的な客観(ありのまま)に、目を見開いていくという方向性。良い意味で諦めていくことにより、「こうしなきゃ」「ああしなきゃ」という無益な思考から、自由になる。
 その遥かな道を歩もうとするのが、仏道です。

サードゥ、サードゥ、サードゥ