1870年原著発行。
1988年東京創元社・創元推理文庫より刊行。
英国が生んだ大作家チャールズ・ディケンズ(1812-1870)の最後の作品にして未完のミステリーである。
中途に終わったミステリーくらい‘じれったい’ものはなかなか見つかるまい。登場人物がほぼ出揃い、殺人がすでに起こり、探偵らしきも登場し、これからいよいよ謎解きと真犯人追求と真相解明が始まるというところで筆は絶たれた。その日も朝から晩まで精力的に執筆していたディケンズは、夕食後、脳卒中で倒れ、還らぬ人となったのである。
結果としてこの作品は真相をめぐる白熱した議論を呼び起こすことになった。訳者の小池滋の解説によると、「原作を補って完結させたものや、解決についての論文その他は、何十という数にのぼる」そうで、中には登場人物の一人が名探偵シャーロック・ホームズをベイガー街に訪問して謎の解明を依頼するという小説(『エドウィン・ドルードの失踪』ピーターローランド著)さえある。
このミステリーファンを惹きつけてやまない「未解決の謎」を‘全米’がほうっておくわけはなく、1985年にルパート・ホームズ(!)の手によってコメディ・ミュージカル(!)に仕立て上げられ、ブロードウェイで大当たりをかまし、トニー賞5部門受賞した。日本でも今年4月に、山口祐一郎、今拓哉、壮一帆、平野綾ら出演によりシアタークーリエ他にて上演された。
このミュージカルの最大の魅力は、結末が288通りも用意されているところ。未完という点を逆手にとり、観客の拍手や投票によりその日の結末が決まる「観客参加型」の奇想天外なミュージカルなのである。「ディケンズが見たら、聴いたら、何て言うだろう?」と想像すると楽しいが、150年近く前の未完の小説が現代に至るまでこれほど話題を提供し続けているという、まさにそこに文豪ディケンズの凄さがある。
というのも、この作品は単純な推理小説(パズルミステリー)をはるかに超えて、人間心理のミステリーになっているからである。
謎とは何か。
ソルティも素人探偵に名を連ねたい。
舞台はイギリスの古い田舎町クロイスタラム。大聖堂を中心に静かで平和で単調な日常が営まれている。クリスマスイヴの嵐の夜、前途洋々たる青年エドウィン・ドルードが行方不明になる。彼の後見人であり町の聖歌隊指揮者である叔父ジョン・ジャスパーを柱とする懸命の捜索もむなしく、エドウィンは見つからない。まもなく川の堰でエドウィンの懐中時計が、川底でシャツ・ピンが発見され、殺された可能性が高まる。最後まで一緒にいたのは、不幸な生い立ちを持つ短気な青年ネヴィル・ランドレス。町に来たばかりのネヴィルは、エドウィンの子供時分からの婚約者ローザ・バッドに一目惚れし、エドウィンとは性格の違いもあって一触即発の状態だった。ジャスパーは二人を和解させようとイヴの晩餐に招待したのである。その夜、エドウィンとネヴィルは嵐の中を連れ立って出かけていった。半年過ぎてもエドウィンは見つからず、住人から疑いの目を向けられたネヴィルは町を離れてロンドンに隠れる。一方、音楽の教え子であるローザを密かに恋い慕っていたジャスパーは、脅迫的なプロポーズを行う。恐怖と疑惑に怯えたローザは、時を置かず町を離れロンドンの後見人グルージャスのもとに逃げ込む。そんな折、二人の謎の人物がクロイスタラムにやって来る。一人は隠遁者ディック・ダチェリー、いま一人はジャスパーが時々足を運ぶロンドンのアヘン窟の女主人。二人はそれぞれの思惑からジャスパーの動向を探るのであった。
謎とは何か。
犯人は誰か?――ではない。
犯人はジョン・ジャスパーである。執筆直前のディケンズが親友ジョン・フォースターに送った手紙にこの小説の構想が書かれていて、フォースターはディケンズ死後に書いた『チャールズ・ディケンズ伝』の中でそれを紹介している。
その直後にわたし(ソルティ注:フォースター)が知ったところによると、叔父の手による甥殺しの物語とのことであった。この物語の独創性は、終末において殺人犯が自分の一生を回顧するに当って、殺人犯である自分ではなくて、誰か他人がその誘惑にかられたような口ぶりで語るところにある。最後の終章は死刑囚の独房の中で書かれた形式になる。まるで他人ごとのように犯人が丹念に物語る悪の結果として、彼がそこに入れられたのである。殺人の決行直後に、ある目的としてそんな殺人を行う必要が全然なかったことを、犯人自身が知る。(解説P.449)
ディケンズ自身によるこの暴露がなかったとしても、読者はジャスパーが犯人に間違いないことを実際に書き残された部分から知ることができる。物語の冒頭から、ジャスパーがアヘン中毒者であり、自らの人生に絶望し今いる環境を嫌悪している人間であることが明らかにされているし、粛々と殺人の準備をする姿があちらこちらで描き出されている。ローザへのプロポーズの模様からも、聖歌隊指揮者として町の尊敬を集めているジャスパーが、実はかなり陰険でサディスティックで嫉妬深い男であることが読み取れる。
ジャスパーが甥のエドウィンを殺めたのだ。
この小説は、『刑事コロンボ』同様、はじめから犯人が分かっている「倒叙型ミステリー」なのである。
謎とは何か。
エドウィンは本当に死んだのか?――でもない。
小池は70ぺージにも及ぶ解説の中で、過去にこの未完の物語の謎に対して試みられた様々な推理や説を紹介している。その一つに「エドウィンは本当は死んでおらず、あわやのところで救出された。どこか別の土地で療養・回復し、最後のクライマックスで再び物語に登場してジャスパーを驚かせ、その悪を暴き立て、追い詰める」という説もある。
確かに、書かれた部分までにエドウィンの遺体は発見されていない。死んだという確証はない。また、ディケンズの細かい指示のもと絵描きによって描かれた刊行時の表紙絵には、灯りを手にしたジャスパーらしき人物がエドウィンらしき人物と暗闇で遭遇する場面が描かれている(下図参照)。この場面は書き残された部分には出てこないので、この先書かれるはずだったのだろう。さらに、ディケンズが候補としてあげた本書の17のタイトル案の中に、『Dead Or Aive ?(死亡か生存か?)』というものもあったことがわかっている。もしかしたら、エドウィンは殺され損なって生き延びたのかもしれない。
だが、たとえそうだとしても、それ自体はやはり時を超えて考察するに値するほどの謎とは言えまい。(ソルティは、ジャスパーが死刑囚として投獄されすべてを告白するというディケンズのプランから推測するに、エドウィンはちゃんと死んでいると思う。)
謎とは何か。
どうやって殺したのか? トリックは?――でもない。
これまた諸説飛びかうようであるが、ジャスパーに鉄壁なアリバイがあるわけではなく、殺し方に不可解なものが含まれているわけでもない。当日エドウィンと夕食を共にしたネヴィルにもジャスパーにも殺人の機会は十分あった。上記のディケンズの手紙によると、死体は生石灰の山に投げ込まれたらしい。アヘンを常用していたジャスパーが、エドウィンの酒にアヘンを混ぜて正体を失わせ、首を絞めて殺し、死体を処理した可能性が高い。
いずれにせよ、これもまたたいした謎ではない。
他にも、途中から登場する隠遁者ダチェリーはどうやら誰かの変装らしいのだが、その正体をめぐっていろいろな説が挙げられている。
が、これもまた枝葉末節である。
この未完の物語の、未完に終わったゆえの最大の謎は、「ジャスパーはなぜエドウィンを殺したのか?」――すなわち殺人の動機にこそある。
――というのがソルティの見解である。
解説を読む限りでは、動機が議論の焦点になった様子はないようである。それはおそらく、読者探偵諸氏が「書き残されている部分からだけでも動機は明瞭だ」と判断しているからであろう。
動機1 「ローザを自分のものにするために」
動機は「愛」である。実際に、エドウィンの死亡が濃厚になった頃合を見計らってジャスパーはローザに言い寄る。
「ローザ、わたしの甥があなたと許婚だった時ですら、わたしはあなたを気違いのように愛していたのです。甥があなたを妻にすれば間違いなく幸福になれると、わたしが思っていた時ですら、わたしはあなたを気違いのように愛していたのです。・・・・(略)」彼の言葉をこれ以上ことさら醜悪にできるものがかりにあったとすれば、それは彼の顔つきやしゃべり方の激しさと、彼のうわべの態度の落ちつきとの間の対照であったろう。(本文P.343)
そしてまた、エドウィンを殺めた翌々日の夜、ジャスパーはローザの後見人グルージャスから、「二人の婚約がちょっと前に破談になっていた」ことを聞いて、ショックのあまり失神する。この反応はいかにも不自然である。表向きは町を挙げての捜索を先導しながらも、エドウィンが死んでいることを確実に知っているジャスパーである。婚約の解消くらい今さらなんであろう?
ディケンズによって鮮やかにまた緻密に描写されたジャスパーの不可解な失神の理由こそ、動機の核に関わっているに違いない。とすると、上記の手紙の中にある「殺人の決行直後に、ある目的としてそんな殺人を行う必要が全然なかったことを、犯人自身が知る」の意味するところは、「ローザを手に入れるためにエドウィンを殺す必要はなかった」ということになろう。入念に準備し危険を冒して決行した殺人がまったくの徒労であったことを知ったからこそ、ジャスパーは気絶したのである。(婚約の解消自体は、ローザがエドウィンに心を奪われていない証拠であるから、いずれローザにプロポーズしようと目論んでいるジャスパーにしてみれば良い知らせのはずだ。)
一応これがもっともらしい動機であることは、95%の読者が首肯するであろう。
しかし、ソルティはどうもこの説にすっきりしないのである。
第一に、たとえエドウィンを亡きものにしたところでローザが手に入る保証はない。いくら「気違いのように」愛しているとは言え、勘が鋭く人心を操るに長けたジャスパーにそれが分からぬはずがない。ローザは、音楽の教師であるジャスパーを恐れると同時に毛嫌いしていて、その感情は当然ジャスパーも察していたであろう。エドウィンがいなくなれば、ローザは別の男になびくだけである。ジャスパーは今度はその新しい男を手にかけるつもりなのであろうか。
第二に、ローザをそれほど好きなのであれば、最初から堂々と愛を告白すればよいではないか。確かに甥の許婚を横取りするような行為は世間の非難の的になるかもしれない。が、ローザだけでなくエドウィンにも自らの本心を誠実に伝えた上で、ローザにどちらかを選んでもらえばすむことである。親同士の決めた許婚ではあるけれど、(実際にそうなったように)本人同士の意志で婚約解消できるわけで、その結果としてたとえばエドウィンなりローザなりが遺産相続できなくなるといった不利益が発生するわけではない。遠慮は要らない。実際、叔父ジャスパーの熱い思いを知ったら、ローザのことを「妹のように」しか愛せなくなっていたエドウィンが身を引く可能性は高かったろう。少なくとも、危険を冒してエドウィンを殺すくらいなら、花嫁略奪してエドウィンと関係を絶つほうが論理的である。
第三に、ローザへのプロポーズのやり方を見れば、本気でローザを振り向かせる気がジャスパーにはあるのかと疑わざるを得ない。わざわざ怖がらせて嫌われるようなプロポーズをしている。一方は幼馴染の元婚約者として、一方はただ一人の係累である叔父として、同じくエドウィンという青年を愛し失った悲しみにくれる者同士ではないか。エドウィンへの思いを共通の拠り所として心を通じ合わせるまたとないチャンスではないか。なぜそれをふいにするような奇怪な振る舞いを――しかも殺人犯として疑われても仕方ないような危険で無謀な振る舞いを――ジャスパーはするのであろう?
第四に、「ローザを(甥を含めた)他の男に絶対に渡したくない。でも自分のものにする可能性もほぼない」という絶望的ジレンマにあったときに、利己的な男はどんな行動をとるだろうか。愛する者自身すなわちローザを殺めるのが‘物語的に’ありそうな選択ではなかろうか?
「愛する女を他の男に取られるくらいなら、いっそ死によって自分と永遠に結びつけよう!」
動機2 「何もかも持っているエドウィンへの嫉妬」
エドウィンは若くて元気でハンサムで、人好きのする屈託のない明るい青年である。成年したら親の遺産や会社の共同経営権を相続し、美しいローザと結婚し、エジプトに技師として赴くことが決まっている。まさに前途洋々、幸福を絵に書いたような男である。一方、ジャスパーは古めかしい沈滞した町で聖歌隊指揮者として単調な毎日を繰り返す現在と未来にうんざりしている。ジャスパーは、ネヴィルとエドウィンの対立を煽る意図を腹に隠しつつ、自虐的にこう言っている。
「しかし、ネヴィル君、この対照的な違いを考えてみたまえ。きみとぼくとは、活気のある仕事も興味も、変化も興奮も、家庭での安楽も愛情も、どれ一つ与えられる見込みはないんだ。きみとぼくは(きみがぼくよりも幸運に恵まれていれば話は別だし、簡単にそうなるかもしれないが)この退屈な土地で、変化のない、あくびの出るような毎日を繰り返す見込みしかないんだからねえ」(本文P.124)
これはジャスパーの本心の吐露であろう。こうした絶望から逃れるために、ジャスパーはアヘンに依存するようになったと思われる。(それにしてもなぜ、まだ26歳という若さで立派な仕事に就いているジャスパーに‘家庭での安楽も愛情も与えられる見込みはない’のだろう・・・?)
ローザのことを筆頭に「なにもかも持っている」エドウィンの境遇に対する嫉妬が、愛情を超えて憎悪に成りかわった時、殺意が芽生えたのであろうか。
だが一方で、これもまた動機として弱いという気がするのは、このような忸怩たる内心をジャスパーは当の相手であるエドウィンに赤裸々に語っているのである。
「きみにもこれでわかったと思うが、哀れで変わり映えのしない聖歌隊指揮者、あくせく働く音楽家――その地位に安住している――でさえ、ある種のはかない野心で心が乱されることがあるんだよ。野心というか、憧れというか、不安というか、不満というか、何といったらいいかな」(本文P.34)
殺意に至る嫉妬にしては、ジャスパーの態度はあっけらかんとし過ぎてないだろうか?
そしてまた――これは看過できないことなのだが――ジャスパーのエドウィンに対する愛情は一片の疑いもはさむ余地ない本物である。ディケンズは作中でうるさいほどにこの点を強調している。独身の叔父がただ一人の縁者であり自分を慕ってくれる甥っ子を可愛がる以上の思いを、ジャスパーはエドウィンに抱いている。溺愛と言ってもいい。
ジャスパーの顔がそちら(ソルティ注:エドウィンの方)を向いている時、いつも、この時もその時以後のいつでも、激しい熱情の眼差し――飢えたような、押しつけがましい、警戒心にあふれた、しかし献身的な愛情のこもった眼差し――が、彼の顔に見られるのだ。そちらを向いている時、この時もそれ以後のいつでも、絶対にその眼差しが散らばることはない。(本文P.24)
ジャスパーがローザに向けてこれに近いほどの眼差しを向けたという記述は作中に出てこない。
これほど愛している甥っ子を、いったい「許婚を横取りするために」あるいは「境遇への嫉妬から」殺すものだろうか。だとすれば、ジャスパーは自らの内面をかなり上手に押し隠していたことになろうし、ディケンズもそれを読者に対して伏せていたことになる。さらに言えば、小説技法の点から言えば、ローザへの愛の真実性がプロポーズの際のジャスパーのセリフのみに依っているのにひきかえ、エドウィンへの愛の真実性は地の文章つまり作者の視点(=神の視点)に依っている。これは大きな違いと思われる。
動機3 「金のため」
もっともわかりやすく納得しやすい動機である。
エドウィンと後見人ジャスパーは二人きりの姻戚関係らしいことが察しられる。エドウィンの兄弟姉妹に関する記述はまったく見られない。ということは、もしエドウィンに何かあったら、その財産を継ぐのはジャスパーになるのだろう。ここに「金」という動機が浮かんでくる。
莫大な財産さえあれば、ジャスパーはしがない聖歌隊指揮者の仕事から抜け出せる。活気ある都会に引っ越して有閑階級の優雅な生活を送ることができる。あるいは、死んだエドウィンの代わりに経営者として外地に赴き、現地の人々をあごで使いながら変化と刺激に富んだ日常が送られる。エドウィンが手にしたはずのすべてを手にすることができる(ローザを除いて?)。
ここに至って、ジャスパーとエドウィンの関係に、有名なフランス映画を重ねたい誘惑にかられる。アラン・ドロン主演『太陽がいっぱい』(ルネ・クレマン監督、1960年)である。ドロン演じる貧乏な主人公トム・リプリーは、金持ちでハンサムな友達フィリップに成り変ろうと、周到な計画を練ってフィリップを殺害し、その恋人マルジュを手に入れたのであった。
さて、真の動機はいずれであろうか?
「愛」か「嫉妬」か「金」か。
3つすべてが入り混じったものだろうか。
ここからソルティの持論である。
フォースターへの手紙にあったように、ディケンズは小説の最後に犯人ジャスパーの独房での告白を予定していた。そこでおそらく、ジャスパーの知られざる苦悩の生涯とともに、なぜエドウィンを殺したのか、どうやって殺したのか、すべてを通じて信仰はどこに位置していたのか、が述懐されるはずであった。ユーモア小説、勧善懲悪の社会派小説の大家として名高いディケンズが実は初期から強い関心(共感?)と共に追求してきた「人間心理に潜む‘悪’や‘闇’」というテーマが、犯罪者自身の深い内省と分析を通して淡々と抉り出され、曝け出され、読者を震撼とさせるはずであった。
我が国のディケンズ研究の第一人者である小池滋がいみじくも書いているように、
一方で彼(ソルティ注:ディケンズ)は健全明朗な市民道徳の立場に立って、明晰な論理や推理の力によって悪を追跡し罰する姿勢も見せているが、それと同時に彼は、追跡される悪人、善良な社会から追放され指弾される者の立場に立って、その心理を鋭く分析するとともに、「健全」であると自負している一般社会の偽善と虚偽を痛烈に批判するのである。(解説P.434)
だから、終章の独白は単なる殺人事件の解明に終わらずに、ジョン・ジャスパーという一人の「異常な」人間の心の闇を描き出すものであったろう。「健全で・正常で・もっともらしい」社会の欺瞞と不寛容を撃つものであったろう。それこそは、大聖堂のシーンを冒頭に持ち、聖歌隊指揮者という宗教的に栄誉ある立場の男を主役(むろん真の主役はジャスパーである)に持つこの小説に仕掛けられた最大のトリックである。大聖堂で始まり牢獄で終わる。聖歌隊指揮者で始まり殺人者で終わる。天国から地獄への‘どんでん返し’である。(その伝でいけば、‘殺人現場は聖堂の中だった’とするのが理に適っている。ジャスパーは自らの聖なる職場を‘あたかも復讐するかのように’その手で汚した。)
小説の構造(=作者の意図)をこのように想定したときに、さきほど挙げた3つの動機はあまりにも平凡すぎる。当たり前すぎて十分な衝撃をもたらさない。「ローザが欲しいから、甥がうらやましかったから、お金が欲しいから、エドウィンを殺しました」では、凡百のミステリーと変わらない。文学性もなければ、「悪」も「闇」もたいした深度を持たない。
やはり、ここは別の動機が必要である。
解説において、過去に繰り広げられた他人の様々な推理や説を丁寧に紹介してきた小池は、最後の最後で、ジャスパーの動機について自身の思うところをさらりと述べている(わずか6~7行)
訳者の私見によれば、エドウィンとジャスパーの関係は、甥と叔父の関係であると同時に、ホモセクシュアルの関係にあったのだろう。それを示唆するヒントは原作中にいくらでも見出せるが、やはり作品全体のテーマから考えても、言葉なき聖歌と同じものを恋愛に求めれば、洗練の極みに達したために実りを失っている同性愛しか、ジャスパーの行きつく地点はなさそうに思われるのだから(あれほどまでに盛んな推理競争にもかかわらず、このホモ説をあからさまに述べた論者は訳者の知る限りにおいてはいないようである。)
ビンゴ!
ソルティも読みながらそうではないかと思っていた。
小池は別のところでもっと詳細に自説を語っている。
ジャスパーがエドウィンを殺す真の動機は、2人の間の同性愛にあると思う。エドウィンがローザと結婚する(と、信じていた)ことで恋人を失うと思ったジャスパ-が、可愛さ余って憎さ百倍となったのである。彼はおそらく女を愛すことができない男であろう。クリスパークルとタ-ター、ヘレナとローザも、同じように寄宿舎生活から同性愛へと移って行ったに違いない。生産性のない不毛な愛は、まさに世紀末の退廃の典型であり、それが宿命的な殺人の悲劇を生み出したのだ。(『エドウィン・ドルード』と世紀末、ディケンズ・フェロウシップ日本支部会報第九号、1986年)
後半の部分は素直に賛同できない。一つの小説中に三組もの同性愛カップルを作ってしまうのはいささかやり過ぎだと思う。また、「生産性のない不毛な愛は世紀末の退廃の典型」ってのは、あまりにステレオタイプで見識が狭すぎる。ちょっと考えれば分かるが、人類史においてもっとも「生産性の高い」ものを生み出したのは、プラトンやシェイクスピアやダ・ヴィンチやミケランジェロやチャイコフスキーやアラン・チューリングの名を挙げるまでもなく、同性愛者である。さらに、「宿命的な殺人の悲劇」を生み出したのは同性愛そのものではなくて、それを抑圧し異端視し差別する社会や宗教や文化の側である。(1986年じゃ、まだ日本の一流文化人にしてそのレベルの認識だったのだ。)
ともあれ、ここでのポイントは前半である。
ジャスパーの真の動機は、「エドウィンを失いたくなかったから」である。
「愛する男を他の女に取られるくらいなら、いっそ死によって自分と永遠に結びつけよう!」
「愛する男を他の女に取られるくらいなら、いっそ死によって自分と永遠に結びつけよう!」
この視点から読むと、上記の動機1で挙げた様々な矛盾や不合理が解消する。なぜエドウィンとローザの婚約解消の知らせに失神するほど衝撃を受けたのか、なぜローザでなくエドウィンを殺したのか、なぜエドウィンを殺すくらいなら思い切ってローザに告白しなかったのか、なぜローザへのプロポーズがあんなに奇怪なのか(あれは一種の復讐――お前のせいで愛する甥を殺してしまったではないか。仕返しにお前を一生苦しめてやる!――だと思う)。
『太陽がいっぱい』との類似もますます色濃くなって来る。というのも、映画評論家の淀川長治があの映画の男二人(トムとフィリップ)の関係を‘同性愛’と喝破したのは有名な話だから――。
「ジョン・ジャスパーは同性愛者である」と仮定したとき、作中の様々な場面やセリフや設定が一本の糸のようにつながってくるのが見える。
たとえば、エドウィンに対する周囲も心配するほどの常軌を逸した溺愛ぶり。事件が起こるずっと前に聖堂の首席司祭は言う。
「ジャスパーさんが甥ごさんをあんまり熱愛なさらねばよいがなあ。このうつろいやすい世で、人間の愛情はまことに尊いものじゃが、愛情に溺れてしまってはいかん。」(本文P.21)
たとえば、「何か」からひたすら逃れようとするジャスパーのアヘン中毒。
たとえば、周囲が褒め称えるジャスパーの傑出した音楽的才能。(チャイコフスキーやラベルやバーンスタインやブリテンやマッキーなど傑出した音楽家にゲイが多いのは有名な事実である)
たとえば、26歳という若さにかかわらず、「家庭での安楽も愛情も与えられる見込みはない」と言うジャスパーの捨て鉢な態度。
たとえば、エドウィンの次のセリフ。
「ぼくと一緒にいると、ジャックはいつもそわそわして、感情がむき出しになって、そうだな、まるで女みたいなんだ」(本文P.244)
他にも傍証を挙げると、ディケンズはこれに先立つ作品『リトル・ドリット』(1857年)の中に、ミス・ウェイドという、現代ならどう見ても「レズビアンだろう」と解される暗い過去を持つ女性を登場させ、彼女の手記に一章を割いている。詳細は覚えていないが、「愛に飢えているのに人を信用できないために愛が得られない」苦しみと孤独とが不吉なほど暗いトーンで描かれていた。「レズビアン」とか「同性愛」という言葉はまったく出てこないけれど、ディケンズが人間性の中にはそのような部分があること、そのような部分を多く持つ人間が社会には存在するということ、彼らは疎外感ゆえに孤独や鬱屈に陥りやすいということをよく理解していたことが伺える。
なので、ディケンズが今度は「ゲイ(男性同性愛者)」を登場させ、三島由紀夫の『仮面の告白』には到底及ばないものの、その一風変わった生い立ちや屈折した心理を描こうという野心を抱いたとしても不思議ではあるまい。
これこそ、『エドウィン・ドルードの謎』の隠されたテーマだったのではないだろうか。
もしこの推測が当たっていてディケンズが作品を完成させていたとしたら、この小説はディケンズ最大の問題作にしてヒット作となったばかりでなく、イギリス文化史に残るスキャンダルになったのは間違いあるまい。
というのも、オスカー・ワイルドが同性愛の罪で投獄されたのは1895年、この小説の発表された25年後のことであり、それまでは現実社会においても文学においても「同性愛者」が表立って登場し自らの心情を吐露するような機会はなかったのである。(イングランドおよびウェールズで同性愛行為に対する死刑が廃止されたのは1863年、男性同士の性行為が非犯罪化されたのは1967年のことである。)
もちろん、この作品がゲイ文学史における金字塔となったのも間違いあるまい。
ジャスパーは何年も前から6つ下のエドウィンをそれこそ「気違いのように」愛していた。だが、この愛は実る可能性がない。エドウィンは同性愛者ではなく、しかも親同士が決めた許婚ローザがいて、成人に達したら二人は晴れて結ばれることになっている。絶望的な恋と不幸な自分の境遇を忘れるために、いつからかジャスパーはアヘンに頼るようになった。アヘンがもたらす高揚感と幻覚の中で、ジャスパーはこの袋小路から抜け出す道を発見した。それは恋敵であるローザを殺すことではない。たとえローザを亡きものにしてもエドウィンは自分のものにならない。他の女に取られるだけだ。結局、苦しみは続く。それならいっそ愛するエドウィンをこの手にかけて、永遠に自分だけのものにしよう。ジャスパーの発見した道は、地獄へと続く道でもあった。
独房の最期の日々、ジョン・ジャスパーはいったい何を考え、何を書き記したのだろうか。罪の意識に苦しめられ、洗いざらい告白して最後は神に縋ったであろうか。己れの宿命や世間や神を呪って、憤怒と狂気のうちに過ごしただろうか。あるいは、在りし日のエドウィンとの幸福な日々を思い出していたのだろうか。
未完に終わった今、それは永遠の謎である。