上演日 2016年4月2日
劇場 メトロポリタン歌劇場(ニューヨーク)
キャスト
蝶々さん:クリスティーヌ・オプライス(ソプラノ)
ピンカートン:ロベルト・アラーニャ(テノール)
スズキ:マリア・ジフチャック(メゾソプラノ)
シャープレス:ドゥウェイン・クロフト(バリトン)
指揮:カレル・マーク・シション
演出:アンソニー・ミンゲラ

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 改築して高層ビルを背負った歌舞伎座を見上げつつ、銀座東劇に足を運ぶ。
 今シーズンのMETライブヴューイングもあと2つの演目(『ロベルト・デヴェリュー』『エレクトラ』)を残すのみ。4月2日に現地で成功裡に幕を閉じた『蝶々夫人』を約一月半後れで視聴した。
 

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 このプロジェクトは、『イングリッシュ・ペイシェント』(1996年)でアカデミー作品賞・監督賞を獲得し、マット・デイモン主演『リプリー』(1999年)、『コールド・マウンテン』 (2003年)、『こわれゆく世界の中で』(2006年)などの話題作を次々発表するも、54歳の若さでガンで亡くなったアンソニー・ミンゲラ(1954-2008)が最後に演出した作品として名高い。つまり、ミンゲラの遺作の再演である。
 ソルティははじめて観たが、評判の高さも無理からぬと十分納得し得る見事な演出である。
 明治時代の長崎が舞台のこのオペラに障子や着物や提灯といった日本の伝統的風物が出てくるのは当然であるけれど、それらが純日本式に使われるのではなく、様々にアレンジされ、物語の儚さと幻想性を高めるのに効果的に用いられている。舞台を左右に自在に滑り演技空間を随時作り出していく障子、女たちのまとう極彩色の着物はまさに蝶々、身からさまよい抜けた魂のように宙を舞う提灯、折り紙で作られた影絵のような鳥の群れ、蝶々さんの愛息はなんと文楽人形・・・。これら日本的な文物を、歌舞伎や文楽で我々にとっては馴染みの黒子たちが縦横無尽に操る。日本の伝統芸を演出の根幹におきながら、そこに独創的な工夫や組み合わせの妙を取り入れて、ミンゲラ独自の世界を作り出している。だからこそ、花嫁である蝶々さんではなくて、なんと蝶々さんの母親が、白い角隠しをつけて舞台に登場しても、そこで突っ込みを入れる気にはならないし、吹き出すこともない。
 格調の高さと幻想的な美が融合した幻影のような舞台と言える。

 主役のオポライスはラトヴィア出身のソプラノ。艶のある声と美貌とモデル並みのプロポーション、そして抜群の演技力とを兼ね備えている。声の表現が一本調子で十代の少女の繊細さに欠ける向きはあるものの、失恋の絶望から自決へと向かうクライマックスの鬼気迫る表情と演技は、全ての不備や不満を凌駕する。立ち居振る舞いもいっさいの無駄なく、優美である。
 ピンカートンのアラーニャは、はまり役。能天気な輝かしい力強い高音は、傲岸な若さに満ちた思慮の浅いアメリカ青年を寸分の狂いなくとらえている。実年齢は52歳というから、これは見事な声による表現と言えよう。
 二人の主役と同レベルの喝采に値するのは、スズキを歌ったマリア・ジフチャック。親類縁者に見捨てられ独りぼっちになった蝶々さんに最後まで忠節に深い愛情を持って仕える。主役の蝶々さん以上に伝統的な日本女性の鏡=大和撫子はスズキであろう。ジフチャックはこの地味な役に命を吹き込んで、ただの家政婦・付き人・引き立て役から、蝶々さんの友人・母親代わり・感情の増幅装置へとスズキの位置を押し上げている。まさかスズキの演技に涙するとは思わなかった。
 ジフチャック、誰かに似ていると思ったら、一時世間を騒がせた狂言師和泉元彌の母・和泉節子にそっくりである。

 ときに、蝶々夫人は日本人にとって特別なオペラである。日本が舞台で、登場人物のほとんどが日本人で、日本文化が――いろいろとおかしな点はあるにしても――描かれ、『お江戸日本橋』や『さくらさくら』など日本の唄が採用されているから、というばかりではない。
 ‘戦後の日本人’にとって特別なオペラだと思う。
 このオペラの原作となる物語が、アメリカの弁護士ジョン・ルーサー・ロングによって書かれ、劇作家デーヴィッド・ベラスコによって戯曲化され、ジャコモ・プッチーニによって作曲されたのは19世紀から20世紀の変わり目である。日本は文明開化の真っ只中で、植民地拡張に明け暮れる西欧の列強に脅威を感じ、富国強兵・殖産興業に努める一方、黒光りする船によって‘処女’を奪った男=アメリカのご機嫌をひたすら伺っていた。この日米関係を背景にこの男女の悲劇の物語は生まれたのである。
 それから半世紀。べラスコもプッチーニもさすがに予想しない事態が起きた。
 ――太平洋戦争。アメリカに原爆を投下され、日本は降伏。白船(飛行機)に乗ったマッカーサーがやってきて、GHQによる日本改造が始まった。パンパンという名の‘慰安婦’による米兵接待。あまたに産み落とされたテテなしの混血児。またしても蝶々夫人の再来・・・。
 日本国憲法と日米安保条約とに縛られて(守られて?)、軍隊も武器も持てない日本の国土にアメリカ軍とアメリカの武器とが今も滞留している。いわば‘セカンドレイプ’され、今度は二度と歯向かえないように目隠しに猿ぐつわされて柱に縛り付けられたわけである。
 親切な口ぶりで男は言う。「安心しなさい。お前を他の男から守ってやるよ」
 でも、私たちは薄々気がついている。男には母国に正式な結婚で作った妻子がいて、その家庭の平和と利益を守るためなら、親類縁者から見放された遠いアジアの娘など歯牙にもかけないだろうことを。
 
 政治的な話をするつもりはない。何かを主張したいわけでも、議論したいわけでもない。
 ただ、戦後70年以上続いているこのような日米関係のいびつさの中で『蝶々夫人』というオペラを聴くときに、おそらくは日本で初演されたとき(1921年)に同胞が聞いて感じた以上のある種のやるせなさと哀しさを伴った感慨を、21世紀に生きる日本人が持ってしまうのは無理からぬ話ではないか。蝶々さんの末路に胸がかきむしられるのも仕方ないではないか。
 それだけが言いたいのである。

 ピンカートンが蝶々さんの住む長崎の家を「999年の契約で借りた」とあざ笑うときに、いつも日米安保条約を想起してしまうのはソルティだけであろうか。