
日時 2月5日(日)14:00~
会場 和光市民文化センター・サンアゼリア大ホール(埼玉県)
曲目
- ディッタースドルフ/コントラバスとヴィオラのための協奏交響曲 ニ長調
- ブラームス/ヴァイオリンとチェロのための二重協奏曲 イ短調 作品102
- (アンコール)モーツァルト/アイネ・クライネ・ナハトムジークK525より第3楽章メヌエット
- (アンコール)L.M.Fアルベニス/タンゴ
- ブラームス/交響曲第1番 ハ短調 作品68
独奏
- 小杉由香子(コントラバス)
- 小林弦太(ヴィオラ)
- 神山里梨(ヴァイオリン)
- 森義丸(チェロ)
指揮 大市泰範
入場 全席自由500円
アリエッタは昨年に続き2度目。
あれからもう一年が経つとは!
自分はいったいこの一年間何をしていたのだろう?
自分はいったいこの一年間何をしていたのだろう?
春はどこへ行った? 夏はどこへ消えた?
健忘症のような気持ちになる。
老化により記憶力が減退するに連れて、時の経つのが早くなるのだろうか?

・・・という感慨を抱えながら東武東上線の和光市駅に降り立った。
やはり街を歩く人々は若者や子供連れが多い。若う市だ。
開演1時間前にサンアゼリアに到着。
しばらくすると雨がぱらついてきた。

今回の呼び物は、オケを彩る4つの弦楽器――ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、コントラバス――の饗演である。しかも、普段は脇役に徹するコントラバスとヴィオラが主役カップルとなる協奏曲に興味津々。
ディッタースドルフという作曲家ははじめてだが、同じ名前の競走馬がいる。いつも高いオッズがつけられているところからみると、あまり人気はないらしい。作曲家のディッタースドルフのほうも影が薄いのだが、これはひとえに同時代の同国に生きた、あまりにも有名、あまりにも天才な音楽家のせいであろう。ディッタースドルフ(1739-1799)はヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトの17年前にウィーンに生まれ、8年後に亡くなっている。
当時はヴァイオリニストとしても名を馳せたようで、
ディッタスドルフ(第1ヴァイオリン)ヨーゼウ・ハイドン(第2ヴァイオリン)モーツァルト(ヴィオラ)ヴァンハル(チェロ)
という奇跡の弦楽四重奏を組んだこともあったそうだ。ちなみに、ヨハン・バプティスト・ヴァンハルは、ディッタースドルフの弟子である。
コントラバスとヴィオラのための協奏交響曲は、腹の底にずんっと響くようなコントラバスの低音の魅力が味わえて面白かった。便秘に効きそう(笑)。奏者は若い女性だった。体より大きな相棒を抱えて、拍手に応えて舞台に出たり袖に引っ込んだりする様子が大変そうであった。
この曲の第一楽章には『カエルの歌』が出てくる。「ドレミファミレド ミファソラソファミ」ってやつ。『カエルの歌』はもともとドイツ民謡だったのだ。
世界の民謡・童謡というサイトによれば、他にもスメタナ『わが故郷より』、チャイコフスキー交響曲第2番『小ロシア』、バッハ『シンフォニア 第13番』にも同じメロディーが使われているらしい。この中で一番古いのはバッハだ。
バッハがカエルの生みの親?
ヴァイオリンとチェロのための二重協奏曲ではチェロ特有の多重螺旋的な輝かしい音色が堪能できた。チェロってとても人間的。
交響曲でも感じるのだが、ブラームスはいつも第3楽章が光っている。つまり、舞曲的なメロディーにおいて、水を得た魚のように、彼自身の個性や才能が発揮できているように思う。それにくらべれば、ベートーヴェンに倣ったと思われる他の楽章は、構造的に、あるいはオーケストレーションにおいてどれほど優れていようとも、「音楽のための音楽」「交響曲のための交響曲」という印象を拭いきれない。
交響曲でも感じるのだが、ブラームスはいつも第3楽章が光っている。つまり、舞曲的なメロディーにおいて、水を得た魚のように、彼自身の個性や才能が発揮できているように思う。それにくらべれば、ベートーヴェンに倣ったと思われる他の楽章は、構造的に、あるいはオーケストレーションにおいてどれほど優れていようとも、「音楽のための音楽」「交響曲のための交響曲」という印象を拭いきれない。
たとえば、モーツァルトやベートーヴェンやマーラーやチャイコフスキーの交響曲を聴くと、作曲家のひととなりが手に取るように窺える。好きか嫌いか、友人になれそうかなれそうにないかは別として、彼らの個性が曲の中にありのままに表現され、聴き手に否応なしに伝わってくる。彼らにとって、明らかに作曲は自己表現の手段なのだ。
一方、ブラームスの交響曲あるいは協奏曲からは、「ブラームスがいったいどんな人間だったのか」がいまいち見えにくい。自己表現の要素が、ブラームスにあっては希薄な感じがするのである。
一方、ブラームスの交響曲あるいは協奏曲からは、「ブラームスがいったいどんな人間だったのか」がいまいち見えにくい。自己表現の要素が、ブラームスにあっては希薄な感じがするのである。
まあ、上記の音楽史上ダントツ個性派の4人(ワーグナーを加えて五人組を形成)に較べれば、たいていの作曲家はそう見えてしまうかもしれない。今回もメインのディッタースドルフとブラームスを超えてソルティを感動に至らせたのは、弦楽独奏者4名+コンサートマスターによるアンコールのモーツァルトであった。
やっぱり、桁違いの才能だ。前者二人が持って生まれた才能と刻苦勉励して身につけた技巧によってようやく達することができた地点から、モーツァルトは作曲を開始している。
後半のブラームス1番は、よくまとまっている上に迫力があった。指揮の大市泰範はスマートな才能の持ち主で音楽的感性が高い。次回、大市&アリエッタは《第九》に挑戦するそうで、楽しみである。
やっぱり、桁違いの才能だ。前者二人が持って生まれた才能と刻苦勉励して身につけた技巧によってようやく達することができた地点から、モーツァルトは作曲を開始している。
後半のブラームス1番は、よくまとまっている上に迫力があった。指揮の大市泰範はスマートな才能の持ち主で音楽的感性が高い。次回、大市&アリエッタは《第九》に挑戦するそうで、楽しみである。
才能といえば、今回ソリストをつとめた4人の若手演奏家のプロフィールを見ると、みな幼少(10歳以前)から楽器を始めている。やはり、そのくらいから始めないと身につかないんだなあ~。
ソルティの子供の頃(40年以上前)、ヴァイオリンを習っている子供なんか周囲に一人もいなかった。山の手の両家の子女がやるもんだという認識だった。庶民の子供はよくてピアノ、たいていは算盤を鳴らしていた。(ソルティは6歳時分に1年ほどピアノ教室に通った)。
平成の子供たちはピアノは愚か、ヴァイオリンもバレエも普通のお稽古事の一つなのだろう。うらやましいかぎりだ。
でも、ちょっとだけとは言え幼少期にピアノを習ったことは、メリットをもたらした。職場の老人ホームで歌レクをやるときに、さすがに伴奏まではできなくても、童謡のメロディーくらいならオルガンで弾けるのである。メロディーを音階(ドレミ)にすることができるからだ。
ド・レ・ミ・ファ・ミ・レ・ド