善意からソーシャルワークへ 001

1907年原著刊行。
2014年筒井書房より邦訳発行。
 
 100年以上前の本である。
 が、いまだに古さを感じさせないところが名著の名著たるゆえん、改革者の天才の証である。

 メアリー・リッチモンド(1861-1928)はアメリカのソーシャルワーカーの先駆となった女性で、のちに「ケースワーク(個別援助技術)の母」と呼ばれるようになった。彼女の一番の功績は、この本のタイトルが示すとおり、「善意からソーシャルワーク」への道を切り開いたところにある。

 それまで欧米では、地域に住む貧しい人や病む人を助けるのは、教会関係者を中心とした篤志家や善意のボランティア達であった。むろん、公的機関も救貧院を作ったり、貧しい家庭に食糧や衣類の配給を行ったり、仕事の斡旋をしたりしていた。
 これらの活動の特徴は、一言で言うと「施し」である。そこでは、富める者を社会的にも宗教的(霊的)にもますます優位の賞賛すべき立場に押し上げる一方、貧しい者からは自尊心や自立心を奪い、「施し」への依存を高め、彼らをいよいよ堕落させてしまうことが少なくなかった。
 何日も飲まず食わずで餓死寸前とか、大雪の晩に泊まるところがないとか、といった緊急時の援助としては「施し」は役立つし、必要であることは明白である。が、長い目で見たときに「施し」では人は救えない。人間は簡単に現状に甘んじてしまうものであり、働かずに食える手立てをいったん知ってしまうと、楽な方向に流れるからである。だから、福祉ゴロなんて言葉も生まれる。

 そもそも、人を救うことなど誰にもできない。自分を救うことができるのは自分だけである。周囲ができるのは、そのための力の存在に本人が気づき、力を発揮できるように障害物を取りのぞく手伝いをすることくらいであろう。
 貧困家庭を訪問する慈善組織協会(COS)の友愛訪問の活動を通じて、リッチモンドが骨の髄まで悟ったのは、当人の自立・自律を育むように関わることの重要性と、当人だけを対象とするのではなく周囲の環境(家族・友人・近隣・職場・支援団体等)をよく知り、本人とそれらとの調整をはかっていくことの大切さであった。
 「自立支援」と「環境調整」――まさに現代まで続く社会福祉の基本理念、ケースワークの原点である。
 これは「施し」のような一時的、表面的、無差別、無計画な行動からは、決して達成され得ない。(とはいえ、ただ一回の「施し」が人の一生を変えることもあろう。)
 リッチモンドは、友愛訪問による多くの体験や知見の蓄積を科学的に分析・体系化することで、人を支援する上での効果的で汎用性ある方法論を打ち立てた。
 それがソーシャルワークである。

 リッチモンドは長年にわたり当時のケース記録を分析し、1917年に『社会診断』を発刊した。リッチモンドはこの『社会診断』でケースワーカーが共通に所有することのできる知識、方法を確立し、次世代のソーシャルワーカーを養成するための知識と方法を伝えようとした。(新・社会福祉士養成講座『相談援助の基盤と援助』中央法規)

 おかげさまで100年後の現在、我々は欧米のソーシャルワークを、体系的・学際的・包括的・総合的・専門的・実践的に学ぶことができる。自分が今学習中の通信教育のテキストなど、それこそ21巻からなる大著である。各巻のタイトルだけ挙げてみても、いかに現代のソーシャルワーカー(社会福祉士)が広範な知識と技術を身につけることを期待されているかが分かろうものである。
 
善意からソーシャルワークへ 002

 100年前に欧米で萌芽した慈善活動に関する新しい概念や方法論が、その後1世紀間の人間や社会に関する新たな知見や研究成果によって彫塑されながら次第に充実して、現代日本にここまで組織だって浸透していることに素直に感動を覚える。
 一方、ソーシャルワーク揺籃期の情熱や意気込みが全編から湧き出している本書に、すでに現在の社会福祉の仕事のキーワードがほとんど出揃っていることにも驚きを禁じえない。
 自立支援、環境の調整、他機関との連携、当事者の未来を視野に入れた具体的・現実的な支援計画を作ることの必要性、事実に基づいたアセスメントの重要性、公的資源よりインフォーマルな資源(家族や友人やご近所など)を優先すべきe.t.c.・・・・
 すべてはリッチモンドから始まったのである。
 そのうえに、本書には、自分が今勉強している専門用語や制度名や法律名だらけのお固いテキストには載っていない、ケースワーカーが貧困者に実際に関わるときに役に立つ‘金言’とでも言うべきエッセンスが随所に盛り込まれている。
 そこが何よりの魅力である。
 
以下引用。

 貧しい男性との友好的な関係を形成する過程で、しばしば苦労するのが、共通の話題づくりである。ここに、豊かな者と貧しい者に、最低でも1つの共通した話題がある。それは、彼らが共通して多くの不平をもっていることが認められることである。共通の不平のなかで、良い友好的な関係のきっかけをつくれるものは何なのか?である。もう1つの共通の話題は、その日のニュースである。非常に貧しい者さえ毎日の新聞を読むからである。

 留意すべきもう1つの事実は、貧しい人の近隣のつながりと相互依存の結びつきが、慈善事業によって弱められることがある。それは、そのような自然発生的で健康的な関係を考慮しないためである。豊かな地区、あるいは施し物が潤沢に与えられる地区では、貧しい人々がお互いに親切ではない。親切な人々の無差別の施しは、かえって近隣の相互支援的な雰囲気を全体的に低下させ、近隣の助け合いをなくし、不信と嫉妬を生む。

 衛生環境、家計費と収入、経歴、食料についての入念な研究をしても、何がその家族の喜びなのかを知るまでは、実は私たちは彼らを理解できていないのである。ある訪問員は、その家族と心から大笑いできるまでは、貧困家庭を理解したとは感じられないと述べている。訪問員がユーモアの精神に欠けていると、仕事はうまくいかなくなってしまう。貧しい人々も、陰気な人々が嫌いな点では私たちと同じなのだ。

 友愛訪問は、貧困家庭の喜び、悲しみ、考え、感情、および生活の全体像について、本質的にまた絶え間なく理解し、共感するものなのである。それがあれば訪問員は、救済やそのほかのことで失敗することはあまりない。もしそれがなければたいへんな失敗を、家族との慈善的関係においてしでかすことになるだろう。訪問員は、私に、友好的な感情に駆られて訪問し続けたけれども、自分たちが何らかの役に立ったのかわからないと述べた。
むしろ特に報告すべきことがないという訪問員が、最大の貢献をすることがしばしば見られる。

 かかわりを深めるために続けて訪問することにより、やがて訪問時に関心をもつ力が私たちの中に生じる。貧しい人々との接触において、私たちはいつもおおらかに自分を提示しているわけではない。彼らについて知ることに集中して、彼らが私たちについて聞きたがっていることを忘れてしまう。もしいつも同情を示す代わりに、私たちがそれを問うてみたらうまくいかなくなるだろうか? もし私たちが自分の友人の喜びと悲しみについて彼らが質問してくることに注目すると、しばしばすばらしいものがある。このような相互関係は彼らの恵まれない生活の幅を広げ、私たちとの接触をより人間的なものにする。

 ソーシャルワークが今のように体系化・専門化し、大学でも通信教育でも学べる学問として成立していることは、別の観点から言うと、マニュアル化・テクニック化・機械化が進んだということでもある。
 そのことによって失われてしまうものがある。
 一人の人間と一人の人間との‘今ここ’での関わりにおいて生じる言葉にできない‘何か’、それがなければどんなに立派で非の打ちどころない自立支援計画も無に帰してしまうような‘何か’、それあればこそ「支援する・支援される」の垣根を越えて両者が一緒にくつろげる‘何か’。
 その‘何か’を忘れないで社会福祉に関わっていきたいものである。