
日時 2017年4月16日(日)14:00~
会場 戸田市文化会館大ホール(埼玉県)
曲目
- チャイコフスキー:バレエ音楽「眠れる森の美女」より抜粋(序奏とリラの精、パノラマ、薔薇のアダージョ)
- ストラヴィンスキー: バレエ音楽「妖精の口づけ」―ディベルティメント
- チャイコフスキー: 交響曲第5番
- アンコール チャイコフスキー: 「眠れる森の美女」よりワルツ
指揮 笹崎榮一
戸田交響楽団は2回目である。前回はコンマスをつとめたNHK交響楽団の降旗貴雄の『白鳥の湖』の素晴らしいヴァイオリン独奏に陶酔した。
今回もまたチャイコフスキープログラム。
日本のメディアにおけるオネエタレント人気を思うと、日本人のチャイ子好きも不思議でも何でもないのだけれど、ではなんで日本人はオネエタレントが好きなんだろうか?
歌舞伎における女形の伝統?
美輪明宏の長年の薫陶の賜物?
言いたいことをズバリと言ってくれるご意見番としての価値?
欧米マッチョ文化への反発?
性別を超越した存在に対する呪術的期待?
ともあれ。
チャイコフスキーの典雅で感傷的なメロディとゴージャスかつ華麗なるオーケストレイションは、今回もまた見事ソルティのツボにはまった。あちこちのチャクラが活性化し、身体がまんまオーケストラのようだった。
チャイコフスキーが交響曲5番を作ったのは48歳のとき。亡くなる5年前である。
いまやソルティはその年齢を超えたわけであるが、5番を聴いていると40代の時の自分よりも10代20代の自分を思い出すのである。おのれのセクシュアリティに気づき悩んでいた青春の頃である。
当時の自分が味わった様々な感情的要素――否認や恐れ、孤立や不安、怒りや反発、自己嫌悪や逆転した形の優越感(選ばれしことの恍惚)、悲観や絶望、虚無や満たされない欲求、祈りや諦め、性愛の悦びと苦しみe.t.c――が次々と体の奥から浮かび上がってきて、再現フィルムのように追体験した。
だが、それは苦痛というよりも懐かしさを伴った哀感である。
自分の30代(1990年代)は、ゲイリブや市民活動や精神世界(スピリチュアリズム)の季節であって、それらを通じて多様性の価値を認める素晴らしい人々と出会ったことが、今の自分を作る礎となった。自己受容と自己肯定が拓かれた。それが40代半ばで原始仏教と出会い、「物語」や「自己」そのものの欺瞞と弊害を見るようになった。言うならば、「近代」に対する懐疑を抱くようになった。
チャイコフスキーの音楽、つまりチャイコが囚われている世界は、まさにソルティが10代20代で味わった近代的ゲイの喜びと苦悩そのものという気がする。それは彼の生きた時代と場所が必然的にもたらした限界であろう。ゲイリブを知らぬチャイコは近代的個人として「自己肯定」するのは困難であったろうし、かと言って、偉大な先輩たるベートーヴェンのように、苦しみを超越し喜びに至る道(=神への帰依)を辿ることもかなわなかった。キリスト教における同性愛の位置づけゆえに。
チャイコフスキーの音楽、とくに交響曲を聴くと、《第九》のように「暗」から「明」へと突き抜けたいと頑張っているのに、なかなか辿り着けないでいる魂のもどかしさを感じ取るのである。
もしや日本人はチャイ子のそこを、できの悪い子供を愛するように愛しているのだろうか。
もしや日本人はチャイ子のそこを、できの悪い子供を愛するように愛しているのだろうか。