日時 2017年4月23日(日)14:00~
会場 一橋大学・兼松講堂
曲目
- ウェーバー/歌劇《魔弾の射手》序曲
- チャイコフスキー/バレエ《白鳥の湖》組曲 作品20
- ドヴォルザーク/交響曲第9番 ホ短調 作品95《新世界より》
- アンコール1 モーツァルト/交響曲40番 ト単調 第一楽章
- アンコール2 ヨハン・シュトラウス1世/ラデツキー行進曲
指揮 和田一樹
開演1時間前に国立にある一橋大学に着くと、兼松講堂脇にすでに行列ができていた。
並んで待つのは好きじゃないが、天気はすこぶる良いし、青葉きらめくキャンパスは気持ちいいし、集中できる本も手元にあったので、最後尾についた。
開場時には、列は林の中でとぐろを巻く蛇のようにうねっていた。
メジャー曲ばかり集めたこのラインナップで自由席無料とくれば行列もいたしかたないと思うけれど、実際には1000名の定員に届くことなく、早く来る必要も並ぶ必要もなかった。そんなもんだ。
ファミリーコンサートと銘打ってあるせいか子供連れが多い。開演前から、客席のあちこちから赤子の泣く声や幼児のはしゃぐ声が上がっていた。「小さい時から良い音楽に触れさせるのは発達上よろしい」という俗信がはびこっているためか。外の芝の上で親子スキンシップしているほうがずっと子供の将来のためになると思うが・・・。
案の定、登場した和田一樹が指揮台に登り客席に背を向け場内が静まった瞬間、あちこちから幼児の声が響いた。両腕を挙げたまま固まる指揮者。そそくさと客席から我が子を連れ去る親たち。面白い光景とは思ったが、やっぱり「小学生未満はご遠慮ください」の限定は必要なのではなかろうか。国立市から金銭的援助(税金)を受けているからそれができないとかあるのか?
今回はずばり和田一樹が目的であった。これだけ有名で耳慣れた曲が揃うと、かえって才能が分かりやすいのではないかと思ったのである。
で、まさしくその通りであった。
《魔弾の射手》序曲では躍動感が漲っていた。オペラ開幕前の観客の心を一気に鷲づかみにして‘日常’から‘物語世界’への移行をスムーズにする「序曲」の働きを見事に遂行していた。それはまた本日のプログラムにおいてこの曲を一発目にもってきた趣旨でもあろう。「出だしから調子がいい」というのが和田の特徴の一つかもしれない。‘つかみ’はバッチリだ!
一番良かったのは《白鳥の湖》。
ベタなまでにドラマチックな仕立てで客席も盛り上がった。ソルティの隣に並んでいた小学生たち(特に女の子)もすっかり心を奪われているようであった。さすが名曲!
ベタなまでにドラマチックな仕立てで客席も盛り上がった。ソルティの隣に並んでいた小学生たち(特に女の子)もすっかり心を奪われているようであった。さすが名曲!
思い起こせば、ソルティが人生最初に耳にしたのを記憶しているクラシック音楽こそ《白鳥の湖》である。幼稚園の年長の時だ。運動会のお遊戯で近所の女友達が踊っているのを「いいなあ~」と思いながら見ていた記憶がある(笑)。
くにたち市民オーケストラの演奏は手堅く、綻びも少なく、大人っぽい。地域オーケストラにはやはり市民性が反映されるのだろうか。興味深いところである。
《新世界より》を聴いて思ったのだが、和田一樹の音楽の特徴を一言で言うなら「演歌的!」ってことになる。
演歌を演歌たらしめている要素やテクニックは次のように整理できよう。
- 人間模様のドラマ=浪花節的情緒世界
- 心象風景と自然風景のシンクロ
- こぶし、ビブラート、しゃくり、フォール、ファルセットなどの歌唱テクニック
たとえば、石川さゆりの名曲『天城越え』を例に取れば、①結ばれてはならない関係にある男女の愛憎や性愛を、②浄蓮の滝や天城隧道など伊豆の自然風景とシンクロさせながら、③石川さゆりの第一級の歌唱テクニックで歌い上げている。
和田の曲解釈や音づくりに、どうもこれと似たようなアプローチを感じ取るのである。
①曲の中に潜んでいるベタな人間ドラマ(歌劇やバレエなどはもろ表面化している)を、②心象風景とも自然風景ともつかぬ、あるいはその双方が入り混じった絶妙なバランスの地点から、③曲の魅力をより効果的に引き出す様々なテクニック(トリックと言ってもいい)を用いて聴衆に提示する。
①曲の中に潜んでいるベタな人間ドラマ(歌劇やバレエなどはもろ表面化している)を、②心象風景とも自然風景ともつかぬ、あるいはその双方が入り混じった絶妙なバランスの地点から、③曲の魅力をより効果的に引き出す様々なテクニック(トリックと言ってもいい)を用いて聴衆に提示する。
他の指揮者だって多かれ少なかれ同じことをしているのだろうが、和田の場合、③のテクニック(あるいはトリック)に対する取り組み方がかなり意識的という気がする。テンポの緩急、音量の強弱、音の入りと切りの微妙なズレなどで全体にメリハリをつけ、いやがおうにもドラマチックに仕立て上げる。曲自体に仕組まれている経絡のツボを発見し利用するのが上手いということである。
なので、それが上手くいったときは、ツボ押し効果で‘気’の流れが活性化し、曲自体が生きてくる。演奏に生命力がもたらされる。
一方で、懸念するのは、あまりテクニックに偏りすぎてしまうと、張子の虎のようになってしまわないかという点である。聴衆はそれなりに興奮するし感動するだろうけれど、そこに深さはない。耳肥えた者は「あざとさ」を見るかもしれない。和田はテレビや映画の露出が多いようだが、マスメディアというものは若く才能ある人をそういった不毛な状況に容易に持っていくであろうと思うので、老爺心ながら気にかかる。
和田自身が何を目指しているのか知らないので余計なお世話であるが、できたらこの指揮者の手による『アイーダ』や『復活』を聴いてみたいと思うので。
和田自身が何を目指しているのか知らないので余計なお世話であるが、できたらこの指揮者の手による『アイーダ』や『復活』を聴いてみたいと思うので。
曲間のMC(トーク)の面白さや人あたりの良さ、開放性、庶民性、オケや観客と一体感をつくる天性の資質。カリスマ的な魅力を発揮する指揮者であるのは間違いない。