2010年幻冬舎新書。

 女性の手による挑発的なタイトルを持つ本書を、フェミニズム視点からの仏教批判、ブッダ批判なのかと思っていた。仏教の中にある女性差別・女性蔑視や経典中のブッダの言動に垣間見られる男尊女卑といったあたりがテーマなのかと。表紙カバーに載っている著者のどことなく好戦的なまなざしがそのイメージを補強した。
 が、読んでみたら全然違った。
 フェミニスト系というより昼メロ系あるいは火サス系。著者は、フェミニズム論者でも女性解放運動家でも仏教研究者でもなく、専門はなんと音楽評論なのである。

 私はむろん、仏教に関しては門外漢だが、ブッダの人生を思うにつけ、慈愛の人ブッダがなぜ、生まれた息子に邪魔者と名づけ、妻子を捨てて出家したか、という、ブッダの愛への素朴な疑問を抱いていた。(本書あとがきより) 

 ブッダもといゴータマ・シッダッタの出家にまつわる‘素朴な疑問’を解明しようと試みたのが本書なのである。その意味で、内容と見合ったタイトルとは言えない。編集サイドの「売らんかな」の意図を脇に置いて、より正確なタイトルをつけるとしたら、『シッダッタはなぜ出家したのか』であろう。

 本書は、ブッダの王子時代の愛と苦悩を、原始仏教経典の南伝、北伝に記される種々の言葉や伝承に見出しつつ、関連するさまざまな研究資料を参照し、筆者なりのストーリーを編み上げたものである。

 この‘筆者なりのストーリー’が面白いのである。昼メロ系、火サス系と言うのはそこから来る。どろどろの家庭内愛憎劇。読み始めたら一気呵成に最後まで持っていかれた。
 
 シッダッタの出家にまつわる背景は、いろいろな学識者や僧侶や作家がいろいろな説を述べているが、大方こんなところに落ち着くだろう。

 青年シッダッタは、容姿端麗・文武両道・高邁奇偉にして、釈迦国の王位継承者として大切に育てられ、あらゆる贅沢を許されてきた。が、生まれてついての哲学的資質ゆえか、ひとり鬱々と思索にふけることが多く、どんな遊びにもどんな美女にも心晴れなかった。生老病死をはじめとする世の苦しみを見て絶望した挙句、俗世間を捨て行者となり真理を求める道を志す。釈迦国の世継ぎとなるべき息子ラーフラが生まれた夜、ついに王位も妻子も捨て、城をあとにした。

 ソルティもこの解釈で納得している。たいていの男がこの世に望むであろうもの――金、地位、権力、名声、才能、容姿、女――を若きシッダッタはすべて持っていた。それに飽いて、それ以上望むものがなかった。となれば、虚しさに襲われるのも時間の問題である。生きる意味を問うのも無理はない。すべてを手に入れたハリウッドの大スターやアスリートたちが麻薬やアルコールにはまり身を持ち崩すのを見れば、欲望の追求と成就の果てにあるものの正体が了解されよう。
 多くの仏教研究者や僧侶たちの描くシッダッダ出家の背景はこの解釈におさまる。
 多くの――ただし、多くのたちの……。

 丘山万里子はこう読み解いた。

 シッダッタ夫婦は、相愛の夫婦ではなく、不仲であった。そのもとは、シッダッタの恋で、ヤショーダラーは、夫の恋の相手がマハーパジャーパティであることを、いつからか、知っていた。知ったときから、彼女の心身はねじれにねじれる。おそらく自暴自棄、疑心暗鬼に狂っただろう。マハーパジャーパティとシッダッタには、愛の一夜があったのではないか。もしやナンダは、この二人の間の子ではないか。など、ヤショーダラーはそれこそ、邪推の鬼になったに違いない。ナンダ誕生は、シッダッタの結婚と前後する時期と思われるのだから。

 ヤショーダラーはシッダッタの妻(第一王妃)、マハーパジャーパティはシッダッタの亡き母の実妹(叔母)にして義母(父王の妃)、ナンダはマハーパジャーパティの生んだ王子である。家系図にするとこうなる。

家系図ブッダ


 そのうえ、丘山は、シッダッタが出家する直接のきっかけとなったラーフラの出生についても、「絶望と嫉妬に狂った女(ソルティ注:ヤショーダラー)が、他の男を部屋に導き入れたとして不思議はなかろう。そこで、誰かの子を身ごもってしまったとしても。女の復讐、ここに極まる・・・・」と、ヤショーダラー不倫説(=ラーフラはシッダッタの種ではない)まで推察を繰り広げている。
 いやはや、女の想像力は凄い!(すみません。偏見です)

 シッダッタの胸の奥には、父王の妃マハーパジャーパティが棲み着いている。その夫の胸の内を知ってしまった妻・・・・・・まさに愛執の蔓草にがんじがらめ、父王とその妃、シッダッタとヤショーダラーの四つどもえ、あがいてもあがいても、どうにもならぬ愛執地獄だ。・・・・・・安らぎなど微塵もない家庭生活で、全てをバサッと断ち切って、出て行きたくなるのも無理はない。

 ブッダを信奉する敬虔な仏教徒なら「噴飯きわまる!」「お釈迦様への冒涜だ!」と怒りの声を上げるかもしれない。
 ソルティはそんなことなかった。敬虔な仏教徒ではない?
 

神野寺&鵜原理想郷 025


 丘山も示唆しているが、ここでどうしても連想してしまうのは、光源氏である。

 世にも恵まれた美貌と多芸の才の持ち主・光源氏は、生まれてまもなく母親(桐壺の更衣)を失う。母の愛をひたすら求める青年源氏が愛したのは、母に瓜二つの藤壺の中宮――父帝の新しい妃であった。許されない恋の代償を得ようとするかの如く、源氏は六条御息所はじめたくさんの女たちと浮名を流すも、いっこうに心は晴れやらない。後ろ盾となる左大臣の娘・葵の上と結婚したものの愛情が湧くべくもなく夫婦仲は冷えたまま。
 ある夜、堪えきれなくなった源氏は里下がりした藤壺のもとに忍び込み、一線を超えてしまう。結ばれた喜びもつかの間、ますます募る愛執と罪悪感とに二人は地獄の苦しみを味わう。
 だが、それはさらなる煉獄のはじまりでしかなかった。まもなく、藤壺の更衣は懐妊し皇子を産む。(つづく)

 別記事で取り上げた森一生監督の映画『新源氏物語』は、まさに光源氏と藤壺中宮の道ならぬ恋を描いた良作である。
 
  光源氏 : 藤壺中宮 = シッダッタ : マハーパジャーパティ

という比例等式を丘山は想定したのである。
 紫式部が『源氏物語』を書くときに、主人公・光源氏の境遇をブッダに似せたのは意図的だったのか偶然だったのか。紫式部も丘山のように、シッダッタの出家の背景に男女のどろどろした愛憎を想像したのか否か。そして、上の比例等式にどれくらい信憑性が備わっているのか。
 なんとも言えない。
 が、一つだけ確かなのは、男と女がいるところで、このような愛憎のドラマが生じるのは古今東西変わりないということである。
 LBGTを無視しているか。
 こう言おう。
 「自我と自我とが関わりあう世の中で、愛憎の修羅場が生まれるのは必然である」
 ならば、それが出家前のシッダッタの周囲にあってもおかしいことではない。

 我々は成道した後のブッダの限りない偉大さを見て、どうしたって崇拝・尊敬・敬愛・称揚・愛慕・盲信してしまうから、その輝けるブッダイメージを、悟る前・出家前のシッダッタに投影してしまう。シッダッタを欲望や怒りや無知とは無縁の聖人君子予備軍のように捉えてしまいがちである。そのついでにブッダの家族も底上げしてしまう。ブッダを最高の師と仰ぐ経典編纂者や僧侶こそ、その傾向は強くなろう。
 しかし、言うまでもなくシッダッタは生身の男だったのである。特定の女性を好きになりもすれば、それが結ばれない相手であれば煩悶もするだろう。他の面では叶わない望みなど一つもなかったであろうからこそ、報われない思いは棘のようにキリキリと彼を苛んだことだろう。
 であればこそ、成道後のブッダは、愛欲の恐ろしさ・苦しさ・むなしさ・無益さについて、あれだけきっぱりと獅子の如く迫力を持って説法できたのではあるまいか。

 愛するものから憂いが生じ、愛するものから恐れが生ずる、愛するものを離れたならば、憂いは存在しない。どうして恐れることがあろうか?(岩波文庫『真理のことば』中村元訳、第16章「愛するもの」、212)

 丘山はこう続ける。
 ひとは、たとえば「愛」などという抽象的なものに漠然と悩んだりはしない。具体的な誰か、このひととの愛にこそ、じりじりと悩むのだ。
 若きシッダッタがとらわれた愛執や愛欲も、自分ではない誰かと誰かの関係や、そのさまを他人事として見て、愛執の苦しみとはこういうものか、などと了解したのではなかろう。明らかに自分と誰かとのどうしようもないかかわりの中で実感したことのはずだ。生きることも、老いることも、病むことも、死ぬことも、それが自分と直にかかわりのある誰か、もしくは自分自身であってはじめて「苦」として迫ってくることだ。

 その通り!
 ここにいたって、丘山の真の執筆動機が伺える気がする。一人の生身の女として、彼女もまた愛執と愛欲の嵐に揉まれ、徹底的に「苦」を実感したのではなかろうか。その好戦的なまなざしの意味するのは、男を信じることの恐ろしさを知った者の持つ警戒心なのかもしれない。(邪推?)

 本書にはむろん欠陥もある。仏教研究者でも仏道修行者でもない著者は、あちこちで、ソルティでも「おや?」と思うような初歩的なミスを犯している。
 たとえば、ブッダが生まれてきた息子につけた「ラーフラ」という名前の意を「邪魔者」と断言し、あたかも息子に対して愛情がない父親かのような書きぶりをしている。たしかに、そのように解釈している仏教書が多いのは事実だ。だが、現在では「ラーフラ」は「龍の頭」の意であり、釈迦族の守り神がまさに龍なので、「ラーフラ=一族の庇護者の頭領」といった意味合いとする説が主流である。
 また、仏教のもっとも大切な概念である「ナーマ(nama)とルーパ(rupa)」を「名前と形態」と解釈して論を進めている箇所がある(P.84~85)。おそらく、岩波文庫の『ブッダのことば』(中村元訳)に次のようにあるのに拠ったのであろう。

名称と形態とに依って感官による接触が起こる。諸々の所有欲は欲求を縁として起る。欲求がないときには、<わがもの>という我執も存在しない。形態が消滅したときには<感官による接触>ははたらかない。(『ブッダのことば』第4章11「争闘」872、下線ソルティ)

 これは誤訳である。
 nama とは「名称」ではなくて「心」のことである。そして、仏教で言う「心」とは「認識機能」のことである。「認識機能」と「物(外界の情報)」とが感覚器官で出会うので「接触」ということが生じます、というのが下線部の意であろう。

 気になる箇所は多々あるのだけれど、‘生身のシッダッタ、人間ブッダ’を浮き上がらせるものとして一読の価値はあると思う。
 ブッダがその若き日に、我々凡人とまったく同じように愛欲に溺れ、妄執にかられ、嫉妬に苦しみ、辛酸をなめたという想定は、ブッダの偉大さを少しも損ないはしない。むしろ、そのような苦しみの淵から抜け出て完全なる悟りに達した事実は、後に続く者に大いなる励みと希望を与えると思うのだ。


サードゥ、サードゥ、サードゥ