2011年筑摩書房より刊行。
2015年新潮文庫。

 ソルティの中で、飛田は「日本で一番ディープな場所」であった。新宿歌舞伎町の一画でもなく、六本木のどっかの暴力バーでもなく、上野や浅草のゲイ爺たちの集うハッテンバでもなく、ホームレスの起居する山谷や釜ヶ崎でもなく、同じように遊郭を前身とする吉原暴力団経営店が噂される雄琴のソープランド街でもなく、飛田こそ DEEPEST IN JAPAN の称号にふさわしいと感じていた。
 と言っても実際に足を運んだことはない。大阪随一のdowntown 西成に所在すること(以前小学校のすぐ近くでやきいも屋台を偽装して覚醒剤を売っていたというニュースがあった)、どっかの雑誌で見た江戸時代の遊郭まんまのタイムスリップな町並み、上がり框に着飾った女性が座って顔見せする戦前のサーカスの見世物小屋のような奇矯な風習、それに酒の席で大阪の知人♂から聞いた噂話などが混じり合って、自分の中で‘飛田神話’が立ち上がっていた。危険とタブーと犯罪と欲望と恥と悲惨さとオゾマシさと愚かさと煩悩とで極彩色に塗りたくられた‘前世紀の遺物’といったイメージである。ゲイであるソルティが自身客になる(女性を買う)機会はまずないので、そこにポジティヴな印象が皆無なのは仕方あるまい。

飛田遊廓(とびたゆうかく)は、大阪市西成区の山王3丁目一帯に存在した遊廓、赤線。大正時代に築かれた日本最大級の遊廓と言われた。現在もちょんの間が存在し、通称飛田新地(とびたしんち)と呼ばれる。(ウィキペディア『飛田遊郭』より抜粋)

 著者の井上理津子は1955年奈良市生れのフリーライター。人物ルポや旅、酒をテーマに執筆していて大阪を題材にした著書が多い。本書のカバーに掲載されている写真のダンディぶりから「もしかしてビアン?」と思ったが、本書を読むと子持ちの母である。としたら、間違いなく肝っ玉母さんだ。
 というのも、一読して何より印象に残るのが、井上の怖いもの知らずの勇敢さなのである。
 
 飛田を取材して本を書こうと思いつくだけでもエラいことである。井上には飛田内部に特段のコネもなく、しかも女性である。自らが客として座敷に上がり内部観察することもできない。管理売買春という非合法なことが行われているのだから、関係する誰だって口をつぐむ。余計な詮索されたくない。客となる男性もまた自らの恥部に関わることなので口をつぐむ。働いている女の子は、そこに来るまでに様々な言い難い事情を抱えていることが多いのでやっぱり口をつぐむ。話したところで一文の得にもならない。ましてや同じ女性が取材者であれば女としてのプライドだってある。そのうえに、性風俗業界の裏にはどうしたってブラックな人々の影が漂う。迂闊に境界を越えて立ち入ろうものなら「翌朝は大阪湾に簀巻きにされて沈んでいる」という妄想も働く。百戦錬磨の男のルポライターだって、そうは簡単には取り掛かれない題材であろう。ソルティなら、1000万円もらってもやりたくない(できない)。
 一方で、この偉業は女性だからこそできたのかも、とも思う。男社会のルールや建て前にとらわれない女性の柔軟で突飛な発想や思い切りの良さ、それに女性ならではの共感力やコミュニケーション力や包容力、男心をくすぐる脆弱性――そういった‘おんなの’武器が不可能を可能にしたのかもしれない。

 だから、本書の最大の読みどころは、タブーという名の黒く深い濠で囲まれた難攻不落な飛田城を、一介の女性ライターである井上がどう攻略して行くかである。
  •  友人知人の男たちに声をかけ‘飛田’体験を聞き回る。
  •  店(‘料亭’と言う)のオーナーたちの集まりである飛田料理組合の事務所に行き直談判する(飛田の歴史に関する分厚い資料をもらった)。
  •  店で働く女の子の話を聞くために手製のビラを配布する(400枚配って連絡をくれたのは4人)。
  •  友人♀に囮になってもらい、店の採用面接を受ける。
  •  ヤクザの事務所をアポなしで訪ねる。(ちゃんと場所を設けて応待してもらっている!)
  •  西成警察、大阪府警を訪ねて、「なんで売買春とわかっているのに見逃しておくんですか」と問いただす。(電話取材しか許可されなかった)
  •  ブログを書いている料亭の女主人に連絡を取って取材する。
  •  飛田内の飲み屋で元料亭経営者と知り合い、杯を重ね知己を深める。
 「天使も踏むを恐れるところ」にジャンヌ・ダルクのごとく果敢に乗り込んでいく井上の行動力に感嘆し、井上と一緒になって、あるいは井上の代わりに、ハラハラしたりドキドキしたり落胆したり「いいコネみつけたね」と喜んだり・・・。肝心の飛田そのものよりも著者の取材ぶりのほうが興味深く、面白かった。
 
 もちろん、飛田についてはこれ以上望みようがないくらいよく調べ、よく取材され、丹念に描かれている。街の様子も、そこに住む人の姿も、街の生まれた歴史も、発展と衰退と時代の移り変わるさまも、政治家と土建屋がらみの黒歴史も、ヤクザがらみの危険なエピソードも、料亭のシステムも、料亭で働く人たちの生きざまや苦労も、買いにくる男たちの心理も、余すところなく書かれている。しいて言えば、肝心の働いている女の子たちの肉声がもっとも聞こえてこない。意味深である。
 ソルティの中にあった飛田神話が、タマネギの皮を一枚一枚むくように一つ一つ剥がれていって、もろくも解体した。
 「なんだ。特別なことはなんにもないじゃん!」

 そうなのだ。
 この本の肝は、飛田という‘特殊な’色街そのものを描写し紹介するところにはない。読む者は、著者の取材に一から十まで付き合って、難攻不落に見えた砦が思ったより易々と突き崩れるのを見ることによって、難攻不落に見せていたのがほかならぬ自身のタブー視(=偏見)によるためであったと気づかされる。肝は‘自分と飛田との距離’を知るところにこそある。それはまた‘世間と飛田との距離(関係性)’でもある。
 大阪について、西成について、飛田について、性風俗について、売買春について、遊郭について、性について、男について、女について、ヤクザについて、警察について、部落について、人権について、読者それぞれが持っているイメージが問われていく。社会や世間がそれらに下している評価や解釈や態度が浮き彫りにされていく。飛田神話をつくっているのは、それらの総和にほかならないからである。
 
 ごくごく客観的な事実だけを語れば、そこで行われていることは「男が女の穴にチンチンを入れてお金を払っている」だけのことである。それ以外はある意味すべてフィクションである。きれいなおべべも、時代錯誤な建築も、見世物小屋のごときシステムも、女の子の手練手管も、道行く男を引き止めるやり手ババアの巧みな口上も、女の子を辞めさせないために前借金を減らさない店主のあこぎな遣り口も、街のイメージアップを図ろうとする料理組合のあれこれも、警察と店との攻防も、ヤクザと店との持ちつ持たれつも、みな砂上の楼閣のようなものだ。「男が女の穴にチンチンを入れる」という単純な行為だけのために、これほど大掛かりな、仰々しい、危険な、アホ臭い、金のかかる、すさまじい、ろくでもない、たくさんの人間の運命を狂わす「物語」が立ち上がったのである。
 人間の創造力はあきれるほど豊饒だ。

 あとがきで井上は、こう書いている。
「売買春の是非を問いたいわけではなかったが、そのことについては、書き終わった今も私には解答はない。」
 人が「物語」を必要とする限り、性は求められる。需要があれば供給は発生する。売買春は無くならないだろう。是非を言っても仕方ない。
 ただ、不当な搾取と、そこでしか生きられない女性(男性もか)をつくる社会システムだけは変わったほうがいいと思う。

遊行寺 024
 
 
 飛田神話が瓦解したいま、日本で一番ディープな場所は‘永田町’になった。


20170311だつ原発 010