2011年光文社刊行。

同じ社会学者の肩書きを持つ、顔と名前の売れている師弟の対談であるが、プロとしての力量差は歴然である。知識の差、経験の差、業績の差、社会的信用度の差、世間への影響力の差、交友関係の差、社会運動家としての実績の差・・・・。はじめから、同じ土俵に上がってがっぷり四つに組んだ対談は期待できない。新進気鋭の20代(当時)の社会学者が、功なり名を遂げた60代の社会学者に教えを乞う、インタビューして知恵を分けてもらう、というスタンスになるのは仕方ない。
その意味で、この本の価値の一つは、『おひとりさまの老後』『男おひとりさま道』『ケアの社会学』という著書を持ち、自他共に認める日本の介護問題のオーソリティたる上野千鶴子の胸を借りて、介護のことなど何も知らない(ように見える)古市憲寿が、介護保険制度をはじめとする介護をめぐる‘日本人なら知っておきたい’トピックについて、自らの漠たる介護不安を隠すことなく率直に問いかけ、それに対して上野が懇切丁寧に答えているところにある。
つまり、‘介護問題’の入門テキストとして――排泄や移乗といった具体的なケアの仕方についてのマニュアルではない――非常に読みやすく、わかりやすく、役に立つものとなっている。
たとえば、なぜ介護保険制度が必要とされたのか、その基本的な仕組みはどのようなものか、親が自分の介護者として望むのは誰か、親の介護にいくらお金が必要か、良い施設の見分け方・・・なんてことが取り上げられている。
介護の仕事に携わっている自分(ソルティ)は、興味深く、かつ、いちいち頷きながら読んだ。
以下、上野の発言から引用。
●介護には親子関係の歴史が反映する。だから、心配になったら、何よりもまず親と話してみること。それに尽きると思う。
ソルティ:介護施設で働き始めてすぐ気がついたことの一つに、「子供は、まさに‘自分が育てられたように’親を介護する」というのがある。叱られて育った子供は、ボケた親を叱りつける。親に振り回されて育った子供は、親(と施設)を振り回す。何くれと干渉されて育った子供は、何くれと親の介護に干渉する。
●介護問題の非常に深刻なところは、価格とサービスの質が連動しないこと。だけど子どもはそれを見て見ぬフリをする。なぜかというと、サービスの利用者とは、「高齢者ではなく家族」だから。
ソルティ:介護付き有料老人ホーム「Sアミーユ川崎幸町」の虐待事件を挙げるまでもない。かえって、有料老人ホームほど「高い金を払っているのだから」と利用者も家族も我儘になり、職員のストレスが高まるリスクは高いかもしれない。
●介護のタブーをまとめておきましょうか。まず若者に対して言いたいのは、介護のために仕事を辞めるのは絶対にダメってこと。・・・・・・・・それから第二に、できるだけ同居は避ける。なぜかというと、同居したとたん、介護が24時間になるから。別居していれば、介護はパートタイムになる。介護をするなとは言わない。してあげたければ、できる範囲でやったほうがいい。それなら通いで介護をしたらよい。つまり、距離を置くということが大事で、自分の暮らしの場を介護職場にしないっていう選択をするべき。余裕を失ったら、親も子も追い詰められるから。・・・・・・最後の一つは、一人っ子の場合。一人っ子の介護負担って、実はすごく重い。介護負担は分散できても、「介護責任」の分散はできないから。親の生き死にに関わる意思決定を、一人でしなければならない。だから、この場合も、親の意向をよく聞いておけば、自分の精神的な負担を減らすことができるよね。
ソルティ:現在介護職の自分は、親の介護が始まると、「仕事で介護、家でも介護」の介護尽くしの一日になってしまう。なるほど、同居は賢くない。
ところで、介護問題を中心に上野の根拠確かな知恵と潤沢な情報を引き出すだけなら、なにも古市を対談相手に持ってくることはない。光文社の編集者なり、フリーライターなりが、インタビューしてまとめればそれで済む。プロの編集者のほうが、よっぽど読んでわかりやすいように上手に筋道を立てて話を持っていけるだろう。上野から上手に話を引き出すテクニックもあるだろう。ある程度は事前勉強して臨むだろうから、より深く本質的な話が展開されるかもしれない。
古市にはそれは望めない。
そして、そこにこの本のもう一つの価値を見出すことができる。
上野と古市との関係は、ほぼ団塊世代とその子供の関係に相当する。その擬似親子関係による対談だからこそ、団塊ジュニアであり、若者のオピニオンリーダーでもある古市の発言を通して、‘いまどきの若者’のメンタリティを窺い知ることができる。上野の、あたかも物分りのいい聞き上手な母親のような作法が、それを巧みに浮かび上がらせてしまうのである。
その意味で、この対談の隠された真のテーマは、現代若者像を炙り出すところにあり、真のインタビュアは実は上野のほうなのかもしれない。
何より面白いのは、そのようにして自らが浮かび上がらせた団塊ジュニアのメンタリティを突きつけられて、上野自身が「絶句する」「あっけにとられる」「心胆寒からしめる」「二の句が継げない」「あきれかえる」といった反応に陥っているところである。
自分の手元には、新進気鋭の社会学者&フェミニストとしてブイブイ鳴らしていた頃の上野の対談集『接近遭遇』(勁草書房、1988年)という本がある。ここで上野は、それこそ当時の日本の知を代表する錚々たる顔ぶれの男達(吉本隆明、浅田彰、金子郁容、鴻上尚史、金塚貞文ら9名)と、まさに同じ土俵に上がってがっぷり四つに組んで渡り合っている。これだけ俊英なる男性論客と対等に議論できるほどの知性と言葉を持った女性論客は、上野以降出現していないのではないかという気がするが、それはともかく、この男性論客の誰一人とて、本書の古市ほどには上野を狼狽させていない。

たとえば、「親が死ぬのが怖い」という古市の言葉を、上野は理解できない。親が死ぬのは確かに悲しいけれど、同時に「肩の荷が下りる」「重荷が外れる」という解放感があるから、と上野は続ける。
上野 親より先立つのは親不孝だっていう気持ちはないの?古市 いや、あんまりないですね・・・・。もちろん親不孝だとは思いますけど、親より先に死んではいけないっていう規範よりは、親に先に死んでほしくないっていう気持ちのほうが強いかな。上野 じゃあ、親が生きてるあいだに自分が死ぬほうがラク!?古市 ああ、ラクですね。親が悲しむのはわかるんですけど・・・・。上野 自立したくないって欲望を突き詰めると、親がいるあいだに自分が死にたいって気持ちが出てくる。自分が庇護される側のまま、一生子どもとして生きて、子どものまま死にたい。団塊世代はこういう子どもを育てたのか!古市 そうかもしれません。親子の庇護関係を変えたくない、親のケアをするほうに回りたくないっていうのが介護不安になっているのかも。・・・・・・・・・・上野 親子という庇護関係が変わらないうちに、自分が庇護される側のままに死にたいってこと? 寛大なパトロンを一生失いたくない。そのパトロンがパトロンとしての力を持っているあいだに死にたい。こういう子どもを育てちゃったんだ。団塊世代は。怖すぎるわ。
対談相手が上野ではなくて、たとえば西部邁や曽野綾子や金美齢だったら、「あんた、性根が腐っている!」と机をたたいて憤然と席を立つことだろう。いや、西部や曽野のような保守論客でなくとも、ある世代より上の人間なら、いかりや長介のごとく「ダメだ、こりゃ」と吐き出して、対談をそうそうに切り上げることだろう。(それこそ古市の思う壺なのだろうが・・・)
古市を通じて窺うことのできる‘きょうび’の若者のメンタリティとは何か?
ジコチュー(自己中心的)――である。
むろん、古市憲寿という個人のパーソナリティに由来する部分も少なからずあるとは思う。古市と同世代の若者でも、上記の古市の発言に違和感を持ったり、憤りを感じたりする人間はいることだろう。
しかし、古市の書く本が話題となり、連日のようにメディアに登場して、若者世代のオピニオンリーダーあるいは代弁者として振舞っていることを思うと、やはりかなりの部分、いまの若者のエートス(特徴)を、彼と彼の言葉が代表していることは否定できないだろう。
といって、自分(ソルティ)は、古市を批判も非難も否定も断罪も揶揄もしない。できない。古市のさらけ出すエートスは、かつて「新人類」と言われた自分たち世代もかなりの部分共有するからである。ただ、上野が代表している「旧人類」の常識がどんなものかを知っているので、そしてその一部を幾分内面化してもいるので、古市ほど無自覚におのれの欲望をさらけ出さない賢さ(=狡さ)を持っているだけである。だから、古市の発言に心の奥のほうで共感する一方で、上野の狼狽する理由もよくわかる。
思うに、ジコチューの一番の原因は、新人類(1964東京オリンピック前後の生まれ)以降の世代は、「なにもかもお膳立てされた社会に産み落とされ、それをあたりまえとして育ってきた」というところにある。生まれたときに‘戦後’は終わっていて、焼け野原は消失し、高度経済成長に入って物資は豊かにあり、法や制度は自らの知らないところで機能しており、社会は「ほぼ完成されて」いた。たとえれば、‘旧人類’が「何もない焼け跡から苦労してディズニーランドを建設した、あるいはその現場を間近に見て育った」としたら、‘新人類’以降の世代は「生まれたときからディズニーランドにいた」のである。それ以外の世界を知らないのである。戦争も焼け跡も戦後の復興も、話としては聞いても、それもまたランドの一つの‘時代回顧型アトラクション’のように思えるのである。
お膳立てされた社会に生まれ育った人間は、当然、自分のために、社会が、親が、周囲が、動いてくれるものととらえる。自分からは何一つ動かないで(アクションを起こさずに)、周囲がやってくれるのを待つのが習性となる。まさに‘バカ殿’である。
このあたりの事情をよく表している古市と上野のやり取りがある。
古市 ただ意識調査を見ても、政治で社会を変えられると思う人が少ないというのは、日本の若年層の特徴です。政治の領域と、私生活の領域をリンクさせる仕組みが社会に用意されていないのは、問題だと思いますけど。上野 そういうときに「社会に用意されていない」って言い方が、私にはひっかかる。古市 自分たちでなんとかしろってことですか?上野 そうよ。これまでの世代だって作り出してきたんだから、古市 じゃあ自分たちで作らなきゃいけないんですか?上野 わお。それ以外に何かある?
まるで落語か漫才のようである。(って他人事にするな)
「あとがきに代えて」と題する古市への手紙のなかで上野はこう記している。
そういうナナメの立場から見た、団塊世代と団塊ジュニアの親子関係は、予想していたとはいえ、いやはや、というほかないものでした。自分と同世代の親の立場から見聞きしていた親子関係と、あなたのように子の立場から耳にする親子関係の証言とは、予想通りに符合し、わたしの世代はなんというジコチューの子どもたち、子ども部屋から永遠に出たがらない子どもたちを育ててしまったのか、と感慨を覚えました。
上野が古市のジコチュー発言に最後まで忍耐強く誠実に付き合えるのは、上野自身の類まれなる包容力や師としての後進への愛があるからにほかならないけれど、また一方で、古市のような若者を作り出してしまった一番の原因が、自分たち団塊世代の育て方にある、すなわち「全共闘的メンタリティ」にあることを自覚して、痛感しているからである。(橋本治はそれを一言で、「大人はわかってくれない」とくくった。)
全共闘に敗れ、長い髪を切ってスーツを着て、‘社畜’に転身した団塊の世代は、外見から見ると、自分たちがかつて否定した「大人」になったのだけれど、中味はずっと「全共闘の青年」のままだったのだろう。だから、自分の子どもも「大人」にしたくなかった。できなかった。
その結果をいま、成人しても自立(自活)できない子供にすねをかじられる、という形で引き受けている。そして、来たるべき団塊介護時代において、どんな形かは推測つかないが、文字通り‘身をもって’引き受けることになる。(そのときまで、自分は介護の仕事を続けているだろうか?)
子は親の鏡。
この言葉は、いつの時代でも、どこの国においても、真実である。