2008年原著刊行。
2014年ブイツソリュージョン発行 星雲社発売

 副題どおりの本である。国籍も居住地も職業も年代も様々な7人が、自らの覚醒体験を自由に語ったものである。

 この本に収められている7つの話は、悟りは「特別」な人たちにしか起こらないという神話を完璧に打ち砕いてしまう。覚醒はマスターたちのものだとか、覚醒はグルから伝授してもらえるものだとか、師から教えてもらえるものだとか、そういうのがすべて嘘っぱちだということも、7つの話を読むとはっきりする。(ジェフ・フォスターによる序文より)

 とあるように、本書では、まったく普通に生きてきた普通レベルの知能を持つ人間が、ある日を境に真実に目覚め、それ以降もなお、グルや宗教家になるでもなく、スピリチュアルマスター(霊的教師)になって各地でワークショップや説教会を開くでもなく、深山幽谷に籠もってさらなる向上を目指すでもなく、普通の市民として家族と暮らし平凡な仕事を続けている姿を描いている。仏教的に言ってみれば、悟りを開いた在家の人間ということになろう。

 世には‘悟っている’人が結構いるのかもしれない。
 彼らは自分から「私は悟っています」とは言わないし、見かけ上は悟っていない人と何ら変わりはないから、周囲からはまったく気づかれないまま、むしろ、彼らの何事にも動じないような悠長な振る舞いと‘今’に生きているがゆえに頼りない記憶力と愚かなまでの人の良さだけから判断されて、「トロい奴だなあ~」くらいに思われているのかもしれない。(そう言えば、一昨年亡くなった友人がそんなふうだったなあ)
 仏教だと、最初の悟りである預流果を得ると五戒を守るのがあたりまえになるから、「人を殺さない・盗みをしない・不倫しない」はもちろん、「酒も飲まない・嘘もつかない」人間になると言う。逆に言うと、五戒を守れないうちは預流果に達していないということだ。
 本書に登場する7人は、悟る前と同様に、人の悪口も言えば酒も飲めば夫婦喧嘩もしている。仏教文脈から見たら、彼らの悟りはどう位置づけられるのだろう?

 7人の覚醒体験は様々であるけれど、その話には共通していることも多い。同じ一つのもの(=真実)を見ているのだから当たり前と言えば当たり前だが、興味深いことである。
 

● 7人とも何らかのスピリチュアルな探求をしていた。
 OSHO(ラジニーシ)やクリシュナムルティら有名な覚者の話を聞きに行ったり、いろいろなスピリチュアルワークショップに参加したり、禅やヨガや瞑想に凝ったり、いろいろな宗教を渡り歩いたり、実にいろいろなことを試している。禅の十牛図に見るように、やはり最初は探求から始まるのだろう。
 求めよ、さらば与えられん。

● 絶望の経験
 7人のほとんどが「悟る」前に最悪の精神状態に置かれていた。人生が自分の力ではどうにもならなくなって、すべてを諦めて断念したときに‘それ’が訪れる。
 思考の動ける限界まで達して、不承不承思考が落ちた瞬間、突発的にシフトチェンジが起こるのかもしれない。左脳から右脳への主役交替が・・・。

● 「自分が消えた」という体験
 これまで持っていた自己イメージが幻想に過ぎず、「自分」というものは現実にはいないという認識に達する。諸法無我そのものだ。

● 「すべては変わる。何も変わらない。」
 覚醒後に起きた変化についてみな一様に口にするセリフがこれ。
 日常生活に何らかの変化や刷新が起こるわけではなく、人生はこれまでどおりに続いている。いいことも起これば悪いことも起こる。養わなければならない家族もいて、生活のための仕事もあって、メンドクサイ人間関係もなくなるわけではない。ただ、それらについてのパースペクティヴ(=観方&身の処し方)が変わるらしい。

● 「起こるべきことはひとりでに起こる。」
 これも皆が口にしている。世の中のあらゆることは自分や他の誰かの意志で起きているのではなく、すべては起こるべきときに自然に起こっている。仏教で言う‘因縁・縁起’を思わせる。

● 「まったく単純なことで、最初からここにあった」 
 ‘それ’は最初からここにあって、そもそも‘自分’は‘それ’なのだから、探す必要もない。むしろ探すことによって遠ざかってしまう。これが最大の逆説である。


 自分がほんとうは誰であるかがわかって、それと同一化していると、まったく何もする必要がありません。すべてそのままで大丈夫だからです。すべてはまさに完璧なんです。いちいち邪魔する必要などありませんし、心配する必要も、じたばたする必要もありません。
 駆り立てているのは誰なんだろう?と自問してみるんです。何かが起こってほしいと思っているのは誰なのか、尋ねてみてください。何かを求めているのは誰なんだろう? その人にただ優しく接して、見守ってみるんです。その人に苛立たないでください。ときどき自分にこう尋ねるんです。「このことを不安に感じているのは誰だろう? 誰ですか?」 
 この質問では「誰なのか?」という点が大切なのではなくて、「どこ? どこなの?」というところがポイントです。その誰かがどこにいるか見つけてみてください。「どこにいるんだろう?」と。

青い鳥