ゴールデンウィーク最大の音楽祭ラ・フォル・ジュルネも12回目となる。ソルティは最初の数回に参加した後、しばらく遠ざかっていた。関心がクラシック音楽から別の方向(山歩き、瞑想)に向いていた。音に関して言えば、自然の音や静寂にまさるものはないと思ったもので・・・。それは今も変わりない。
 ここ最近またクラシックを聴き始めている。
 自分はいつも、声楽以外のクラシックは、電話相談のカウンセリングをしているかのような向き合い方で、音に耳を傾けている。曲によって語られる内容に心を留める一方で、クライエント(=作曲家、指揮者、オケや独奏者)の声の抑揚や大小やアクセントや緩急を聴き、感情の込められている度合いをはかり、背後に隠されている欲望や恐れや悲しみや喜びの存在を察し、発話のタイミングや沈黙の濃さに心の推移を見る。
 実際、指揮棒が振り下ろされて数分たつと、いつも客席で目を閉じている。視覚情報がかえって邪魔になるからである。そうやって音の波動を全身で味わって、作曲家の意図や情熱や才能や人生を、また指揮者の想像力や解釈力や統率力や人柄を、オケや独奏者の技術や柔軟性や個性を、そしてそれら全体のバランスや統合された表現を堪能している。
 で、カウンセリングしているつもりが、いつの間にやらカウンセリングされていることを発見するとき、「いい音楽を聴いた」と思うのである。

ラフォルジュルネパンフ

 
 今回のテーマは「la natureナチュール―自然と音楽」。
 公式ホームページによれば、「ルネサンスから現代まで500年にわたる音楽史の中から、季節、風景、動物、天体、自然現象など、さまざまな切り口から選曲」したとのこと。
 5/3~5の三日間、東京駅と有楽町駅の間にある東京国際フォーラムでは、実に盛り沢山・魅力たっぷりのプログラム(約350公演)が、国の内外問わずバラエティ豊かな音楽家たちによって提供され、ビルの谷間をわたる風の中にも音符やト音記号が見えるかのようであった。総来場者約48万人を想定していたようだが、そのくらいにはなったかもしれない。どの会場も満員御礼。屋台の並ぶ地上広場は人だかりの山。クラシック好きの裾野の広さをあらためて感じた。

川端コレクションとラフォルジュルネ 004

川端コレクションとラフォルジュルネ 005
 

 ソルティは5/4の以下のプログラムに参加した。
  1. スメタナ:「モルダウ」(交響詩「わが祖国」から)
  2. シベリウス:「フィンランディア(合唱付)」
  3. シベリウス:劇音楽「テンペスト」op.109から序曲
  4. チャイコフスキー:交響幻想曲「テンペスト」op.18
  5. フィビヒ:交響詩「嵐」op.46
【1~2】 
指揮:曽我大介
管弦楽:リベラル・アンサンブル・オーケストラ
合唱:一音入魂合唱団
【3~5】
指揮:ドミトリー・リス
管弦楽:ウラル・ハーモニー管弦楽団

 1と2は、会場内の一番大きいホールにしつらえられた赤い八角形の大きな特設ステージで演奏された。いわば「音楽祭の顔」とも言えるメインステージ。チケットの半券があればだれでも入場できるので、公演と公演の空き時間を、雑談&カフェ&音楽鑑賞しながら過ごすのにうってつけ。自然と人が集まる。開演30分前に入場したときは、すでにステージの前後左右に並べられた椅子はすっかり埋まっていた。それからもどんどん人は増えていき、開演時にはおそらく3000人近くはいたであろう。舞台上の演奏家にとってはめったに味わえない大舞台である。
 ステージ裏の指揮者の顔がよく見える位置に陣取って、地べた座りして拝聴した。

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 指揮の曽我大介も合唱の一音入魂も、昨年《第九》コンサートで縁のあった人たちである。なので、自然と批評モードでもカウンセリングモードでもなく、応援モードになる。まだあれから半年も経っていないのに、緊張した表情で入場してくる合唱団員の顔ぶれに懐かしさを覚えた。
 リベラル・アンサンブル・オーケストラ(LEO)を聴くのもこれが2回目となる。立教大学交響楽団のOBによるアマオケだが、一番の特徴は何と言っても‘若さ’ならではの瑞々しい音の響きと疾走感。それが、チェコの深山の雪解け水が急流となって山を駆け下り、しぶきを上げながら森を抜け、さざめきながら足早に村を抜け、支流と合わさってモルダウ川を形成し、悠然とプラハ市街へ流入してゆく――そんな川の生涯と情景を眼前に浮かび上がらせる。モルダウを実際に見たことはないけれど、音で旅しているような錯覚を覚える。オケの性質に合った良い選曲だと思う。(その意味では、LEOはモーツァルトの「ジュピター」をやると映えるのではないか。)
 
 会場を移動し、3~5は海外からの参加アーティストである。
 指揮者のドミトリー・リスは1960年ロシア生まれ。チャイコフスキー、ラフマニノフ、ショスタコーヴィチなどの演奏で国際的評価を高めているらしい。
 テーマは「テンペスト(嵐)」。シェイクスピア最後の戯曲に基づいて作られた3人の作曲家の作品を聴き比べる面白さがある。
 まず、シベリウスの「テンペスト」は、実際の『テンペスト』上演に際してBGMのように流すために作られたもの。今で言うサントラ(映画音楽)みたいな感じか。序曲は、まさに嵐の情景描写そのものである。純粋に音による写実。シベリウスの音楽を「抽出写実主義」と評するのは、あながちはずれてもいないと思う。音楽も面白いが、指揮台のリスの予測のつかない激しい動きのほうが「嵐そのもの」といった感じで楽しめた。
 チャイコフスキーの「テンペスト」は2回目である。前回は、宝石で飾られたオルゴール箱のような美しく可愛らしい作品と思ったが、どうしてどうして。指揮者が違うと、こうも違うか。今回の演奏を聴いて、この作品に対するチャイコフスキーの真意を知った気がした。前回久保田昌一指揮で聴いた時は、はじめに激しい「嵐」があって、船が漂着して、「嵐」とは対照的な美しく穏やかな「愛の物語」が始まるという解釈で止まっていた。
 が、リスは「愛の物語」こそが「嵐」そのものにほかならないのだと、聴く者に伝えるのである。両者は対照されているのではなく、融合しているのである。
 もちろん、同性との恋に苦しんだチャイコフスキーの意図はそちらにあるだろう。自然(情景)は人間感情(心理)と呼応する。であればこそのロマン派である。
 可愛らしい姓とは真逆のライオンのように獰猛なパフォーマンスが表しているように、ドミトリー・リスは激しさを表現する大胆さと情熱にあふれている。自身‘愛の嵐’をしかと経験しているのだろう。
 久保田はカリスマ性を秘めた有望な指揮者だとは思うけれど、激しさは希薄だったものなあ~。
 やはり、いろいろな指揮者で聴いてみるものである。

 今回、最大の収穫は、ズデニゥク・フィビヒ(1850-1900)という作曲家を知ったことである。
 スメタナやドヴォルザークと共にチェコ国民楽派の基盤を作った作曲家で、49歳という若さで亡くなっている。チェコ民謡や舞踏の要素を取り入れた作品を多く発表しているが、作曲技法の面ではドイツ・ロマン派の流れを汲んでいると言う。
 そういった背景を知らずにはじめて聴いたフィビヒの「テンペスト」。
 大変に優雅で美しい。
「こんなに優雅で美しい‘嵐’などあるものか」と突っ込みたくなる前に、その繊細にして無限な彩りを放つ美しさに陶然としてしまう。虹色の嵐か。
「こっちがシベリウスじゃないの?」と会場入りの際に配布されたプログラムを再度確認してしまったくらい、シベリウスの『春』に匹敵するような名曲である。叙情でも叙景でもなく、物語でも絵画でもなく、人でも自然でもなく、純粋に音楽的な美で輝いている。
 3曲の「テンペスト」で勝敗をつけるなら、フィビヒが一等であろう。

我々は夢と同じ物で作られており、われわれの儚い命は眠りと共に終わる。(シェイクスピア『テンペスト』第4幕)

 そう。あらゆる芸術の中で、音楽の美こそ儚さの象徴たりうるのである。一瞬にして生まれ、一瞬にして消え、二度と再現できないゆえに。

 フィビヒとリスによってすっかりカウンセリングされて、家路に着いた。