幻想からの解放 002
タイトル『カモメ』 画:いとう良一


2014年ナチュラルスピリットより刊行

 近所の図書館の精神世界系の棚で見つけた。
 タイトルと「かもめのジョナサン」を思わせる表紙に惹かれて手に取り、著者プロフィールを読んで俄然興味を持った。
 富平正文は1989年7月生まれの27歳。疾風怒涛の平成元年生まれである。千葉県柏市に生まれ、現在は茨城県に住んでいるらしい。

幼い頃から世の中のありように疑問を抱き、中学3年生で学校に行かなくなり、それ以来、長い間世の中から離れて暮らし、21歳の時、長い心理的苦悩や放浪の末、内側で大きな変容を体験し・・・・・(著者プロフィールより)

 つまり、《不登校→引きこもり→ニート》という現代日本のデリケートな青少年のたどる‘王道’を歩んできたのである。世間的には‘負け組’予備軍にさっさと入れられるであろう。
 21歳時の変容体験とはどのようなものか。

 部屋の中にいると、徐々に私の心に今までの過去の苦しみと不安、焦燥感、苦痛、絶望が一挙に押し寄せてきました。それが頂点に達したところで私はその苦しみに耐え切れなくなり、床に崩れ落ちると同時に私の中に今までに一度も起こったことがないような想いが全霊の哀願とともに生じました。「神よ、私はいったい誰なのか、教えてください」――その瞬間に内側に強烈な閃光が走り、今までの個人的な“わたし”という雲が一瞬のうちに蒸発すると同時に、それは非個人的な〈わたし〉に取って代わりました。それに続いて、一度も経験したことがない、言語を絶した無条件の愛と歓喜に包まれました。

 しばらくして富平青年は、内なる気づきを発表の意図もないままに書き留めるようになる。それらをまとめたのが本書なのである。

 読み始めてすぐに気づくが、まさに「覚者の言葉」である。かつて精神世界本を読み漁ったソルティが言うのだから間違いない。OSHO(ラジニーシ)、クリシュナムルティ、グルジェフ、無名庵EO、ラマナ・マハルシ、ニサルガダッタ・マハラジ、ジェニファー・マシューズわかっちゃった人たち・・・・・等々、悟りを開いた(と言われる)人たちとほとんど同じことを言っている。何よりブッダと同じことを言っている。これらの覚者の書き残したものを剽窃し・継ぎはぎし・編集したのでなければ、富平青年もまた悟りの一瞥に与ったのは確かなことであろう。
 実際、いまどきの27歳の青年とは思えぬ深遠さと洞察力と文章力とに驚かされる。それも、OSHOほど説教臭くなく、クリシュナムルティほど高踏的でなく、グルジェフほど難解でなく、無名庵EOほど破壊的でなく、ラマナ・マハルシほど曖昧(神秘的)でもない。ジェニファー・マシューズのようなユーモアこそないものの、さすがに平成生まれの若者だけあって、その文体はIT的なVividさ・無機質感・簡潔さを帯びていて、物言いは率直である。‘真理でないもの=幻想’の正体をひたすら言を重ねて暴き出すことによって、逆説的に言葉にできない‘真理’の様相を読む者に仄めかすことに成功している。

 以下、引用(句読点など部分的に訂正入れた)。

●この世の苦しみの原因は、大きく分けると二つしかない。
① 自我の効力(プログラム)や幻想、迷妄があまりにも強力であるため。
② その結果として、無智と虚偽――すなわち膨大な数に及ぶ低いレベルの真実や情報(無智)と完全に誤った情報(虚偽)――が世界に蔓延しているため。 

ソルティ解釈 : ①「自分」があるという錯覚、②「物語」による洗脳ということだろう。


●一見“問題”に見えるネガティヴ性や内的な痛みは本当はたいしたものではなく、飾りのようなものだ。しかし、周りも本人もたいていはこの飾りが“問題そのもの”であり、その根本的な原因であると思い込む。そして、それらを含めた様々な悩みや苦悶、不足感が‘解決’されたとき(もしくは過ぎ去ったとき、一時的に止んだとき)、そこで初めて本当の問題に気づき始める。
 それは、常にある静けさに留まっていられないという、最も単純で最も強力な人類に共通する真の“問題”と言えるものである。誰を見ても、どの国や種族を見ても、歴史上のどこへ行っても、この現象は完全に共通している。これに比べれば、どんな世の中の大問題も霞んでしまう。それはあらゆる問題は結局ここから生じているからである。

ソルティ : これこそ「無い幸福」より「有る不幸」を選んでしまう人類の宿唖である。


●感じたことのあるどんな状態や気分も、自ずと生じてくるどんな思考も、すでに人類が散々味わいつくし共有しうんざりするほど繰り返してきたものであり、自らが最初ではない。自らが初めて味わうものはなく個人的なものでもないことを知れば、それを深刻に受け取ることなく観察することができる。

ソルティ:「個人の意識は人類の意識そのもの」というクリシュナムルティの言に通じる。それゆえ「個人は存在しない(=諸法無我)」なのである。


●人を説得したり世界を変えようとするよりも、自らが真理によって幻想から自由になることで人類の心(意識)に根本的な恩恵をもたらすことができる。・・・・心はあまりにも強固にプログラミングされているので、人々を説得することはまったくと言ってよいほど無意味である。

ソルティ : イギリスのEU離脱劇やアメリカのトランプ大統領誕生ドラマに見るように、昨今では「意識高い系の人々」に対する反発から保守への揺り戻しが起きている。人は、それがどんなに‘良い方向へ’であれ、他人によって「変えられる」ことを望まないのである。

  
●人は歳を取るほど成熟していくというのは主要な幻想である。ほとんどの人は、ただ歳を取っていくだけに過ぎず、見かけは変わるが内側のプログラムや信念体系のすべては、幼い頃や成長過程に流し込まれたまま何も変わらない。 
  
ソルティ : 老人ホームで八十・九十の爺さん婆さんに日々接しているソルティが確言する。人間は成長しない。むしろ歳を取れば意固地になる。性格の良い爺さん婆さんは、昔から性格の良い紳士淑女である。ただ‘気づき’だけが人を根源的に変容させるのであろう。


●風邪を引いても「これは‘私の’風邪だ」とは言わない。なのに、われわれがかかっている心理的・精神的な風邪に対しては、なぜか‘私の’風邪だと言う。そしてその思い込みこそが風邪を長引かせている。それはいつしかなじみ深いものとなり、治ることを望まなくなる。

ソルティ : 名言! 体の風邪が一時的なものであるように、心の風邪も‘やって来ては去っていくもの’というスタンスで受け流すことが治りを早くする。諸行無常。

 
●世にあふれる膨大な信念の中で何にもまして古く強力な信念は“わたし”という信念である。“わたし”は究極の信念であり、立ち位置である。それはこの地上にいるすべての人が信じていることなので途方もなく頑強なものとなっており、その一つの信念は完全に疑う余地のない真実としてまかり通っている。ほかの信念(体系)のほとんどはこの“わたし”という信念と相互/依存関係にあり、“わたし”を拠り所にし、それに寄りかかることで成り立ち維持されている。その“わたし”という土台を引っこ抜けば、あらゆる信念体系やそれを準拠としているものすべては支えを失い必然的に崩れ落ちていくが、人はそれを望まない。なぜなら、それはあまりにもなじみ深いものになってしまっているからである。

ソルティ : ブッダの起こした革命の真髄は、この“わたし”という人類最大の幻想(=物語)の正体を見破って、一掃したところにある。

 
 ところで、富平青年「プロローグ」でこう述べている。

私自身はもはや、いわゆる世俗に戻る意欲はなく、この世界そのものに留まる意欲もありません。

 悟った者にとって、無智と幻想によって成り立つ‘世間’はなんら魅力あるものではなく、そこに居続ける意味は少しも感じない――というのは何も富平青年だけに限ることではない。梵天勧請のエピソードに見るように、世界で最初に解脱宣言したブッダはまさに同じことを思ったのである。最初にあげた他の覚者たちも多かれ少なかれ同様であろう。映画『マトリックス』で、コンピュータによって作られた仮想現実を生きてきたことに気づいたネオが、ふたたびカプセルの中に戻ることを望まないのと同じである。
 では、そこから先、どうするか。

 ここで「悟後の生」というテーマが出てくる。
 魚川祐司は『仏教思想のゼロポイント』の中で、解脱後の生についてこう書いている。

彼ら(ソルティ注:解脱者)は人生の残りの時をどのように過ごすのか。渇愛を滅尽し解脱に至った者たちは、存在することを「ただ楽しむ」のである。それはもちろん、「欲望の対象を楽しみ、欲望の対象にふけり、欲望の対象を喜ぶ」ような、執着によって得られる「楽しみ」ではなく、むしろそこからは完全に離れ、誰のものでもなくなった現象を観照することによってはじめて知られる、「最高の楽(paramam sukham)」と言うべきものだ。

 凡人には測り知れない境地である。寿命を全うしたブッダ(80?)もクリシュナムルティ(90)もラマナ・マハルシ(70)も、益するところの少ない説法を何十年も広く絶え間なく続けながら、上記のような‘悟後の生’を生きていたのであろうか。
 一方、悟った後まもなくして文字通り‘世を捨てて’しまう覚者もいるようだ。ありていに言えば自殺してしまうのだ(自殺とは言わず‘遷化’と美化されることが多い)。確証は無いが、精神世界で知る人ぞ知る現代日本の代表的覚者であったダンテス・ダイジ(雨宮第慈)は37歳にしてガス‘遷化’したようである。もっとも「自殺=悪、負け、失敗」というのもまた人類の作った一つの物語(幻想)であろうから――日本の武士道や玉砕精神はそれを反転させている――ダンテス・ダイジの自殺をもって「彼は覚者ではなかった」とするのも早計と思われる。最終的な悟りに達した者(阿羅漢)は最後に残っていた欲望すなわち「生存欲」を滅すると言われている。であれば、彼は常に死と紙一重のところにいる、というより生も死も彼にとってはまったく変わりはないんじゃないかと思う。

 本書発表4年後の富平青年がどうなったのか、何をしているのか気になったので、ネット検索したところ、なんとTwitter している。
 良かった。生きてる!!
 
 ざっと読んでみると、昔覚えたピアノを再開したり、お酒を飲んだり、カラオケしたり、ドライブしたり、映画を観たり、女の子と付き合ったりと、普通の青年らしい生活を送っている。コンビニでアルバイトしたはいいが「使えないヤツ」と首になってもいる。あいかわらず洞察に富んだ覚者らしいモノローグが時折はさまれる一方で、自己嫌悪や自己否定や鬱や疎外感に苦しめられていることも吐露している。「全然覚者じゃないじゃん!」って思う人もいるだろうが、ソルティは逆に泰然自若と悟り澄ましていないところにかえって安堵したし好感度もアップした。悟ったからといって Everything OK ! というわけじゃないのだ。あるいは仏教の四沙門果(四つの悟りのステージ)にあるように、最終的な悟り(阿羅漢果)に至るまでは多かれ少なかれ欲望や苦しみとは決別できないのであろう。

 そこで思うのは、富平青年のようにあまりに若い頃から世のあり方に疑問を抱き、悩み苦しみ、その結果悟りに至ってしまうと、かえって俗世間で生き難くなる可能性が高いということである。早い話、中卒じゃなかなか実入りいい仕事にはありつけないであろう。引きこもっている期間が長ければ世事や社会常識に疎くなるし、人間関係を築く力もコミュニケーション力も育たないであろう。運よく仕事を見つけても、俗世間的なことに興味がなければ周囲の人間たちとまったく話が合わないだろう。端的に言えば、生活力に欠乏する。
 その意味では、普通に学校を出て社会に出て働いて、人間関係にもまれ、世間と仕事のなんたるかを知り、ある程度の生活力を身につけてから修行を始めて悟りを開くほうが、悟後しのぎやすいかもしれない。とりわけ、テーラワーダ仏教国(タイ、ミャンマー、スリランカなど)のようなサンガ(出家者の集まり)による乞食システム(=信者によるお布施システム)が確立していない日本では何よりまず食うに事欠く。
 つくづく、乞食とお布施によって生を成り立たせるサンガシステムを編み出したブッダの天才に感じ入る。富を持たない者や年若な者が俗世間にわずらわされずに修行に打ち込める唯一の方法であろう。

 ソルティの当てにならない予言だが、これから‘さとり世代’を中心に覚醒する若者がどんどん現れてくるだろう。彼らは悟りを開いたばかりに俗世間と相容れなくなって二進も三進も行かなくなるかもしれない。かといって、親のすねをかじり続けるのにも限度があるし、やっぱり‘遷化’してほしくない。自らが長になって宗教組織をつくるのも別のリスクを招きそうだ(あのラジニーシでさえ自らの組織の腐敗を防げなかった)。
 修行者や出家者を支えるシステムが日本でも必要になってくるかもしれない。

 富平青年のこれからをネットから見守って学んで行きたい。