キャスト
ノルマ:エレナ・スリオティス(ソプラノ)
ポリオーネ:マリオ・デル・モナコ(テノール)
アダルジーザ:フィオレンツァ・コッソット(メゾソプラノ)
オロヴェーゾ:カルロ・カーヴァ(バス)
ローマ聖チェチーリア国立音楽院管弦楽団&合唱団
シルヴィオ・ヴァルヴィーゾ(指揮)
収録:1967年8月、9月(ローマ)

 人間の声質はそれこそ百人百様であるが、歌唱においてはいくつかの類型に分けられる。
 分かりやすいのが声の高さ(声域)による分類で、男ならバス、バリトン、テノール、女ならアルト、メゾソプラノ、ソプラノである。
 それ以外にも、声の大きさや太さや重さによって細分する伝統がある。
 ソプラノ歌手を例にとると、その声質を軽いほうから重いほうへ、代表的な有名歌手と代表的なオペラの役柄と共に並べると、以下のようになる。
  • レッジェーロ(あるいはスーブレット) = キャスリーン・バトル in 『ドン・ジョヴァンニ』のツェルリーナ
  • コロラトゥーラ = エディタ・グルベローヴァ in 『魔笛』の夜の女王
  • リリコ = ミレッラ・フレーニ in 『ボエーム』のミミ
  • リリコ・スピント = レナータ・テバルティ in 『アイーダ』のタイトルロール(主役) 
  • ドラマティコ = ビルギッド・ニルソン in 『トリスタンとイゾルデ』のイゾルデ

 もちろん、声質は加齢と共に変わっていく。若い頃は軽い声質でコロラトゥーラの役を得意としていたソプラノが、年齢を重ねるとともに、次第に声質がその体重と共に重くなり、リリコやスピントの役までレパートリーを広げるということはよくある。世紀の名歌手グルベローヴァなんか、まさにその典型である。彼女の場合、喉を痛めないように生涯にわたって徹底的な自己管理をはかってきたのが効を奏したらしい。
 歌唱ドラマであるオペラでは、登場人物の性格や役回りと、その役を演じる歌手の声質とは、一定の傾向性を持ってリンクしている。アイーダのように、エチオピアの女王でありながら敵国エジプトの奴隷にされ、同じ武将ラダメスをめぐってエジプトの王女と熾烈な争いをし、最後は地下牢でラダメスと愛し合いながら死んでいく――という滅多やたらない劇的な生涯を歩んでいるヒロインを演じるのに、キャスリーン・バトルの鈴が転がるごとき軽やかで明るい声で歌われては到底ドラマにならない。逆に、ツェルリーナのような愛らしく素朴で男にだまされやすい村娘を演じるのに、ビルギッド・ニルソンの空気を震わす大砲のごとき強靭な声は(ロシアの女兵士のような外見は別としても)リアリティに欠ける。
 当然、作曲家もオペラを作っているときから、それぞれの役の声質をあらかじめ定めて、その声質や声域に合うよう、その声質が十分な演劇的かつ音楽的効果を発揮できるよう曲(歌)を書いている。それこそ、特定の才能あふれる一人の歌手のために、その歌手の声質や声域を念頭において曲を書く(役をつくる)ということすら、かつてはよくあったのである。
 ベルリーニの『ノルマ』がまさにそれで、当代きっての人気ソプラノであったジュディッタ・パスタを念頭において、ノルマは造型された。
 ジュディッタ・パスタ(1797-1865)の声質は、ソプラノ・ドラマティコ・タジリタ。上記の分類には入っていない。この声質の歌い手は極めて稀(100年に一人の逸材とも)なのである。それこそ、『ノルマ』が人気がある作品であるにもかかわらず簡単には上演されない理由のひとつであり、また、最高の「ノルマ歌い」がなかなか世に現れない最大の理由でもある。
 
 いったいどんな声質か。
 ソルティが所有している、あるソプラノ歌手の「ヴェルディ・アリア集」のCD(東芝EMIより1988年発売)の解説書の中で、高名な音楽評論家の高崎保男がとてもうまいこと表現している。
 
 通常、ソプラノ・ドラマティコ・タジリタとよばれるこれらのソプラノの声には、18世紀ナポリ派オペラの伝統をひく華麗で軽快な装飾歌唱を可能にする軽やかな運動性(18世紀にはカストラート歌手が、19世紀初めの時期にはコロラトゥーラ・ソプラノがそれを担当した)と同時に、19世紀後半以後のイタリア・オペラでその音楽のよりドラマティックな表現力を担うことになる、もっと力強く分厚い響きをもったソプラノ・ドラマティコ、ないしはリリコ・スピントの特性とが同居していて、いいかえればこれらのオペラのプリマ・ドンナはスポーツカーの敏捷さとダンプカーの重量とを兼備することが要求されるのである。(ゴチックはソルティ付す)
 
 スポーツカー(=コロラトゥーラ)とダンプカー(=ドラマティコ)。
 まったく相反した2つの声質を兼ね備えた奇跡の声がソプラノ・ドラマティコ・タジリタなのである。
 驚いたか!
 何を隠そう、上記の解説が付された「あるソプラノ歌手」こそ、至高のプリマ・ドンナにして究極の芸術家たるマリア・カラスである。カラスは絶滅危惧種であったソプラノ・ドラマティコ・タジリタで、それがカラスをあれほどまでに偉大にし、またカラスの『ノルマ』がいまだに――彼女の後を追う人気実力兼ね備えた幾多のプリマ・ドンナがキャリアの頂点に満を持して挑戦してはいるものの――他の追随を許さない高みに一人輝いている理由なのである。
 カラスの類い稀な才能には、もちろん舞台姿の美しさや神がかった演技力、音楽に対する感性の鋭さ、完全主義の努力家といったこともあるには違いない。が、ドラマに起伏をもたらし、登場人物に強烈なリアリティをもたらし、観客の心を鷲づかみにし、劇場を興奮の坩堝と化すことができた最大の勝因は、感情表現の驚くべき豊かさ、深みを可能ならしめた、あの奇跡の声にあるのは疑い得ない。
 
 カラス以降に出現した歌手でソプラノ・ドラマティコ・タジリタと言い得るのは、ハンガリー出身の美貌のシルヴィア・シャシ(1951- )と、カラスと同じギリシャ出身のこのエレナ・スリオティス(1943- )であろう。二人とも「カラスの再来」と騒がれた。
 この奇跡の声は、本来物理的(肉体的)に不可能な条件(=声帯の使い方)に拠っているためか、喉を容易に痛めることにつながり、歌手としての全盛期は残念ながら短い。カラスの全盛期はせいぜい10年あまりだったし、シャシュやスリオティスは名が売れて世界の桧舞台に立ち、やっと来日公演という段になった時には喉に不調の兆しが見えていた。全盛期はせいぜい5、6年といったところではないか。
 スリオティスの紹介文にはいまも「彗星のごとく現れた」と書かれていることが多いが、同時に「彗星のごとく消えていった」のである。
 
 1967年に出ているこのCDは、スリオティス全盛期(24歳)の記録である。
 彼女の歌声を聴くと、作曲家が想定した本来の声(=ソプラノ・ドラマティコ・タジリタ)で歌われるノルマが、いかに迫力あり、いかに陰影に富み、いかに劇的迫真性を音楽にもたらすことかを、そして、聖なる巫女・嫉妬に狂う女・母親・友誼厚き姉・族長の娘といった多様なキャラクターそれぞれの心理をいかに深く彫り出しながら、いかに一人の人間として見事に統合されるかを、実感する。人間が持つ聖と俗、強さと弱さ、愛と嫉妬、怒りと許し、迷いと決断、信頼と疑い、羞恥と誇り・・・。一見矛盾するかのような、しかし誰もが持っている二面性は、まさに矛盾する二つの声の魔術的結合によって浮き彫りにされるのだ。
 オペラとは、歌の芸術であるとともに、声の芸術なのである。
 
 第一声から、聴く者はスリオティスの声のみならず歌い方もまたマリア・カラスに酷似していることにびっくりする。むろん、表現力ではカラスに到底及ばないけれど、声の美しさ(特に高音の)ではカラスより上である。同じことは、ずいぶん前にシャシュのアリア集を聴いたときにも感じた。
 スリオティスやシャシュがどこに行っても「カラスの再来」と騒がれ、本人たちもそれを意識しすぎたために、歌い方までもが物まねっぽくなってしまったのだろうか。
 おそらくそうではなかろう。
 往年の名歌手ローザ・ポンセル(1897-1981)の歌う「カスタ・ディーバ」(『ノルマ』のもっとも有名なアリア)をはじめてCDで聴いたときに、カラスの歌との相似に驚いた記憶がある。
「カラスのノルマは彼女のオリジナルじゃなくて、ポンセルを(おそらくは二人の共通の師である指揮者セラフィンを介して)まねたのか」と思った。
 ポンセルは、修行中の若いカラスが尊敬し憧れていたアメリカのソプラノで、カラス以前最高の「ノルマ歌い」であった。残っている録音やレパートリーから想像するに、やはりソプラノ・ドラマティコ・タジリタと言えるのではないかと思う。
 誰が誰のまねをしたと言うのではなく、ソプラノ・ドラマティコ・タジリタが『ノルマ』を歌うと、自然と同じような歌い方・歌い回しになるのではないだろうか。それくらい、作曲者ベルリーニは初演のジュディッタ・パスタの声質を理解していたということではなかろうか。
 
 このCDは、全盛期のスリオティスによるソプラノ・ドラマティコ・タジリタのノルマが良質の録音状態で聴けると共に、昭和天皇もファンだったという歴史的名歌手マリオ・デル・モナコのポリオーネ、若く瑞々しく張りのある声のフィオレンツァ・コソットのアダルジーザも揃って聴けるという、まぎれもない名盤である。

p.s. マリア・カラス以降のソプラノ・ドラマティコ・タジリタの最大成功者は、現役のディミトラ・テオドッシュウらしい。(ソルティはまだ彼女のノルマを聴いていない) カラスやスリオティスと同じギリシャ出身というのが面白い。