都民交響楽団 001


日時 2016年7月31日(日)14時~
会場 東京文化会館大ホール(上野)
指揮 末廣誠
アルトソロ 菅有実子

 マーラー交響曲第3番ニ短調は、「世界で一番長い交響曲」としてギネスブックに載っていたそうである。
 その後もっと長い交響曲が次々と作られた。ルーマニアの作曲家ドミトリー・ククリン(1885-1978)の交響曲第12番は演奏時間なんと6時間に及ぶと言う。実際に全楽章一挙に上演されたことがあるのかどうか不明だが、ここまで来ると「長くするだけなら誰だってできるよ。問題は質だよ」と軽口の一つでも叩きたくなる。
 現在でも世界中で頻繁に上演されていて、質も評価も人気も高く、クラシック愛好家がこぞって聴きに行く交響曲――という条件を課すならば、マーラーの第3番こそ「一番長い交響曲」と言ってさしつかえないだろう。
 全6楽章、合わせて100分ある。
 ベートーヴェンの《第九》が60分強ということを考えれば、100分は異常に長い。映画の100分は結構短く感じるものだが、音楽の100分はいかに?
 退屈しないだろうか。
 眠らないで聴けるだろうか。
 途中でトイレに行きたくならないだろうか。
 満席の会場で閉所恐怖症が勃発しないだろうか。
 ・・・・・・ 
 はじめてライブで聴くにあたり、いろいろ懸念はあった。
 というのも、この曲を最初から最後まで通して聴いたことがなかったからである。
 
 ソルティが持っているCDは、レナード・バーンスタイン指揮、ニューヨーク・フィルハーモニック演奏の1961年録音版である。これは、ソニー・クラシカルが1990年に『バーンスタイン マーラー:交響曲全集』という16枚組みのボックス仕様で発売したもので、10の交響曲のほか、交響曲「大地の歌」、歌曲集「なき子をしのぶ歌」「少年の魔法の角笛」が入っている。当時日本はマーラー人気が凄かった。お酒のCMのBGMに「大地の歌」の一節が使われていたのを覚えている。
 このBOX、当時確か2万円近くしたと思う。大学を出て最初に勤めた会社を退職するときに上司だったHさんから餞別としていただいたのである。むろん、ソルティがマーラー好きを公言していた為である。今思うに、本当に自分みたいな「生意気で協調性のない、たかだか5年ばかし勤めた使えない‘新人類’社員」にこんな高価なものをくれたものだ。よっぽどソルティが目の前からいなくなるのが嬉しかったのだろうか(苦笑)。

都民交響楽団 002
 
 以来、「今日は1番、今日は5番、今日は歌曲かな」とその日の気分に合わせてBOXからディスクを一枚選んでは時折聴いていた。
 やっぱり、映画『ベニスに死す』で有名なアダージョのある5番、若々しく聞きやすい1番「巨人」、霊妙な美しさが快眠を約束する4番、もろ東洋風の「大地の歌」あたりが聴く頻度が高い。一方、2番「復活」、3番、6番「悲劇的」、7番「夜の歌」、9番は個人的にとっつきにくく、最初から最後まで集中力を持って聴くのが困難で、貰った当初に2、3回聴いた後は宝の持ち腐れ状態になっていた。とりわけ、3番は前述のとおり長いので全体像が把握しづらく、聴いている途中で眠ってしまったり、気が散ってしまったりで、その真価が分からなかった。
 端的に言って、まだマーラーを理解できるレベルに達していなかったのだろう。(「好きだ」なんてよく言えたものだ)

 今回の演奏会は事前申し込み制で、抽選により招待券が送られてくる仕組みであった。つまり入場無料である。「これは利用しなくては!」と申し込んだ。
 どうせ聴くなら十分楽しみたい。
 招待券が届いたその日から予習が始まった。
 仕事から帰ると、上記のバーンスタインのCDをBGMのように流す。食事しながら風呂につかりながら寝入りながら耳になじませる。BOX付属の解説書やウィキペディアを利用して各楽章のテーマや構成や聴きどころを学ぶ。休日は、楽章ごとに分けて集中して聴き、主題(第1主題、第2主題)を聴き分け、ホルンやクラリネットなど独奏部分を押さえる。歌唱部分(第4楽章、第5楽章)については和訳を読みながら聴いた。
 《第九》を除けば、一つの曲をこんなにじっくり調べたのははじめてかもしれない。
 
 当日は昼ご飯を抜き、会場近くのカフェで「ごまバナナジュース」で滋養をつけた。
 直前にトイレに行き、最後の一滴までしっかり絞る。
 準備万端、客席に着いた。
 9割以上の客入り。席は4階のほぼ正面最後列であった。
 
 都民交響楽団を聴くのはたぶんはじめて。アマオケの中では新交響楽団と並び称される実力との評判。この招待システムでいつも1000名を超える観客を集めている。入団時だけでなく入団後も4年に1回の更新オーディションを課している。質の高さは自他共に認めるものと言っていいのだろう。
 指揮の末廣誠は1994年から2005年まで都民交響楽団の常任指揮者をつとめ、その後も数多くの共演を重ねている。団員からの信頼の最も厚い指揮者であろう。配布されたプログラムには、末廣自らによる曲目“快”説が4ページにわたり載っていた。これが軽妙洒脱、面白くて親切で‘読ませる’。『マエストロ・ペンのお茶にしませんか?』というエッセイを出しているようだが、ぜひ読んでみたいと思わせる文才である。

 まず初めに、今日演奏する作品は全部で約1時間40分かかります。途中で休憩は挟みませんので、御用をお足しになりたい方は、読んでいる場合ではありません! すぐさまそちらを優先されるようお願いします。(パンフレットより)


 末廣の指揮棒が動いて、休憩なしの100分1本勝負が始まった。
 出だしのホルンの壮麗なこと! 
 8本のホルンが一糸乱れず揃って、1本の巨大なホルンのように高らかに鳴り響いた。よっぽど8人揃って練習したに違いない。この先への期待で背筋がゾクゾクした。
 オケのレベルの高さは評判に違わない。弦楽器、金管楽器、木管楽器、打楽器、ハープ、どれもが自信を持って音を出していて、明確かつ艶がある。トロンボーン、オーボエ、クラリネット、ポストホルンなどの独奏部分では、それぞれの奏者の月並みでない技量と曲想に対する感性のしなやかさが伺える。各楽章のフィナーレの迫力は4階席のソルティを、脱水中の洗濯物のごとく、椅子の背に張り付けた。
 たいしたものである。
 そもそもこの第3番を――高度な技術と深い解釈力と多様な表現力、かつそれらを100分間持続しながら完走できるだけの体力と気力とが要求されるこの難しい曲を――上演できること自体、オケの力量と自信の表明であろう。いったい、クラシック愛好家の耳をそれなりに満足させるレベルでこの大作を上演できるアマオケが日本にどれくらい存在するだろうか?
 特に、第1楽章と第2楽章はオケと指揮者の緊張感がいい方向に作用して、非常に緊密度ある純度の高い音楽が楽しめた。「このまま最後まで行ったら凄いことになる」と思うほどに・・・。第3楽章でやや失速した感があった。
 だが、失速したのは聴き手の耳のほうだったかもしれない。第2楽章までですでに40分以上集中力を保ってきたのだから。
 人間の生理として、同じ強さの集中力が持続できるのはせいぜい40~50分だろう。学校の授業を思いかえせば了解できる。このあたりで休憩を入れるか、あるいは全身の緊張を解いてリラックスできるような調べ(たとえばアダージョ)を入れると、その後の楽章に向き合うエネルギー補填ができる。(ベートーヴェンの《第九》は約30分経過したところで第3楽章アダージョに入る)
 この曲の場合、第4楽章のアルトの深みある独唱(菅有実子さんは姿も声も美しく眼福&耳福!)と第5楽章の児童合唱団の何とも心洗われる純粋なボーイソプラノによって、ここまでの疲れが癒される仕組みになっている。あたかも使用する脳が左脳から右脳に切り換わるかのように、別の部分の脳細胞が新たに刺激を受け働き出し、これまで酷使してきた脳細胞に一時の休息が与えられる。実際、純粋な器楽音楽を聴くときと、歌唱付きの音楽(人間の声)を聴くときとでは、聴き手の脳の働きは異なるのではないだろうか。
 
 そういうわけで、いよいよラストの第6楽章に入ったとき、ソルティの脳は右も左も全開であった。脳のすべてで、すなわち心身のすべてで、マーラーの音楽を受け入れ、身をゆだね、心地良くシートに溺れることができた。
 
 この第6楽章をなんと形容したらいいのだろう?
 
 朝露に濡れて蕾をひらく真紅の薔薇。
 夜明け間近の山間にたなびく紫雲。
 宇宙飛行士が目にする自転する青き地球。
 激しい戦闘が終わった焼け野原に降り注ぐ最初の雨。
 人類が目撃した最初の陽の出。
 人類が見る最後の日の入り。
  
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 第3番は自然を表現したものと言われる。
 実際、そのとおりなのだろう。が、第6楽章を聴いていると、人間も自然も含めた‘偉大さ’に対する畏敬の念のようなものが湧き起こる。
 西洋人ならそれを「神」とか「愛」とか呼ぶだろう。
 仏教徒のソルティは「慈悲」と呼びたい。

 第6楽章が聴き手を誘う桃源郷は、それまでの75分の地上的かつ人間的感情のマグマあっての爆発であり飛翔である。
 これほどの至福が待っているのなら、100分なんて屁のカッパ。
 
 Hさん、ありがとう。
 ようやく自分もマーラーを聴けるようになりました。