日時  7月18日(土)13:30~
会場  中野ZERO小ホール
主催  日本テーラワーダ仏教協会

 今日は奇しくも同じ中野のサンプラザで同じ時間帯に、花園大学の佐々木閑教授による『ブッダのことば』と題する講演会(日本仏教鑽迎会主催)もあった。このブログでも取り上げた『科学するブッダ 犀の角たち』の著者である。南口を出ればZERO、北口ならサンプラザ。どっちに参加するか中野駅地下道で右に左に迷った。
 こんな贅沢な迷いはなかなか無いな。
 素晴らしいゾ、中野!

 本日のテーマは、金子みすず流に言えば「みんな違って、当たり前」ってところか。
 まず、「区別」「差別」「分別」の違いから話は始まった。

 区別とは、違い(差)を知ること。役に立つのは、区別能力そのものであって内容はあまり関係ない。たとえば、学校で学んだ数学が社会に出てから役に立たないからといって、「学ばなくていい!」ということにはならない。数学を学ぶことで区別能力を向上することができる。それは大切。ただし、区別能力はあくまで知識世界のものである。
 差別とは、区別に主観的判断を加えたもの。たとえば――今思いついた例であるが――「黒人と白人は肌の色が違う」は区別だが、「黒人より白人のほうが美しい」と言ったら差別になる。「美しい」は主観である。
 分別とは、「行うべきこと」と「行うべきでないこと」とを知って選ぶ能力。何をすれば幸福になるか、何をしたら不幸になるかを知っていること。分別能力は倫理世界のもの。仏教ではこの分別能力を育てることを重視する。

 では、「行うべきこと」と「行うべきでないこと」をどうやって見分けるのか。 
 判断基準は何か。
 キーワードとなるのは「自我」である。
 自我のある知識は、すべて危険なものとなる。社会を不幸にする。自分の欲・怒り・無知を動機に持つ行為は、最終的に幸福にはつながらない。
 自我を捨てると、必要な知識は存分に入ってくる。それは自分も社会も幸福にする。

 自我のせいで違いは苦しみに変わる。
 自我が無ければ、違いを見つけることは面白さに変わる。人は違いを見つけて楽しむことができる。
 むろん差別は起こらない。

 事実として、この世に同じものは存在しない。すべてが互いに異なっている。
 また、すべては無常であり、瞬間瞬間消滅し新たに生まれている。同じ事象は存在し得ない。
 人生において1コマも同じものはない。
 赤ん坊の「自分」、小学生の「自分」、大学生の「自分」、大人の「自分」、年老いた「自分」、講演の始まる前の「自分」、講演後の「自分」・・・・どれも同じではない。それらに共通して連続して存在し、それらを統括するような「自分」は存在しない。
 違いを知るとは結局「無常」を知ること。
  
 ・・・・といった内容であった。(ソルティの主観入り解説)

 「ああ、そうか」と思わず膝を打った長老の言葉。
 
  「仏教には‘戻す’という言葉はありません」
 
 ‘戻す’とは「元の通りにする」ことだが、すべては無常なので、あらゆる瞬間は一回限りで繰り返しはない。「元の通り」はあり得ない。同じ瞬間は存在しない。
 なんだか「存在(生命)」というのは、もの凄い激流に押し流されて、一時も休む間もなくどこかに運び去られていく木の葉のようである。
 「時」に掴まることはできない。
 本当は、あちらかこちらか‘迷って’いる暇さえないのかも・・・。