日時 2017年 3月25日 (土) 13:30~
会場 すみだトリフォニーホール 大ホール(墨田区錦糸町)
曲目
  • M.ラヴェル: バレエ音楽≪ダフニスとクロエ≫第2組曲
  • G.マーラー: 交響曲第5番 嬰ハ短調 
  • アンコール M.ラヴェル: 亡き王女のためのパヴァーヌ
指揮 三河 正典


ユーゲント・フィルハーモニカーは、財団法人「日本青年館」の音楽行事(オーケストラ・フェスタ、全国高等学校選抜オーケストラ・ヨーロッパ公演、日本ユンゲ・オーケストラ・ヨーロッパ公演)に参加したメンバーが中心となって2006年3月に創設されたオーケストラです。現在団員約70名を越えるオケにまで成長しました。3月の定期演奏会を中心に、福祉施設や普段生のオーケストラに触れる機会のない農村への訪問演奏、その他、行楽施設の各種イベントやテレビ番組での依頼演奏など幅広い活動を行っています。(ユーゲント・フィルハーモニカー公式ホームページより抜粋)

 
 すみだトリフォニーホールは、シックで広々として居心地よく、音響効果も優れている。1801席のうちの1142席が埋まったらしい。さすがクラシック指折りの大人気曲である。

 ラヴェル≪ダフニスとクロエ≫第2組曲は、もともとバレエ音楽なので、交響曲や協奏曲のような、曲自体で完結した構造的な美しさは期待できない。しかし、フレーズの美しさたるや絶品である。
 ラヴェルはオーケストレーションの魔術師と言われる。有名な『ボレロ』やムソルグスキーのピアノ曲を管弦楽用に編曲した『展覧会の絵』などは、まさにその称号の正当性を立証するものである。
 と同時に、ラヴェル音楽の特徴は「色彩の豊かさ」にあると思う。
 ラヴェルの音楽は、聴く者の閉じたマブタの裏に、様々な色彩の衣装を付けた踊り子たちを映し出していく。最初は一人の踊り子(単色)から始まり、微妙なグラデーションをつけながら一人また一人と増えていき、色を重ね、色と色とがあちこちで反射し、引き立て合い、異なった色の組み合わせがまったく別の色を生み出し、終いにはあふれんばかりの色彩の群舞の中にいる自分を、聴く者は発見する。
 その色彩は、アンリ・マティスやゴーギャンのようにベタで大胆なものではなく、シャガールのように幻想的なものでもなく、パウル・クレーの抽象絵画のような明るさとはかなさとに満ちている。
 あくまでもフラジャイル。
 本来、視覚とは関係ない音楽になぜこんなに「色」を感じるのだろう?
 世の中には共感覚を持つ人がいて、特定の音を聴くと特定の色が浮かぶという。ラヴェルはまさにその一人だったのではなかろうか。
 そして、ラヴェルの音楽は、それを聴く者の共感覚――つまり「音」と「色」それぞれを認識・管轄する脳細胞の両方――を同時に刺激する効果を持っているのではなかろうか。
 
共感覚(きょうかんかく、シナスタジア)は、ある刺激に対して通常の感覚だけでなく異なる種類の感覚をも生じさせる一部の人にみられる特殊な知覚現象をいう。 例えば、共感覚を持つ人には文字に色を感じたり、音に色を感じたり、形に味を感じたりする。(ウイキペディア「共感覚」)


クレー
パウロ・クレー作「本通りと脇道」
(ミュンヘン・ヴァルナー・フォーヴィンケル美術館所蔵) 

 
 マーラーの5番ほどソルティがよく聴く交響曲はない。ただしCDで、という補足がつく。ライブではやっぱりベートーヴェン《第九》が群を抜いている。
 今回久しぶりにライブでマーラー5番を聴いて、この曲の圧倒的な名曲ぶりを再認識するとともに、CDで聴く音楽とライブで聴く音楽の違いをまざまざと感じた。 
 今更ソルティのような素人がやる意義はまったくないと承知のうえ、次のように比較できよう。

1.「平面的・同時的」V.S.「立体的・波状的」 
 部屋でCDを聴くとき、音波の旅する距離は圧倒的に短い(イヤホンの場合など、ほぼゼロである)。広い空間を持つホールでは、音波は空気を振動させながら、比較的長い距離を旅して聴く者の耳に到達する。
 そして、CDはすべての楽器の音が、同時に・同じ場所(スピーカーorイヤホン)から発される。ライブでは、それぞれの楽器の置かれている位置の違いによって、あるいはそれぞれの楽器の音色が持つ周波数の違いによって、それぞれの楽器の出す音が微妙な時間的・空間的差異を持って聴く者の耳に届く。これが、音が平面的・同時的に聴こえるか、立体的・波状的に聴こえるかの違いを生み出す。
 とくに違いが顕著に分かるのは、全楽器で出すフォルティシモ。CDでは本当にいっぺんに、あたかも一音のように「バンッ!」と鳴り響く。ライブだと、フォルティシモにも微妙な色合いが混じって、重層的に聴こえる。

2.「中心的」V.S「周縁的」
 弦楽器が情熱的なメロディ(主題)を奏でる後ろで、ピッコロが剽軽なツッコミを入れたり、トランペットが軽快に伴走したり、オーボエが冷静な抑止をしたり・・・という周縁の面白さを味わうのが、管弦楽を聴く楽しみなわけである。今回も、「ああ、ここにこんな美しいクラリネットのフレーズがあったのか」とか「こんなところにトライアングルが使われていたのか」・・・といろいろ発見があった。
 CDだと、どうしてもそのとき主要なメロディを奏でている楽器に気を取られてしまう。やはり、音の発生元が一つというところに主因はあるのだろう。スピーカーの数を増やしてサラウンドにすれば、ある程度はその弊害を改善することができるのかもしれないが、庶民の家では限界がある。

3.「聴覚的」V.S.「視覚・触覚的」 
 ライブが視覚的というのは説明するまでもない。舞台上にびっしり並んだ大編成オケの威圧感も、演奏者や指揮者の動きや表情を見る楽しみも、ステージ上にイケメンや美女を探す歓びも、ライブでなければ味わえない。
 一方の触覚的とは、指揮者や演奏者や客席の発する‘気’、楽器の発する生の音の波動をじかに体感できることに尽きる。特に音波は、当然、聴いている者の鼓膜だけでなく、身体全体に接触し、全細胞に浸透し、震わしている。いったんデジタル情報に変換され機械的に再合成された音楽信号と、生の音とでは、明らかに波動の質が異なる(と思う)。

4.「いつかどこかで」V.S.「いまここで」
 家でCDを聴くとは、いつかどこかで発された演者の‘気’の微かな残滓を、いまここで味わおうとする行為である。一方、ライブでは、いまここで演者の発した‘気’が、音波に乗って客席に運ばれ、いまここで聴く者の‘気’と遭遇し、何か新たなものが生まれる。言い換えれば、ライブとは‘いまここ’を演者と聴く者とが共有する体験である。
 あらゆる芸術の中で、音楽が一番官能的になり得るのは、音楽が一番セックスに近いのは、それゆえだろう。その意味では、
家でCD=アダルトサイトを見ながらのマスターベーション
ホールでライブ=生セックス
と言えるかもしれない。

 「この世でもっとも彼岸に近い曲」と言われる(byソルティ)第4楽章の甘美さは、極上のセックスに匹敵する悦びをもたらしてくれて、完璧にシートに溺れた。1141人に囲まれてそんな恥態をさらした自分が、ちょっと変態な気がしたほどである。
 今回はユーゲント・フィルと三河正典にオト(音)されました。


タドジオ