2000年9月刊行。

 久しぶりにミステリーを読みたくなって古本屋に行って、広い店内のおそらくは何万冊もの本の中から、著者名とタイトルに惹かれ何気なく手に取ったのがこの本だった。内容やテーマにはまったく頓着せず、「第46回江戸川乱歩賞。全選考委員が絶賛」という文句だけで選んだ。
 
 連続猛暑日記録更新中の休日、冷房の効いた家でゴロゴロと読書するつもりであったが、なんとなく落ち着かず、バッグの中に本書を入れて炎天下に繰り出した。
 三鷹駅でJR最低区間の切符を購入し、「JR一筆書き・冷房読書ツアー」を挙行。
 ルートは、中央線で東京駅まで行き、武蔵野線に乗り換えて千葉県・埼玉県を大回りし、西国分寺駅でまた中央線に乗り換え、武蔵境駅(三鷹駅の隣り)で下車する。乗り換えや列車待ち時間を含めて約3時間。途中、東京駅で菓子パンと午後の紅茶ミルクティーを仕入れて、空いている車両で昼食を取りながら、丸一冊読破してしまった。家で読むより集中できるのが不思議。疲れたら車外の風景(新木場あたりから海が、舞浜でディズニーランドが見える)で目を遊ばせることができるし、ちょっとした旅行気分も味わえるし、乗降する様々な乗客たちを観察する楽しみもある。これは病みつきになりそう。

 一筆書きツアーの楽しさもさることながら、やはり本が圧倒的に面白かった。さすが江戸川乱歩賞。
 都会で起きた連続爆破事件の犯人を捕まえるサスペンス&アクションシーンから始まるので、「これはそういう物語か」と思っていたら、まったく違った。
 焦点となるのは、爆破事件の犯人ではなくて、その犯人を捕らえようとした一市民なのである。
 この男が表題の‘脳男’で、警察や精神科医を困惑させ、悩ませ、振り回し、挙句の果てに‘出し抜く’のである。本書の最大の謎(=ミステリー)は、爆破事件そのものではなく、この一人の男のパーソナリティや過去(来歴)や能力にある。その意味で、『羊たちの沈黙』(トマス・ハリス著)のレクター博士や、『すべてはFになる』(森博嗣著)の真賀田四季博士を連想する。つまり、常人には理解できない圧倒的な天才の話である。

 内容自体の面白さもさることながら、数万冊の書架の中から何の気なしに選んだ一冊が、よりによってこの本だったという事実が、なんだか不思議だった。
 というのも、この‘脳男’はある種の発達障害(自閉症と診断された)であり、生まれつき「感情を持たない」人間であるからだ。感情を持たない、すなわち‘自我がない’ということだ。
 本書の中で‘脳男’の精神鑑定を担当する女性医師が、こんなセリフを吐く。

 わたしたちという存在は無数の雑多な感覚の集積にほかならないけれど、聴覚、視覚、触覚などの五感からの情報は信じがたい速さで移り変わり流れ去っていくわ。それをひとつにまとめあげ、意味のあるものにしているのが自我というものよ。自我がどうやって形成されるかについてはだれにも正確なことはいえない。赤ちゃんの欲求と親の躾の葛藤の過程で徐々に形づくられていく。それくらいの説明がせいぜいというところ。文化や生活習慣や長じては主義や思想を学ぶことによって、感覚の雑多な集積でしかない人間は少しずつまとまりをもった存在になっていく。つまり、単にうつろいやすい感覚の集合体ではなく、確固として持続的な個人になるという訳ね。でも、あなた(ソルティ注:脳男)の場合は違っていた。(標題書より)

 これ、まったくのところ、仏教で言う「諸行無常」「諸法無我」そのものである。
 原始仏教経典とまがうような記述である。
 気晴らしに手に取ったミステリーが、結局、自分をまた仏教に連れ戻す。
 あたかも一筆書きのよう。 
 自分にとっては、それが何よりのミステリーであった。