2011年新潮社発行。
著者ネルケ無方(むほう)は1968年ドイツ生まれの禅僧。高校時代に坐禅と出会い、仏道を志す。22歳で京都大学教養学部に留学。兵庫県の山奥にある安泰寺で自給自足の生活をしながら修業を続け、25歳で得度する。以後、京都の禅寺、大阪城公園でのホームレス修行生活などを経て、2002年より安泰寺住職となる。
本書は、著者が「どうやって仏教に出会い、仏教に魅せられたか、そしてどうして今お寺の住職をしているのか」を綴った、いわば自分史である。
読み物として面白い。一晩で読んでしまった。
面白さのポイントは3つある。
- 著者のパーソナリティ
- 日本仏教界の内幕暴露
- ドイツ人から見た日本人
まず、著者のパーソナリティであるが、破天荒である。禅にかぶれ、ドイツからいきなり日本の山奥のお寺に飛び込むというだけでも、著者の向こう見ずというか不羈奔放な性格は読み取れよう。
この不羈奔放さは著者の半生のあっちこっちで発揮されている。東京から京都までヒッチハイクしたり、山中に篭もって仙人のような修行生活を始めたり、大阪城公園でテントを張ってホームレスしながら青空坐禅会を開いたり・・・・・。
周囲の思惑や世間の目を気にせずに、自分の信念に従って突き進む純粋さと行動力はいっそすがすがしい。若さの特権ということもあろうが、周囲から浮いてしまうことを極度に恐れる日本の若者、否、日本人がもっと見習ってもいいところだと思う。ソルティの友人で、高校時代に日本に留学、日本人と結婚、その後神主になったオーストラリア女性を思い出した。
この不羈奔放さは著者の半生のあっちこっちで発揮されている。東京から京都までヒッチハイクしたり、山中に篭もって仙人のような修行生活を始めたり、大阪城公園でテントを張ってホームレスしながら青空坐禅会を開いたり・・・・・。
周囲の思惑や世間の目を気にせずに、自分の信念に従って突き進む純粋さと行動力はいっそすがすがしい。若さの特権ということもあろうが、周囲から浮いてしまうことを極度に恐れる日本の若者、否、日本人がもっと見習ってもいいところだと思う。ソルティの友人で、高校時代に日本に留学、日本人と結婚、その後神主になったオーストラリア女性を思い出した。
次に、日本仏教界の内幕。
これがまあ末期的というか末法的(笑)。予想はしていたが、どうしようもないなあ、これ。
著者は京都のある臨済宗の名刹に入門し、一年弱の修行生活を送る。ここでの雲水たちの修行の様子が描かれている章が、ギャグではないかと思うほど異様である。
禅宗において、一定の期間昼夜問わず坐禅し続ける修行を「接心」という。接心中、信者からお布施されたうどんをわざと大きな音を立てて食べる「うどん供養」というのがあるらしい。(今もやっているのか不明)
一人ずつ、金属製のボールにまず一杯のうどんが盛られます。「一杯」といっても、下の立場の人間になればなるほどその量が増えます。食べ終わると、やはりお代わりです。雲水は口が裂けても「もう結構です」と言えませんから、その場で吐いてしまう者もいます。吐いても許されるはずがありません。口から出た物を、胃袋に収めるまでは許してもらえません。それをしのぐコツはひとつ。いかにその場で我慢し、先輩が煙草を吸っている間にこっそり裏山で吐いてしまうか。「なぜそんな修行をさせられるのですか。食べ物をもっと大事にすべきではないでしょうか」と、私は恐る恐るリュッさん(ソルティ注:先輩の雲水)に聞いてみました。「お前は檀家さんに呼ばれた時、『もう結構です』と言えるのかよ。いくら出されても有り難く頂戴するのが礼儀じゃねぇか。そのための訓練だ」
さらに、坐禅修業に欠かせないものと言えば警策(肩や背中を叩く棒)である。
本来は警策を頭の上ぐらいまでしか振り上げません。この僧堂で流行っていたのが「フルスイング」と呼ばれるもので、打つ方は警策を大きく振りかぶり先端は腰の下にまで垂れ下がります。そこから一気に、前方へ力任せに降り下ろすのです。何度も警策を受けていると、背中が腫れて「赤ちゃんを産む」状態になります。つまり、紫色に変色し腫れ上がる。そのうち皮膚が破れて、血が衣からにじみ出ることもあるのです。ある雲水は、今回の接心で警策を何本折ったか、競争しています。そのバカらしさをリュッさんに尋ねると、平気な顔で言います。「何を言っているのだ? 他の僧堂の接心では、毎回百本以上折れるところもあるそうだ。うちは一週間で二十本ぐらいだから、まだ少ない方だよ」
これは修行という名のシゴキではないか。シゴキという名のイジメではないか。修行という方便を利用した「虐待」「傷害」ではないか。
むろん、やる方もやられる方も双方納得してやっているのだから、SMプレイと同じく「お好きにどうぞ」と言えば済むことなのかもしれない。が、この修行を経験しなければ住職資格が取得できないのだとしたら、父親の後をついで寺と檀家を守るべく使命を負った息子たちは逃げようがない。おいそれとは逃げようがない状況を利用して暴力を振るうシステムを温存させているのは、社員を過労死させる企業同様の犯罪ではなかろうか。
こうした残酷な修行の結果として、「悟り」なり「人格の向上」なりが得られるのならまだしも、本書に登場する著者の先輩雲水たちや師匠やアドバイザーの言動から察するに、どうもその片鱗さえ伺えない。弟子たちをいいように振り回しておのれの立場を守り、権威を振りかざしているだけに思われる。進路に悩んで相談にやってきた著者にすぐさま酒を勧めるのもなあ~。
「日本に行けば本物の仏教に出会える。悟りに向けての修行ができる」と期待を胸に、青雲の志を持って来日した著者は、こうしたナンセンス極まる経験を通して、やっと一つの結論にたどりつく。われわれ現代の日本人が、生まれたときからの前提として了解し、何の不思議にも思わなくなっている一つの事実に――。
なぜ、かくも日本人は仏教に無関心なのか――。当時は不思議でなりませんでしたが、今から思えば、それも分かるような気がします。日本のお坊さんは、もはや一般の人に仏教を広める「聖職」にあらず、単にお寺の管理人兼葬式法要を執り行うサービス業に成り下がってしまっています。日本の若い人が既成仏教に救いを求めないのも、不思議でも何でもなく、当然のことです。それは、若い日本人が自分の生き方に悩み苦しんでいないからではなく、お坊さんが悩み苦しみを超えた生き方を提唱していないからです。
誰か、もうちょっと早くこの事実を教えてあげる人が近くにいたら、著者も回り道しないで済んだだろうに・・・・・と思わざるを得ない。
これもまた‘縁’か。
3つめの面白ポイントは、本書が一ドイツ人による日本および日本人論の側面を持っているところである。
たとえば、
- 欧米人と日本人の仕事観の違い――「結果がすべて」の欧米、「がんばるのが一番」の日本。
- 身体感覚の違い――欧米人は「常にファイト・モード」で緊張している。日本人は放っておくとすぐにデレーッとする。
- 世界に名だたる日本人の十八番「イネムリ(居眠り)」についての考察――ドイツ人はイネムリできないそうだ。
イネムリについては確かにそう思う。国際比較したわけではないが、日本人ほどどこでも平気でイネムリできる国民は珍しいのではないだろうか。ソルティもしょっちゅう列車の中や講演やコンサート会場でイネムリしている。介護という仕事柄、勤務中はさすがにないが、休憩時間は必ず横になって20分のイネムリタイムを作っている。
昔、イギリスに行ったとき地下鉄(tube)に乗ったら、周りの誰もイネムリしていないのに驚いた。生粋のイギリス人も途上国からの移民たちも、みんな緊張した面持ちで前を見て座っていた。自分は旅の疲れもあって眠たかったのだが、さすがにその状況ではイネムリできなかった。
日本人がイネムリするのは、仕事のし過ぎで常に疲れているから、学校生活でイネムリ癖が身についてしまったから、日本は平和だから、欧米と違って公私の厳格な区別がないから・・・理由はいろいろ考えられる。坐禅に警策がつきものとなったのは江戸時代から(道元、栄西の時代はなかった)と言うから、やっぱり太平の世とイネムリの相関が高いのだろう。
さて、著者は坐禅によって何かを得たのだろうか? あるいは何かを捨てたのだろうか? 気になるところである。
若かりし頃の私は、人生問題の解決を坐禅に求めていました。坐禅と出会ってから、二十七年が過ぎましたが、「坐禅を噛み締める」ことによって、その解決を得られたかどうか、そこが知りたいという方もおられるでしょう。実は、「人生の意味とは?」という問いに対する答えを坐禅が導いてくれた、といえば嘘になります。「いや、坐禅そのものが解決であった」というのも、ちょっと違います。そうではなく、坐禅によって、私の求める方向性がガラッと変わったのです。人生においても、坐禅においても、一体何が正解なのか、私は未だに分かりません。しかし、「人生とは何か」「坐禅とは何か」というふうに、よそに向かって問うことだけは止めました。一瞬一瞬、この私自身の生きる態度が問われているのだ、ということに気づいたからです。私の禅修行は、「迷いの解決」を求めるためのものではありませんでした。坐禅に問われ、作務に問われ、家庭生活に問われ(ソルティ注:著者は2002年に結婚、現在父親になっている)、この日々こそ私の修行であったのです。そして、この「迷える者の禅修行」を人々と分かち合うことこそ、これからの私のつとめであり続けるのです。
禅とは何か。
道元(曹洞宗)や栄西(臨済宗)は何を言ったのか。
ソルティはよく知らない。
長年の厳しい修行によって著者の達した境地も、一日一時間程度の生ぬるい瞑想しか実践していないソルティの思い及ぶところではない。
道元(曹洞宗)や栄西(臨済宗)は何を言ったのか。
ソルティはよく知らない。
長年の厳しい修行によって著者の達した境地も、一日一時間程度の生ぬるい瞑想しか実践していないソルティの思い及ぶところではない。
ただ、やっぱり仏教は「迷いの解決」のためにあるんじゃないのか。
「迷い」が「確信」に変わってこそ修行の意味はあるんじゃないのか。
1000年近くかけてもそこが呈示できなかったことが禅宗の、あるいは日本仏教の衰退を招いたのではないか。
率直にそう思う。
本書は「迷想者の散策記」というブログに紹介されているのを見て、「面白そう」と思って図書館で借りた。
で、迷想者さんとほとんど同じ感想を持った。
「屋上屋を架す(おくじょうおくをかす)」こともないと思ったけれど、より具体的に内容紹介してみたいと思った。興味を持たれた方は上記ブログ記事も合わせて読まれたい。