2009年5月刊行(文庫版2014年4月発行)。
確実なブッダ口伝の教えとしてテーラワーダ仏教(初期仏教)の世界で2500年以上前から伝えられてきた経典である。
沙門とは出家修行者のこと。
「仏教で出家すると、どんな果報(利益)がありますか?」というマガダ国のアジャータサットゥ王の問いに、ブッダが長時間にわたり順を追って丁寧に回答したものである。
戒律を守ることによる果報、サマタ瞑想(止行、四禅)による果報、ヴィパッサナー瞑想(観行)による果報(六神通)が、順を追って説かれ、また、冒頭部ではいわゆる「六師外道」の思想と仏教との思想比較も盛り込まれるなど、初期仏教のあり方を総合的に説明するとても貴重かつ代表的な経典となっている。(ウィキペディア「沙門果経」より抜粋)
問いかけを行ったのがアジャータサットゥ王であるというのがミソである。
この王は、ブッダの従兄弟でありながらブッダの命を狙い教団の分裂をはかった悪名高きダイバダッダに唆されて、実の父であるビンビサーラ王を幽閉・殺害して王位を奪ったとされている。仏典の代表的な悪人なのである。
その後、アジャータサットゥは自らの罪に懊悩し、ブッダのもとに赴き、悔い改めて仏教に帰依するようになった。ただし、育ててくれた親を殺害するという逆罪を犯したため、ブッダ直々の説法を聴いたにもかかわらず悟りに至れず、死後は地獄に堕ちたとされている。
例によって、スマナサーラ長老の解説は平易な日本語で分かりやすく、しばしば使われる喩えも適切で面白く、当時の時代背景や文化や習慣の説明も加えながら、古い仏典を生き生きと現代に蘇えらせるのに成功している。何より素晴らしいのは、日本の仏教研究者による翻訳と違って、ご自身がテーラワーダの一沙門であり、戒の守り手であり、瞑想の実践者にして指導者であり、沙門の果報をいままさに得ている立場の人による解釈である、という点に尽きる。13歳で出家して50年以上沙門として生きてこられ、自らの血肉となった体験に裏打ちされた言葉なのである。説得力は十全。実際、この経典のこれ以上のレベルの邦訳は考えられまい。
このような書を日本語で読める幸運に感謝するほかない。
以下、引用。
仏教の立場でいうと、人の話は否定か肯定かと先を急ぐよりは、まずそのまま理解しておいたほうがよいのです。理解というのは「認めた」という意味ではありません。仏教では人間は自由だとも、自由でないとも言わないのです。すごく複雑です。意志と言ったとたん、自分が自由なような感じがするのですが、なぜそんな意志が生まれたかということを見ると、そこに条件が出てきてしまう。ですから意志自体も、まったく不自由ではないのですが、自由でもないのです。仏教では判断力というものを大事にしています。正しく判断することができれば、正しい意志ができあがるというのです。仏教という哲学から見れば、生命の生きる目的は人格を完成すること、つまりありったけの煩悩をなくすことです。ひとことで言えば、仏法というのは存在に対する執着にあきれ果てるためにあるのです。存在を賛嘆するのではなく、存在のはかなさやみじめさ、いくら努力しても生きることは不安で空しく終わることを強調するのです。これは、一方的に生を賛嘆する俗世間の人々にとっては、素直に受け入れ難いかもしれません。でもそれが、聞く耳を持てるようになり、自分でも真剣に自分の生のことを考えるようになってくると、あきれ果てることができるようになります。仏教では、最終的に達するべき目的は明確です。輪廻を回転しながら生きることにはなんの意味もなく、それを脱することこそが、生命にとってはゴールなのです。ゴールに達したら、「やっと苦しみが終わった」「やるべきことは終わった」という絶対的な安心感が生まれます。その時点で一切の義務は終了するのです。
「生きる目的は何か?」という問いは、古来から人類の最大かつ最深なテーマであるが、仏教はすでにそれについて2500年前に答えを出している。
「生きる目的とは、もうこれ以上生きなくても済むようになること」
なるほど、仮に人類に‘生きる目的’が事前に明確に顕されていて、誰もが生まれつきそれを知っているとしたら、人は何の迷いもなくその‘生きる目的’を果たすために生きていくだろう。で、それが達成された暁には、「ああ、これで終わった。もうこれ以上生きる必要はありません」と終了宣言し、死ぬまでの残された時間を文字通り‘余生’として安穏に暮らすことだろう。逆に言えば、「もうこれ以上生きる必要はありません」と見切りがついた時点で、人は‘生きる目的’を達成したことになる。
人類が「生きたい、生き続けたい、生まれ変わりがあるなら再生したい」と願うのは、まさに「生きる目的」がブラックボックス化されているからという単純な理由による。回答がないという苛立ちがエネルギーとなって生き続けているのであろう。
それが無知(=無明)の正体なのかもしれない。
それが無知(=無明)の正体なのかもしれない。