2017年ちくま新書より刊行。

 児童相談所は、児童福祉法にもとづいて都道府県に設置されている行政機関である。17歳以下の子どもたちを対象に、以下の仕事を行うことが定められている。

  1. 児童に関する様々な問題について、家庭や学校などからの相談に応じること。
  2. 児童及びその家庭につき、必要な調査並びに医学的、心理学的、教育学的、社会学的及び精神保健上の判定を行うこと。
  3. 児童及びその保護者につき、前号の調査又は判定に基づいて必要な指導を行なうこと。
  4. 児童の一時保護を行うこと。

 本書で取り上げられているのは主として、上記4の一時保護に関してである。

 児童虐待が起きている家庭などにおいて、子どもの安全が危ういとされる場合や、貧困家庭において一時的に親子分離をせざるを得ないと判断した場合などには、児童相談所の所長の判断で、子どもを親元や養育者から引き離し一時的に保護することができます。

 一時保護所は、児童相談所に併設されている場合がほとんどです。ただし、すべての児童相談所ではなく、地域で中心となる児童相談所に置かれている場合が多く、その数は2015年4月現在135となっています。年間で一時保護所にやってくる子どもの数は約2万人で、平均して約一ヶ月滞在しています。(本書より引用、以下同)

 ウィキペディアの「児童相談所」を見ると、児童相談所がいかに問題の多い機関であるか、一時保護がいかに酷い人権侵害にあたるか、細々と書かれていてうすら寒くなる。ウィキ執筆者が、児童相談所あるいは行政機関に対して強い不信と憤りを持っているらしいことが文面からビンビン伝わってくる。ソルティは記述内容一つ一つの真偽についてどうこう言えるだけの情報は持っていないが、少なくとも、このウィキの記事だけを読んで鵜呑みにした人が、児童相談所および一時保護所に対して相当にネガティヴなイメージと批判的眼差しを持つことは確かである。骨子だけ取れば、こうなる。
 
「児童相談所は、低い専門性しか持たない無責任な職員の集まりで、強権により子どもを拉致し、親子を引き離し、拘束した子どもたちを長期にわたって虐待し、子どもを家庭に戻すよりは施設送りにし家庭を破壊する、先進諸国で極めて異例の人権を無視した制度の執行機関である」

 一時保護によって我が子を取られた(虐待の加害者とされた)親たち、一時保護所や児童支援施設でつらい体験や寂しい思いをしたかつての子どもたち、彼らを支援する正義感の強い人権派弁護士、児童相談所内で実際にあった職員による虐待事件――等々を中心に取材して話を組み立てれば、上のようなストーリーができるのは容易に想像される。児童相談所は‘現代の人攫い’‘平成の山椒大夫’の役割を振られ、悪者扱いされる。
 だが、当の児童相談所内に入って、そこで働く職員を取材し仕事の様子を身近に見て、収容されている子どもたちの話に耳を傾け、一時保護所にアクセスする親たちを観察し、何が起こっているのかを知らなければ、バランスの取れた客観性のあるルポとは言えまい。
 本書の執筆者・慎泰俊(Shin Tejun)は、全国10箇所の一時保護所を訪問し、そのうちの二つに実際に住み込み、子どもたち、親、職員ら100人以上のインタビューを行っている。また、思い込みや主観的観測や予断や感情的バイアスをできる限り廃し、統計をもとに科学的な分析を行おうとしている。ありのままの事実をしっかりと見据えて、課題を浮き彫りにし、具体的な改善策も提唱している。その意味で、非常に信頼性が高い、現実的な解決力を持ち得るルポルタージュと言える。力作であり、この問題に関心ある人に自信を持って推薦できる本である。(それだけに179‐180ページの図表の重複、および折れ線グラフの説明ミスはいただけない)

 慎泰俊は、1981年東京生まれ。朝鮮大学校政治経済学部法律学科卒、早稲田大学大学院ファイナンス研究科修了。外資系企業に勤めた後、「五常・アンド・カンパニー」創業。途上国の貧困層に小規模の金融サービスを提供する信用組合を各国で経営している。いわゆる社会企業家である。科学的、客観的、戦略的姿勢は、この履歴からも十分伺えよう。
 仕事の傍ら、NPO法人Living in Peaceを設立し、国内で社会的養護下にある子どもたちの支援をしている。本書の執筆はこのNPO活動の一環なのである。

 私の人生は、「なんで自分だけ」と思うことの連続でした。何かと多くの不自由がある中で、私はずっと試行錯誤を続けてきました。ですので、生れ落ちた境遇に関係なく、誰もが自分の運命を勝ち取ることができる世の中をつくりたいのです。

 本書を読むと、一時保護所が、地域によって程度の差はあれど、一般的にいろいろと問題含みの施設であるのは確かなようである。
 たとえば、収容された子どもたちは、
  • 自由に外に行けない。
  • 学校に行けない(授業について行けなくなる)。
  • 男女間の交流が厳しく禁止されている(もちろん、性的トラブル回避のためだ)。
  • 厳しいルールやスケジュールを守らなければならない。
  • 職員によって常に監視されている。
  • 規則を破ったり、職員の指示に従わなかったりすると、個室(お仕置き部屋)に閉じ込められる。
  • 一時保護所に滞在しなければならない日数が不明確であり、かつ長期化している(一年以上の子どもも少なくない)。
  • 最近では減ってきたが、職員から虐待を受けることがある。
 
 まるで刑務所である。
 多くの子どもたちは、別に悪いことをして保護観察などの処分を受けたわけではない。むろん非行少年や虞犯少年もいるが、現在では虐待を受けた子どもや発達障害で養育困難となった子どもが増加していると言う。親に虐待受けて心身ともに傷ついた子どもが、今度は収容された一時保護所で上記のような処遇を受けるのは、あまりに理不尽、無残な話である。また、非行少年にとっても、上記のような、さらなるトラウマを被るばかりの処遇が本人の「これから」にとって適切であるとは到底言えまい。

 著者は、なぜこのような人権意識の欠落した時代遅れのシステムが残存しているのかを、子どもや親(里親含む)や職員ら関係者すべてに話を聞きながら、一つ一つ丹念に分析し解いていく。その手腕は、エラリー・クイーンのように鮮やかである。解き明かしについては、ぜひ本書を読んでほしい。
 一つの物事は、異なる当事者の視点から角度を変えて見ると、別の姿を見せる。誰か一人を悪者に仕立て上げることでは、根本的な解決には至らない。

 私は、人間はだいたい同じようなもので、ある人を善人に見せたり悪人に見せたりするのは、その人が置かれている構造にあると考えています。もちろん、どんな最悪の構造においても素晴らしさを失わない人間はいるのですが、それは少数派でしょう。

 若いのに、深い洞察力および人間理解である。
 「早稲田大学国際コミュニティセンター(ICC)」のWebマガジンの慎泰俊へのインタビューを読むと、世界で活躍するのに欠かせないものとして「英語」と「教養」の大切さを挙げている。

教養は人間が積み上げてきた知の一番の土台です。それがあると他の分野の人のことも理解できる。教養は飾りでなくて、知の一番の根っこで、すべての他の専門を持った人と仕事する上で非常に重要です。特に歴史・哲学・文学・芸術などが重要だと思っていて、後は各専門学問分野での古典ですかね。(上記インタビューより抜粋)

 この教養の深さが、本書に見られるような著者の視点の広さと深さ、偏りのない絶妙なバランス感覚と言葉の用い方におけるナイーブさを生んでいるのだろう。

 
能面


 ・・・・・と、感心してほめてばかりもいられない。
 子ども支援について書かれた本書を、‘他人事’‘対岸の火事’の視点から読んでいたソルティは、思わぬしっぺ返しを喰らった。
 それは、上記の一時保護所の難点はそのままソルティの職域である高齢者介護施設の事情に当てはまるからである。
  • 一人で自由に外に行けない。
  • 男女間の交流が前提視されていない。(禁止はされていないが、自由に恋愛やセックスができるような環境ではない)
  • ルールやスケジュールを守るよう期待される、あるいは強制される。
  • 職員によって常に監視されている。(監視とは言わず‘見守り’と言うが)
  • 他の利用者や職員に暴力的行為を振るったり不穏状態が続いたりすると、薬でコントロールされたり、精神科病院への入院を勧められたりする。
  • 滞在しなければならない日数が不明確であり、かつ長期化している。
  • 職員から虐待を受けることがある。 

 同じ場所で時間を過ごしながら子どもの状況を想像できないなんてことがあるのかと疑問に思うかもしれませんが、職員と子どもの間には決定的な違いがあります。それは、職員はいつでも外に出ることができ、一時保護所にいる時間は生活の一部でしかないのに対し、子どもは寝ても覚めても一時保護所内でのみ時間をすごしているという点と、職員はルールをつくり順守させる立場にあるのに対し、子どもはそれに従う立場であるという点に代表されます。

 一時保護所の子どもたちは、一時保護期間が終わる三日前くらいになってはじめて、その次に自分がどこにいくことになるのかを知ります。多くの子どもは何も知らされないまま突然一時保護所に連れてこられ、自分があと何日ここに居続けるのか、親元に戻れるのか戻れないのかもわからないまま、不安な気持ちとともに時間を過ごすことを強いられています。

 悲しいことですが、問題の少ない子どもだけを受け入れて、問題を表出させた子どもをすぐに投げ出す施設や里親家庭は一定数存在します。特に残念と感じるのは、比較的簡単に子どもを投げ出す施設があることです。

 上記の「子ども」という言葉を「要介護高齢者」あるいは「認知症高齢者」と入れ替えると、文脈的に高齢者介護の世界にもつながる指摘であると残念ながら言わざるを得ない。
  • 「いや、超高齢化で介護を必要な高齢者が爆発的に増えているから」
  • 「介護施設が足りないから」
  • 「介護職員が恒常的に不足していて、仕事がハードだから」
  • 「一人ひとりの利用者や家族の要望を聞いていたら、きりがない。業務が滞ってフロアが回らない」
  • 「高齢者は転倒・誤嚥しやすい。認知症患者は何をするか分からない。見守りは欠かせない。落ち着いて過ごしてもらうための投薬コントロールは欠かせない」
  • 「要介護高齢者や認知症患者が住みなれた我が家や地域で過ごせる仕組みはまだ整っていない。本人の健康や安全を守るために今のところ施設しかない。こういうやり方しかない」

 いろいろな理由(言い訳)を日々心の内で呟きながら仕事している自分がいる。(呟かなくなったら「おしまいだな」と思いつつ・・・)。


 一番の問題は、多くの地域、特にコミュニティが弱り子どもを支える力が失われた地域において、児童相談所が子どもとその親の問題をすべて一手に抱えている状況にあるのではないでしょうか。
 これもまた、「子ども問題」と「老人問題」の両方に共通して、いや現代日本の社会福祉において分野を横断して唱えられている処方箋である。