
日時 1月8日(日)14:10~
会場 八王子市芸術文化会館いちょうホール
曲目
- モーツァルト/歌劇「イドメネオ」序曲
- ベートーヴェン/ヴァイオリン協奏曲ニ長調op61
- マスネ/タイスの瞑想曲(アンコール)
- ベートーヴェン/交響曲第7番イ長調op92
管弦楽 オーケストラ・アンサンブル・バウム
ヴァイオリン独奏 松本克巳(日本フィルハーモニー交響楽団奏者)
指揮 岡田 真
入場 全席自由1000円
新年最初のコンサートは‘ベト7’、すなわちベートーヴェン交響曲第7番と、日フィルのプロが奏でる「ヴァイオリン協奏曲」とのカップリングという贅沢極まりないプログラム。
オーケストラ・アンサンブル・バウムは、多摩地域を中心に活動する自主運営アマチュア・オーケストラ。団員はそれほど多くない(50名程度)ようだが、今日のようにフル編成の交響曲にも挑んでいる。見たところ、30~40代が中心か。
八王子に住んでいたことがあるので、八王子駅周辺はよく行ったのだが、いちょうホールに行くのははじめて。駅からちょっと離れていて、途中で方向を間違え、お寺・神社・葬儀社・仏具店が並ぶ抹香臭い一画に出てしまった。
「あれ? こんなところに銀閣寺?」

いやいや、龍華山大義寺という真言宗智山派の本堂であった。
山門の下の可愛らしいお地蔵さんが、もこもこした暖かそうなマフラーを巻いていた。どこのどなたか存じぬが、奇特な心がけである。笠地蔵ならぬ襟巻地蔵だ。

いちょうホール(大ホール)は802席ある。9割がた埋まっていた。
クラシック音楽人気、ベートーヴェン人気ってすごい。なんとなく、これまでクラシックに縁遠かった人たちが流入してきているような気がする。団塊オヤジたちとか…。


1曲目のモーツァルトは小手調べ、波長合わせ、ウォーミングアップといったところ。
2曲目、ヴァイオリン協奏曲は松本克己の極上のパフォーマンスに恍惚となった。
プロフィールによると、もともとは何と関西学院大学で遺伝子学を専攻し、卒業後は高校の理科教師をやっていた、という完全理系の人。27歳で転身し日フィルに入団している。
理系と音楽(クラシック)というとお門違いというイメージがあるが、かのアインシュタインが大のクラシック音楽好きで自身ヴァイオリンを弾いていたことは有名である。また、オペラ『アイーダ』指揮中に心筋梗塞で倒れ54歳という若さで亡くなったイタリアの指揮者ジュゼッペ・シノーポリ(1946-2001)は、パドヴァ大学で心理学と脳外科を学んでいた。
そもそも人を文系、理系で2分割するのも芸がない。せめて、文系、理系、音楽系、宗教系、ガテン系、福祉系、アート系、タレント系くらいに分けるといいのでは…。
というのも松本克己氏、草刈正雄を髣髴させる長身と甘いマスクのタレント系でもあった。指揮台に乗った指揮者より頭二つ高いところでヴァイオリンを構える姿はなんとも恰好いい。おそらく190センチ近いだろう。柔らかそうなシルバーグレーのおかっぱヘアと、往年の青春スター中村雅俊に似た純朴なまなざしは、おばさま連中を惹きつけること間違いなし。コンサート終了後には、地味な私服姿でロビーに出てきて来場者と30センチ‘上から目線’で(これは仕方ない)交流していた。フランクで飾り気無いところも好感度大である。
しかし何といっても賞賛すべきは、テクニックである。
本当に凄いものを聴かせてもらった。カデンツァの箇所など、一台のヴァイオリンで演奏しているとは思われない重層的な響きを、強弱・緩急・厚薄・軽重・明暗・硬軟つけながら楽々と紡ぎ出していて、ブラックジャックの執刀する外科手術のような華麗さ、一部の狂いも見せない正確無比な手さばきであった。(やっぱ理系か)
カデンツァ(伊: cadenza, 独: Kadenz)とは、一般に、独奏協奏曲やオペラ等のアリアにあって、独奏楽器や独唱者がオーケストラの伴奏を伴わずに自由に即興的な演奏・歌唱をする部分のことである。(ウィキペディア『カデンツァ』より)
その音色は基本、非常に線が細い。
前回同じ曲で聴いた奥うららとは対照的であった。奥うららが「黄金のリボン」とすると、松本克己は「銀色のファイバースコープ」である。銀色のファイバースコープを伴った内視鏡が、聴く者の耳から(あるいはチャクラから)体内に入り込んで、体のあちらこちらを探索して、悪い細胞を超音波で打ち砕くようなイメージであった。
おかげで、体の凝りがほぐれた。
クライマックスに向かうにつれて、次第に多彩になっていく音色の響きを耳にして、自然と頭に浮かんだ言葉がある。
「ベルカント」
そう。ロッシーニやドニゼッティやベッリーニなどの19世紀前半イタリアオペラにおいて、当代のスター歌手たちに求められた歌唱法。そして、20世紀半ばマリア・カラスにおいて復活し、今日まで続く上記3人の作曲家のオペラ(=ベルカント・オペラ)上演ブームを作った歌唱スタイル。その正確な定義は難しいが、ソルティ流に言うならば、「マリア・カラスによって可能性が発見された、多彩で高度なテクニックに裏打ちされた劇的歌唱法」である。
つまり、松本の演奏を聴いていて、マリア・カラスの歌を(声を)思い出したのである。
アンコール曲ではさらにベルカント度は増して、高音域のピアニシモなんかまるでエディタ・グルベローヴァであった。
「最も人間の声に近い楽器はヴァイオリン」と言われるが、今日の演奏を聴くとうなづける。

ベートーヴェンの7番は実に面白い曲である。
この曲を聴くたびにいつも思うのは、
「いったいこれを書いているとき、ベートーヴェンに何があったのだろう?」
――ということである。代表的な肖像画に見る苦虫をつぶしたような顔をしたベートーヴェンの生真面目で深刻なイメージからは想像できない軽さ、明るさ、華やかさ、滑稽さに満ちている。第2楽章をのぞくすべての楽章が「浮かれている」「歓喜雀躍している」「躍動している」「そわそわしている」「はじけている」・・・
よほどの躁状態が続いていないと書けないと思うのだ。

大の男をここまで躁状態にし続けるものといったら、やはり恋
くらいしかないのではないか。ベートーヴェンの伝記は読んだことないけれど、どうなんだろう?

大の男をここまで躁状態にし続けるものといったら、やはり恋

映画のBGMで使用されることの多い有名な第2楽章こそ、ソルティが「おそらくベートーヴェンの作った曲の中でもっとも長く残るのではないか」と思う傑作である。
ソルティ的には、この楽章こそが『運命』というにふさわしい。第5番の「ジャ、ジャ、ジャ、ジャーン!」のような運命――雷に打たれたような衝撃で奈落に突き落とされ、環境が激変し、嵐にもまれる小舟のように錐揉みしながら浮き沈みを繰り返す波乱万丈の人生――というのは、一握りの選ばれた人(=英雄)のためのものではなかろうか。小市民の運命は、この第2楽章のように「重い荷物を背負いながら長い坂を、同じような境遇の人々と群れをなして行く。あてもないのに・・・」といったイメージではないだろうか。
ん? 徳川家康? 若者たち?
バウムの演奏は、ヴァイオリン協奏曲では独奏者を引き立てつつ無難に援護し、第7番では自由奔放で華やかで躍動感にあふれ、瑕疵の見当たらない良質の演奏であった。
バウムの演奏は、ヴァイオリン協奏曲では独奏者を引き立てつつ無難に援護し、第7番では自由奔放で華やかで躍動感にあふれ、瑕疵の見当たらない良質の演奏であった。
新年しょっぱなから素晴らしいコンサートに当たって、大吉を引いた気分。
今年も充実したクラシックイヤーになりますように。
