『自由への旅』を読んで、すっかりウ・ジョーティカ・ファンになってしまったソルティ。またもミャンマー仏教書ライブラリーよりダウンロード&プリントアウトし、毎日少しずつ読み進めた。

 この本は、80年代から90年代前半にかけて、ウ・ジョーティカ師が友人たちに書き送った手紙から編纂されている。師は1947年生まれであるから、30歳半ば~40歳半ばの知力・気力とも充実した、世間的に言うなら男盛りの脂の乗り切った頃に書かれた文章である。 
 そもそもが公表を前提としていない友人たちへの私信ということもあって、飾らない率直な表現、様々なテーマに関する個人的見解のストレートな表明、家族や友人たちへの惜しみない愛情と誠実さの発露――が特徴的である。僧侶としてのウ・ジョーティカ師ではなく、一人の人間としてのウ・ジョーティカの心の中を覗いているような気がするほど、書き手を身近に感じられる。
 また、古今東西のたくさんの哲学書や宗教書や心理学の本からの引用があり、師が並外れた読書家であることが伺える。インテリ中のインテリなのだ。

 一方、『自由への旅』は、師が50歳のときの講義の記録である。テーマも「ウィパッサナー瞑想」に絞られている。
 その意味で、二つの本を較べたときに、対照的な印象を受けるのは当然といえば当然である。
 が、そうした体裁上の違いばかりでなく、10年という歳月におけるウ・ジョーティカ師の瞑想者としての進化をどうしてもそこに感じざるを得ない。なんというか、筆致の無駄のなさというか、ある種の‘恬淡さ’を後発の書には感じるのである。枯淡の境地か。
 『スノー・イン・ザ・サマー』は掛け値なしに素晴らしい。仏道修行者(=マインドフルネスの実践者)必読の本である。仏教徒でなくとも、孤独や人生に悩む者もまた一読感じ入ることの多い名著であろう。これを書いた時点(年齢)におけるウ・ジョーティカ師の‘人として’の成熟は、畏れ入るばかりである。

 そして10年。
 それを超えてさらに進化していったのだ。
 それが可能なのがウィパッサナー瞑想なのだ。 


以下、引用。

 孤独というものは、自分の周囲に誰もいないことから来るものではなく、自分にとって重要であると思われる物事についてコミュニケーションがとれないこと、もしくは他者が認められないと感じるような見解を保持していることから来るものです。誰かが他の人よりたくさんのことを知っていたら、その人は孤独になる。
 しかしながら、孤独というのは必ずしも人付き合いと相反するものではありません。孤独な人ほど人付き合いに敏感な存在もありませんし、人付き合いが上手くいくのは、各個人が彼/彼女の個体性を心に留めて、自身と他者を同一化しない時だけだからです。

 あなたにできる最上のことは、心のいまある状態を、自身を責めたり正当化したりすることなく、それを違った状態にしたりそこから逃げ出そうとしたりすることなく、また後ろめたく思ったり恥ずかしく思ったりすることなく、認めて、気づいて、知ることです。

 自分自身と自分の生き方を本当に肯定できている時、はじめてあなたは、本当に他者を助けることができるのです。ですから、自分の心と深く繋がることが、とても大切なのですよ。

 私は、人々がどれほどさみしいか知っています。あなたがどれほどさみしいかも知っていますよ。私がどれほどさみしいかを、私は知っていますからね。私は自分の人生を、静かに、穏やかに、そして独りで暮らす仕方を学んできました。しかし、誰かと本当に心と心でふれあうことは、素晴らしいことだと思っています。
 私はたくさん苦しんで、それで僧侶になっています。
 私はもっと苦しんで、そうして人間になっています。

 私たちはそれぞれが、誰かが自分をさみしく感じないようにできるだろうと期待している。目的を果たす手段としての関係性は、常に失望に終わります。さみしさから逃げること。これが、私たちのほとんどが、ほとんどの時間を費やして行っていることです。

 真誠であり続けるためには、私たちは変わらなければなりません。きつくなり過ぎてしまった皮を脱ぎ捨てる蛇のように、私たちは自分の大好きな夢を脱ぎ捨てなければならない。きつ過ぎて息ができなくなったと愚痴をこぼす代わりに、より楽に自分が呼吸できるようにするために、私たちは古い皮を脱ぎ捨てて、新しい皮を育てなければならないのです。
 しかし、その新しい皮を脱ぎ捨てる時が来たら、ためらってはならないということも覚えておかねばなりません。いつだって、古い皮を脱ぎ捨てるというのは辛いことです。新しい皮は環境と接することに耐えられるほど、まだ十分に強くなっていないので、自分がとても脆弱で、ひどく感じやすい状態になってしまいますからね。