
上演日 2015年12月9日(水)
会場 東京芸術劇場コンサートホール(池袋)
出演
指揮 増田宏昭
チェンバロ 大藤玲子
ソプラノ 佐竹由美
アルト 渡辺敦子
テノール 小貫岩夫
バリトン 久保和範
合唱 立教大学グリークラブ、立教学院諸聖徒礼拝堂聖歌隊、一般参加者
管弦楽 立教大学交響楽団

第54回を迎える歴史と伝統ある催し。
聴くのは初めてである。
立教大学は日本聖公会系のミッションスクールで、設立当初の英語名称はSt.Paul's Schoolと言う。聖パウロはもちろんキリスト教の聖者の一人である。イエス・キリストの死後、熱心なユダヤ教徒だったパウロはキリスト教を迫害していた。が、ダマスカスへの旅の途上、イエスの声を聴いて回心したとされている。
聖公会は宗教改革の中からイングランドで生まれたキリスト教の一教派で、「英国教会」または「英国国教会」とも訳される。日本で宣教を開始したのは安政6年(1859年)年で、国内の信者数はおよそ58,000人。(ウィキペディア「聖公会」より)
第一部「預言と降誕」、第二部「メシアの受難と救いの完成」、第三部「死者の復活・永遠の生命」と、イエスの生涯を歌ったヘンデルの「メサイア」は、まさにキリスト教系の大学がクリスマスシーズンに‘平和を祈って’演奏するには、うってつけの楽曲だろう。
2003人収容の大ホールは9割がた埋まっていた。『第九』同様、年末の恒例行事にしている参加者(クリスチャンら)も多いようだ。
仏教徒である自分には場違いな空間なのだが、いい音楽に境界はない。学生たちによるみずみずしい合唱と管弦楽を聞けば、日頃の疲れも癒されるだろう。有名なハレルヤコーラスを歌えば――客席で起立して一緒に歌うのが慣例となっている――ストレスで鬱積しがちな心も「晴れるや!」

舞台中央上部に飾られた大きな十字架と、その下に居並ぶ白と赤のガウンを着た聖歌隊を見ると、なんだか懐かしいような気がした。
「なんでだろう?」
演奏途中でハッと気がついた。
子供の頃に観ていた『八時だヨ!全員集合』のドリフの聖歌隊だ。黒い法服の牧師姿のいかりや長助、仏頂面した荒井注、まだキャピキャピしていたキャンディーズ、八重歯の可愛かった小柳ルミ子らが、楽譜を手に雛壇に並んでいる姿を思い出した。自分の聖歌隊イメージの原点はドリフだったのだ。いや、おそらく、ある世代以上の日本人の、と言っても過言ではないだろう。
有名なハレルヤコーラス以外に知っている歌はあまりないので、途中ちょっと眠くなった。宗教音楽は重厚にして単調である。真摯なクリスチャンなら、すべてのフレーズにイエスの姿を想像し、感極まるのだろうが・・・。
でも、日本でも世界でも音楽は宗教儀式(祭礼)から生まれ育ったのである。大自然や神など、人間を超えたものに対する畏怖、讃美、畏敬の念の表現である。現代、我々は音楽というものを、喜怒哀楽や恋愛ドラマなどの人間的感情の表現手段と思いがちであるが、本来は違ったのである。そのことを改めて感じる機会であった。
ソリストや合唱団の美しく清らかな歌声と、ヘンデルの軽やかで優美で壮麗な音楽は、人間的感情を解放するベクトル(=天)に向かって心を浄化してくれた。
曲の終わりのクライマックスに、ソロトランペットとバス歌手の掛け合いがある。キリストの復活を告げるドラマティックで感動的な部分だ。
ここは間違いなく、立教大学管弦楽団のトランペット奏者(おそらくパートトップの4年生だろう)の一生にそう何回とない晴れの舞台であり、とてつもない緊張と試練の瞬間である。‘復活’が輝かしい、祝福に満ちたものになるかどうかは、このトランペットの響きにかかっているのだから。
今回のトランペット奏者(男性)ももちろん相当練習はしたのだろう。が、指が震えたのか、聴いていて苦しいところが多かった。
しかし、「メサイア」の精神を会場は持っていた。
会場全体、聴衆全体が、立教大学の学生の試練を応援しようという気概に満ちていた。
安くないチケット代を払ってプロの演奏を聴きに行くコンサートならブーイングでも出そうなところだが、無償で一生懸命演奏する若者の姿に誰が文句をつけられようか。
「がんばれ、がんばれ。あと少しだ」と応援している自分がいた。
終演後にトランペット奏者が浴びていたあたたかい盛大な拍手から、会場全体が自分と同じ思いで彼の演奏を聴いていたことが知られた。
そのとき、仏教徒である自分も、宗派を超えて、会場と一体となっているのを感じたのである。
アーメン
サドゥ、サドゥ、サドゥ