7月9日(木)
仕事が早上がりだったので、滅多に行かない、行く気もさらさらない新宿へ向かった。
イチヤの為ならどこへでも。
仕事が早上がりだったので、滅多に行かない、行く気もさらさらない新宿へ向かった。
イチヤの為ならどこへでも。
ミュージックテイト西新宿は、落語・演芸関係のCDやDVDや書籍を扱っているお店で、店舗の空きスペースを使って毎日のように落語会を催している。もちろん、自分は初めてお邪魔する。場所はJRの高架を挟んで西武新宿駅の裏手にある。

会場に入ると、落語関係のCDやDVDがぎっしり飾られた棚に囲まれた狭いスペースに、すでに10名くらいが着席していた。コアなイチヤファンはまだまだ少ない?
今日の演目は以下の通り。
1. 湯屋番・・・プー太郎の居候が銭湯の仕事を紹介される。むろんお楽しみは番台からの風景。
2. 王子の狐・・・美女に化けた狐を逆に騙してやろうと、男は女を割烹に誘う。
3. ろくろ首・・・嫁を欲しがる与太郎が紹介されたのは、美人で金持ちで立派な屋敷に住む娘。だが、娘に婿の来手がないのには相応の理由があった。
演目もそれぞれに面白かったけれど、枕というかアドリブというかMCというか、演目に入る前の雑談がイチヤのひととなりを伺えて面白かった。『ドラえもん』が好きで暇な時はYouTubeでドラえもん特集を観ているとか、小学生の頃ボーイスカウトに入っていたとか、大学時代100キロマラソンに参加して20時間歩いたとか、‘いかにもイチヤ’な感じで、憎めないキャラの由来を知った気がした。(自分もドラえもん好きで、高校時代に通学列車の中でコロコロコミックを読んで同級生に馬鹿にされた覚えがある。)
ときに、落語というのは話芸なわけだ。話が上手い、間合いやアドリブが絶妙だ、表情や身振りに味がある、小道具の使い方が巧みだ、客の波長を読んでそれにうまく合わせる柔軟性がある・・・といったあたりが評価のポイントになるのだろう。
これらは日々の稽古や師匠や先輩からの教えや数多くの高座の経験を重ねて、技として磨かれていく。むろん素質--素人でも話の上手い下手があるように--ってのも関係するとは思うが、努力や精進によって誰でも進歩できる部分である。
これらは日々の稽古や師匠や先輩からの教えや数多くの高座の経験を重ねて、技として磨かれていく。むろん素質--素人でも話の上手い下手があるように--ってのも関係するとは思うが、努力や精進によって誰でも進歩できる部分である。
一方、キャラは、生まれついての、あるいは幼少期に形成されて、その後の人生の基盤を成してしまう。「三つ子の魂百まで」と言われるように・・・。パソコンで言えばOSみたいなものだから、キャラを簡単に変えることはできない。せいぜいできるのは、自分の基本的なキャラを自覚して、その上で別のキャラを演じることだ。であれば、陰気な性格の役者も陽気な役を演じられる。派手で高慢な性格の女優も謙虚で貞淑な妻を演じられる。演技力は、自分の基本的なキャラとは違った性格の役柄を演じるところに発揮される。
落語は話芸だから話が上手くて笑いが取れればそれでまずは合格である。
だが、どうやらそれ以上でもある。
観客は噺家のキャラそのものを楽しみにも来る。「1対多」の相対する空間で、高座に座る噺家から知らずにじみ出るキャラを味わうのである。5代目古今亭志ん生が酔っ払って高座で眠っている姿を客は喜んで聴きに(観に)来たという伝説も、そのへんの事情を表しているのであろう。
たとえば、舞台役者が舞台で眠りこけて大事なセリフを飛ばした姿に拍手喝采する観客が想像できようか。音楽家が無愛想に舞台に登場し、表情もなくピアノ演奏し、笑顔なく立ち去ったとしても、その演奏自体がこの上なく素晴らしかったら、聴衆は惜しみない賛辞を送るであろう。音楽家のキャラはあまり関係ない。(深い意味では、キャラ自体が曲の解釈に関わっているのだろうが、観客はライブにおいて音楽家のキャラを楽しんでいるわけではない。)
たとえば、舞台役者が舞台で眠りこけて大事なセリフを飛ばした姿に拍手喝采する観客が想像できようか。音楽家が無愛想に舞台に登場し、表情もなくピアノ演奏し、笑顔なく立ち去ったとしても、その演奏自体がこの上なく素晴らしかったら、聴衆は惜しみない賛辞を送るであろう。音楽家のキャラはあまり関係ない。(深い意味では、キャラ自体が曲の解釈に関わっているのだろうが、観客はライブにおいて音楽家のキャラを楽しんでいるわけではない。)
漫才やコントなどはよくわからないが、落語は話芸であると同時に、キャラ芸なのだろう。
そんなことを思ったのは、今日のイチヤは緊張していたせいか、疲れていたせいか、演目それ自体はいつもほどの出来ではなかった。妙に集中力を欠いている箇所もあった。「ろくろ首」では、途中で大事なセリフ(「なかなか」)を忘れてしまい、客席から助けられるという一幕もあった。
でも、終わってみれば、客席からはあたたかい拍手が起こり、店内は明るいオーラーにあふれ、自分も一日仕事の疲れが癒され、満足して帰途に着いた。
失敗すらも愛嬌に変えてしまうキャラ。多少の出来の悪さをマイナスにせず、自らを笑い者にすることでエンターテインメントに変えてしまうキャラ。イチヤは芸の出来不出来より、客席との間に親密な関係が結べたかどうかを一番大切にしているのだろう。あるいは、そこが一番大切だと自然に思えるような育ち=キャラなのだろう。
演者が100点の出来と思っても、観客が50点しか楽しまなかったら、それはやはり50点である。演者が今日は50点だと落ち込んでいても、観客が100点楽しんだら、それは100点である。
50点を100点に変えてしまうのが、噺家のキャラの魅力なのだろう。
そして、これはもともとのキャラが「明るい」とか「優しい」とか「善良だ」とか「天然だ」とか「のんきだ」といった質自体の問題ではなくて、自らのありのままのキャラを受け入れて肯定している度合いによるのではないかと思う。
「こんな○○な自分をどうぞそのまま100%味わって楽しんでください」という開放性および観客への信頼が、キャラの魅力と映るのではないだろうか。
「こんな○○な自分をどうぞそのまま100%味わって楽しんでください」という開放性および観客への信頼が、キャラの魅力と映るのではないだろうか。
イチヤは、ドラえもんが好きな自分を愛しているのだろう。