1955年原書刊行。
1956年邦訳出版。
1994年発行、創元推理文庫を読む。
60年以上前に書かれたこのミステリーは、今ならさしずめサイコスリラーと呼ばれる分野になろう。ヒッチコックが名作『サイコ』を撮ったのは1960年なので、この作品が発表された当時、サイコスリラーという言葉はなかった。本書の解説によると、「ニューロティック・サスペンス(神経症的サスペンス)」と呼ばれていたらしい。
現在、掃いて捨てるほどあるサイコスリラー(あえて定義すれば「登場人物の精神障害が異常な犯罪の引き金となるサスペンス」)の先鞭をつけた作品の一つと言っていいだろう。この背景には、第二次世界大戦後のアメリカで精神分析が流行し、人間の異常心理を取り入れたサスペンス映画や小説が大流行したことがある。(本書のトリックの大本はむろん1886年発表のスティーヴンソンの古典的怪奇小説である)
この種の小説や映画に食傷している現在の読者からすれば、取り立てて新奇なところも、衝撃的なところもない。トリックの核となる主人公の女性の精神障害は、最初の数ページで見抜ける。主人公のイケメンな弟の精神障害(←当時。現在では精神障害に含まれない)は、現在ではBL系として持て囃されるほど、あるいは同性婚が先進国では趨勢になってきたほど、暗い負のイメージから脱却している。
では、「もはや時代遅れの読む価値のない小説」かと言えば、そんなことはない。いろいろ考えさせられて面白いのである。
理由の一つは、作者マーガレット・ミラーの筆運びの上手さ、雰囲気作りの巧みさにある。文章から情景が映画のシーンのように浮かんでくる。登場人物の心理描写も深く鋭く説得力に満ちている。その名の通り、「鏡」のように心の中を映し出す。
いま一つは、この作品が家族病理を扱っているところにある。そこが60年後の今も古びない理由である。
主人公のヘレンは独身の30代女性。厳格で支配的な父親が亡くなったあと、母親と弟と疎遠になり、もらった遺産でホテルに一人住まいしている。成人するまで父親に「4歳の子どものように扱われてきた」結果、周囲とスムーズな人間関係が築けず、当然異性との接触もなく、‘引き籠り’生活をしている。彼女の頭の中には、高校のダンスパーティーでの失敗――と言っても踊る相手が見つからなかっただけに過ぎないのだが――の際に、父親に言われたひとことが今もこだましている。
「おまえの罰は、そのままのおまえでいること。独りぼっちで暮らさなければならないことだ」
「おまえの罰は、そのままのおまえでいること。独りぼっちで暮らさなければならないことだ」
父親の呪縛から抜けられず、外部との交流も持たない彼女は、次第に常軌を逸していく。女学生時代の唯一の友人であり、自分とは正反対の性格だったエヴリンの声を聴くようになる。
それが犯罪のきっかけであった。
このヘレンの生育歴や性格形成、そしてその破綻ぶりに、ある言葉が浮かんでくる。
父の娘――。
男の娘(=女装男子)ではない。
「父の娘」とはユング派の女性分析家によって1980年代に提出された概念である。この言葉は「父権制の娘」、即ち、個人的な親子関係を超えて「父なるもの」の強い影響下にある女性を意味する。(人見佳江著『「父の娘」今昔―かえるの王様から東電OLまで―』、近畿大学臨床心理センター紀要、第6巻、2013年より引用)
「父の娘」に3つの特徴を指摘できよう。
① ファザーコンプレックス=母親以上に父親と強い絆があり、その影響を受けやすい。
② 過剰適応=親の期待を強く内面化し、成長しても周囲の期待に過剰適応する傾向がある。
③ 女性性の否定=自身を父親に重ね合わせる過程で本来の性を否定。思春期には摂食障害に陥りやすい。
だから、「父の娘」が過剰適応の末に破綻するのは、自らのモデルとも枷ともなってきた父親が亡くなった時、あるいは理想の父親像が崩壊した時をきっかけとする。ヘレンも父親の死後1年待たずに破綻する。
ヘレンは精神障害を発症し、奇怪な言動を起こすようになる。昼間は頑なで生真面目で神経質でプライドの高い30代の女性でありながら、夜になると別の顔を持つようになる。あたかも、自らが否定してきた「女性性」を取り戻すかのように売春宿で仕事する。そう、過剰適応の針が逆に振れたかのような過激さで。
何かを思い出さないだろうか?
誰かを?
東電OLである。
1997年に、30代後半の独身女性が殺害された。この女性は高学歴で大企業の管理職にあり、経済的に困窮していたわけではないのに、退社した後に売春をしていた。また摂食障害の既往歴があった。出稼ぎ目的で違法滞在していた外国人が逮捕されたが、後に無罪として釈放された。真犯人は未だに逮捕されていない。事件後、マスコミは被害者のプライバシーをヒステリックに暴き立てた。またこの事件をモチーフにした小説やルポルタージュが数多く出版され、著名な人々(主に女性)が被害者女性への深い共感を表明した。(同上)
ソルティも事件の起こった渋谷の円山町を探訪したことがある。亡くなった女性が売春仕事の合間に拝んでいた道端のお地蔵さんには彼女の名前が付けられ、事件後20年近くたった今も日本全国からお参りに来ては供花する女性が絶えないそうだ。
この事件をモチーフにした有名な小説に桐野夏生の『グロテスク』(2003年)がある。おそらくもっとも事件の、というより東電OLの心の軌跡に迫ったものだろう。また、1979年発表の山岸涼子のコミック『天人唐草』も同種の作品に上げられるだろう。というより、東電OL事件を予兆していたわけで、現代人の心の闇を読む山岸の眼力の凄さには恐れ入るばかりだ。
思うに、「父の娘」症候群は、時代を超え、地域を超え、存在するものであって、それが突出して表れやすい社会状況というのがあるのだろう。日本における「父の娘」の元祖は、あまりの賢さに父親から「男の子であったら良かったのに・・・」と嘆かれた紫式部ではないか、とソルティは睨んでいる。否定してきた「女性性」の回復が、後年、傑作『源氏物語』となって昇華されたのではなかろうか・・・・・。
ヘレンが「父の娘」ならば、弟のダグラスは「母の息子」である。
上記の3つの特徴は次のように変換される。
① マザーコンプレックス=父親以上に母親と強い絆があり、その影響を受けやすい。
② 過剰適応=親の期待を強く内面化し、成長しても周囲に過剰適応する傾向がある。
③ 男性性の否定=自身を母親に重ね合わせる過程で、本来の性を否定しがち。
「母の息子」ダグラスは、同性愛者であるにも関わらず、親や世間の期待に殉じて姉の友人であったエヴリンと結婚する。新婚旅行の初夜に恐れていたとおりセックスができず、事情がばれて離婚。その後は母親と二人暮らししながら、母親に隠れて‘いかがわしい’商売をしている中年写真家の「妻」となっている。ヘレンの起こした事件により、すべてがばれて母親に責められる。
「汚らわしいけだもの。おまえは人間以下だわ」「おまえはもう、わが子じゃない」
「汚らわしいけだもの。おまえは人間以下だわ」「おまえはもう、わが子じゃない」
ダグラスは自殺する。
現代から見ると、同性愛者の描き方や置かれている状況が「紋切り型で差別的」な感があるのは否めない。だが、50年代のアメリカはこんなものだったのだろう。歴史に残る「ストーンウォールの反乱」は1969年のことである。
ちなみに、この母子関係と結婚破綻のエピソードは、マーガレット・ミラーの同業者でありミステリー史上指折りの傑作『幻の女』を書いたウィリアム・アイリッシュ(1903-1968)を髣髴とさせる。
マギーは同業者の秘密を知っていたのだろうか?
「幻の女」とはアイリッシュ自身のことだったのだ。
「父の娘」も「母の息子」も、元凶は同じである。
自分の子どもを「ありのままに」受けとめ愛することができない親の身勝手である。
自分の子どもを「ありのままに」受けとめ愛することができない親の身勝手である。