インターネットのミャンマー仏教書ライブラリーよりダウンロード&プリントアウトし、毎日少しずつ読み進めた。
 卓抜なる仏教解説書『仏教思想のゼロポイント』の著者、ニー仏こと魚川祐司が翻訳している。どうやらウ・ジョーティカ師は、魚川が私淑しているお坊さまのようである。

 ウ・ジョーティカ師はムスリムの家庭に生まれ、カトリックのミッション・スクールに通い、大学では電気工学を学んで、さらに結婚して二女を設け、それから出家して瞑想指導者になるという、複雑な経歴の持ち主である。
 それだけの複雑な人生を歩んできた方だから、当然、家族や周囲の人々との関係にも、複雑なコンフリクトが色々とあった。彼の著作には、そのことが包み隠さず書かれていて、それが彼の実践している瞑想によってどのように変化していったかが、豊富な知識と経験の裏打ちによって、丁寧に描写されている。
 世界の人々が、ウ・ジョーティカ師の著作を読んで感銘を受けるのは、彼が私たちと同様の日常的な問題に深く悩んだ上で、それを仏教の実践によって一つ一つ乗り越えているからであり、形而下的な煩悶と形而上的(に感じられる)瞑想の境地が、そこで有機的に結びついているからだろう。(Note「ニー仏」のページより抜粋)
 
 本書はたいへんな名著にして、涙が出るほど有難い実用書である。
 だが、仏教に関心のない一般の人にとっては何の役にも立たない。
 仏教に興味があっても瞑想をやったことのない人にとっても何の役にも立たない。
 瞑想は瞑想でも、サマタ瞑想――わが国で伝統的かつ大衆的に実践されている最も一般的な瞑想である――をやっている人にとっても何の役にも立たない。
 ただただ、テーラワーダ仏教に伝わる「悟りに至る瞑想」と言われるウィパッサナー瞑想を実践している人にとってだけ、はじめて役に立ち、実用書としての真価を発揮し得る。
 だから、本書が書物となって書店に並ぶ日が来る可能性は、今のところないだろう。(来てほしいけれど)
 その意味で、本書を邦訳して(無料で!)ネットに挙げてくれた魚川は、非常に良い業(カルマ)を積んだと断言できる。ウィパッサナー瞑想によって智慧を開発し悟りを目指す日本の仏教徒たちに、またとない指南書を提供してくれたのであるから。
 まずは謹んで感謝したい。
 
 ウィパッサナー瞑想の指南書としては、同じくミャンマーのマハーシ長老が書いた『ミャンマーの瞑想 ウィパッサナー観法』(国際語学社より1995年発行)という、すでに古典と言ってもいい名著がある。『自由への旅』はそれに勝るとも劣らない画期的な‘虎の巻’である。

ミャンマーの瞑想 001
 

 ウィパッサナー瞑想の凄いところは、きちんと瞑想のやり方をそれなりの師から学んで、教えられたとおりに日々真面目に実践すれば、「誰でも、必ず、同じような過程をたどって、前もって示されている智慧が現れて、前もって示されているある種の精神状態に達し、前もって示されているいくつかのスランプにはまり、前もって示されている11段階の智慧のステップを徐々に上がって、最終的に悟りに達する」ところである。
 つまり、普遍性と実証性とが、2000年のテーラワーダ仏教の歴史とその間の何十万人かの悟達者の存在によって証明されているのである。まぐれや偶然や生まれついての能力による悟りではなく、純粋に個人個人の精進による悟りが可能なのである。
 であるからこそ、テーラワーダ仏教徒が毎日読経する「ダンマ(法)の六徳」ではこう言っている。
 
 世尊の法は、
① 善く、正しく説き示された教えである。
② 実証できる教えである。
③ 普遍性があり、永遠たる教えである。
④ 「来たれ、見よ」と言える確かな教えである。
⑤ 実践者を涅槃に導く教えである。
⑥ 賢者たちによって各自で悟られるべき教えである。 

 普遍性と実証性がかくも高らかに宣言できる理由は、おそらくウィパッサナー瞑想が科学的根拠を持っているから、と自分は考える。すなわち、ウィパッサナー瞑想は人間の脳に影響を及ぼし、脳の構造を不可逆的に変容させる仕組みを持っているのではないかと思う。シナプスの接続変換とか脳内物質の増加とか普段は使用されていない‘残り70%の’脳細胞の活性化とか、なにかそんなことと関係しているのかもしれない。いやしくも人間の脳であればそこに共通した構造や働きが想定できるから、誰にとっても起こりうるわけだ。
 自分の場合、ウィパッサナー瞑想をはじめた当初、頭が締め付けられるような感覚をおぼえ、知恵熱のように頭の中が熱くなったのを覚えている。(実際に熱はなかった。)
 その後も瞑想をしていると、脳を下から突き上げるような痛みを感じたり、脳が頭蓋骨の中で前転したかのような奇怪な刺激を感じたり、脳の一部が空になったような突き抜け感を覚えたりした。前頭葉あたりがうずいて、そこから何かが額の裏を通って滴り落ちるような感覚もときに起こる。瞑想が脳に何らかの作用を起こしているという感じは拭えない。
 その真偽はともかく、自分がウィパッサナー瞑想を続けている理由は、明らかに「前もってテキストに示されている」通りの現象が、まったくその通りに起こり続けているので、瞑想の効用を信じないわけにはいかないからである。このまま行けば、いつかは悟りに達するのだろうと思わざるを得ない。

 本書でウ・ジョーティカ師は、ウィパッサナー瞑想の実践者がたどる階梯を、第一の智慧から始まって第十一の智慧に至るまで、そしてその先の涅槃(=悟り)について、詳しく丁寧に解説している。実際の瞑想合宿(リトリート)の場で、参加者を前にして行っている講話なので、非常に分かりやすい言葉で具体的に語られており、章末には瞑想に関する質疑応答もついている。魚川の訳も的確で、読みやすく、よどむところがない。ここでもまた『仏教思想のゼロポイント』同様、瞑想実践者ならではの深い理解が礎になっていることが感じとれる。
 そして、言い忘れちゃいけない本書の何よりの魅力は、魚川が上に示唆したとおり、ウ・ジョーティカ師の誠実で、率直で、賢明で、慈悲深いパーソナリティが全編漂っている点である。道を求める実践者をあたたかくサポートする師のまなざしは紙面の奥から読者に降り注ぎ、穏やかで心を落ち着かせる師の声は行間から読者の耳朶を震わす。瞑想すると、こんなに素晴らしい人格に至れるのだという見本のようである。
 実践者が、いつも手元に置いて繰り返し読みたい本である。(やっぱり、刊行してほしいな。サンガさん、お願いします。)

 以下、引用。
 
 実際のところ、ウィパッサナーの洞察智には、三つの洞察智、つまり無常・苦・無我しか存在しません。しかし、無常・苦・無我を経験する度合いの差異によって、諸々の洞察智が、異なることになるのです。
 
 瞑想において得た洞察智は、あなたの日常生活、あなたの世俗的な問題にも、適用が可能です。瞑想においてのみならず、人生全体を生きるための正しい態度を、あなたは育てる。あなたの人生全体にとって、それは正しい態度なのです。
 
 死ぬ準備ができている人には、生きる準備ができているのです。私たちのほとんどは、生命活動を行っているけれども、本当の意味で生きているわけではありません。私たちは生に対して、あまりにも多く抵抗している。私たちは本当の意味で注意を払っておらず、また人生から十分に学んでもいないのです。
 
 よいことであれ悪いことであれ、物事は私たちがそれに値するから起こるのです。ひとたびこのことを、非常にはっきりと理解すれば、あなたは非難することをやめてしまいます。自分の業を非難することすらやめてしまうのです。両親や政府を、非難することもやめてしまう。
 私たちはいつも非難しています。責任を、他者や状況に押し付け続けている。十分な責任をとってはいないのです。
 物事は自分がそれに値するから起きているということを、ひとたび理解すれば、あなたは学び、成長し、そして変化する。そうすれば、物事はどんどんよくなっていきます。
 
 涅槃へと導く唯一の道は、あなた自身の精神的と身体的プロセスを観察することです。


サードゥ、サードゥ、サードゥ