2013年講談社より刊行。
『脳はなぜ「心」を作ったのか』 『錯覚する脳』(共に筑摩書房)を世に問い、稀代のトンデモ学者 or 科学によって悟りに達した覚者?――と、毀誉褒貶さまざまなる前野隆司の本である。今年1月に氏の勤務先である慶応義塾大学にて、日本テーラワーダ仏教協会のアルボムッレ・スマナサーラ長老と公開対談し、意気投合している。その内容はサンガ発行の季刊誌『サンガジャパン』26号の巻頭を飾っている。この号の特集は『無我―「私」とはなにか―』である。
前野隆司の関心および研究テーマや世界観や人間観、そこから生れてくる言説は、きわめて仏教的なのである。スマナサーラ長老は、同じく高名な学者でベストセラー作家としても有能な養老孟司とも対談し共著も出されている。養老の言説もまた仏教的である。ソルティの実感では、前野のほうがより仏教の核心に迫っていると思う。悟りの何たるかを理解し、もしかしたら‘それ’を体現している。
前野隆司の提唱する主要な理論に「受動意識仮説」というのがある。
受動意識仮説とは、『「意識」とは「無意識」下の自律分散的・並列的・ボトムアップ的・無目的的情報処理結果を受け取り、それをあたかも自分が行ったことであるかのように幻想し、単一の自己の直列的経験として体験した後にエピソード記憶するための受動的・追従的なシステムである。(ちくま文庫『錯覚する脳』より引用)
分かりやすく言えば、「私が見た」「私が聞いた」「私が感じた」「私が考えた」「私が決めた」「私が感動した」「私が愛した」「私が怒った」「私が喜んだ」「私が話した」「私が記憶した」「私が悟った」・・・・e.t.c.という「私」を主語にした体験はすべて幻想・錯覚であって、無意識が自在に機械的に行っていることのあとづけを「私(=意識)」というラベルのもとに整理統合しているに過ぎない。「私=意識=心=クオリア」と呼ぶものには実体がなく、すべての生命を突き動かしてあれこれさせている真犯人は無意識である。
――ということだ。
より分かりづらくなったか?
もっと単純にする。
ある会社員が「今日の昼飯はカレーライスにしよう」と決めたことは、「彼」の意思決定の結果ではなく、無意識の情報処理の結果であり、無意識がはじき出した「カレーライス」という結論を、あとから生まれた「私」があたかも自分がそう決めたかのように思いなしている。
これを仏教用語で言えばこうなるだろう。
諸法は無我であり、ただ因縁によって輪廻する
ソルティの見立てでは、前野の言う「無意識」とは因縁(業を含む)の別名である。この世は因果法則という巨大な精密機械(またはプログラム)によって動いていて、そこでは因縁が果を生み、果が新たな因縁となる。一部の狂いもなく冷酷なまでに精確に働いているメカニズムのうちに「私の意志」など存在する余地は微塵もない。「私の意志」と思っているものは錯覚に過ぎない。
別の観点から言えば、「私」もまた、巨大な蜘蛛の巣にかかった羽虫のごと、身動きままならず糸の振動に身をまかせている、メカニズムの一部である。「私」とは‘条件付け’の産物である。
本書で、科学者である前野は「なぜ人は死を怖れるのか」を最新の科学的知見を用いながら科学的思考によって考察・究明し、ひるがえって「ではどうしたら死が怖くなくなるか」を述べている。
上記の受動意識仮説を蓋然性の高い真理として受け取れば、結論は明確に導かれる。
- 人が死を怖れるのは、「自己(=私)」を失うことを怖れるからである。
- だが、そもそも「自己」は幻想であり錯覚であり、はじめから存在していない。
- ならば、「私はすでに死んでいる」のであるから、死を怖れる必要などない。
- 「自己」を幻想と見極めれば、死の怖さは消失する。
仮構された「自己」という概念を解体してみると、「死ぬのが怖い」という概念は存在できない。「死ぬのが怖い」という概念は、「自己」という幻想に付随して作り出された幻想に過ぎないのだ。(表題書より)

本書後半では、「死が怖くなくなる7つの方法」を提案している。
著者によれば、いずれの方法も「人類が蓄積してきた学問的な知の蓄積を論拠とした、確実で安全・安心なルート」である。つまり、「天国があるから大丈夫」「復活するから怖くない」「死は存在しない。生命は永遠に生まれ変わる」「死んだら高次元にアセンションする」「死んだらあの世で愛する人に再会できる」というたぐいの宗教的・スピリチュアル風な、確証の得られない‘おためごかし’ではない。むろん、脳科学の知見から導き出された受動意識仮説も方法のトップに挙げられている。
前野が挙げた7つの方法を読んでこう思った。
「一言で言えば‘悟りなさい’ってことじゃないか」
というのも、7つの方法のいずれも、悟りを開いた人たちの心境なり物の見方なり世界観なりを説明しているように、すなわち悟りを7つの異なった局面から概観しているように思えるのである。なるほど、悟った人は死を怖れない。
ブッダは瞑想と智慧によって悟りに達した。仏教は瞑想と仏法によって悟りに達する道を伝える。
しかし、スマナサーラ長老もどこかで書いていたが、最初の悟り(預流果)に達するために必ずしも瞑想は必要ないのだそうだ。仏教を深く理解して納得することで達しられるという。
量子力学、脳科学、宇宙論・・・最新の科学的知見はまさに仏教の‘正しい’ことを次から次へと証明しつつある。おそらく現代人は、過去の真摯な仏教徒たちが仏教(瞑想&仏法学習)によって達し得た地点に、知性と現代科学の理解によって到達しうるのであろう。
前野隆司こそはその典型と思われる。


ところで、ソルティは受動意識仮説に99%賛同、1%異議がある。つまり、
本当に自由意志は存在しないのか?自己決定は有り得ないのか?
もし、なにもかもが無意識によって決定されているのなら、すべてが因縁と業によってあらかじめプログラミングされているのなら、それは決定論・宿命論になってしまう。
物事は変えられない。世界は「筋書きのある」ドラマである。予定調和または予定不調和が世界の実相である。何をやっても徒労である。成功する人は成功するし、失敗する人はいくら頑張っても失敗する。努力は無駄となる。
社会運動も科学の進歩も無駄である。人類は初めから決まっているゼロポイントに向かって、タイタニック(あるいセウォル号)の乗客さながら運ばれていくだけである。
仏教と出会うチャンスも修行しようという意志もあらかじめ個々人のプログラムに書いてあることになる。今生で悟るか悟らないかも、来世どこに生まれ変わるかも、すでに決定している。
物事はなるようにしかならない。
本当にそうであろうか?
そうは思わない。
「この世で本当に驚嘆すべき事柄は‘悟る’ということがあるということです」とどこかでブッダが言っていたように、巨大で抗し難い因縁の網から抜け出る道があるはずだ。プログラムのバグを見つけて、そこからすべてのプログラムを消去する方法があるはずだ。すなわち、「私」が条件付けから抜け出る可能性がある。
前野と同様、現代科学の知見をもとに「自由意志が幻想である」ことを見事に解き明かしてみせた宗教家・山口修源は、その力作『仏陀出現のメカニズム』でこう述べている。
われわれはこれまで、全くの自由意志の許に生きてきたと信じて疑うことはない。しかし、本書は、それを現代科学に基づいて否定してきた。実は、自由人生どころか機械的な人生であることを明らかとしてきたのである。さらには、先祖及び個人の前世にまで言及しその意識の奥に無意識なる存在があり、それによって衝き動かされているという心理学理論を紹介した。・・・・・それらを整合していくと、われわれには如何ともし難い因果の関係性を見出すのである。それは巨大な力でわれわれを衝き動かしていく。しかし、その巨大な力に抗し得る偉大な自我或いは自己或いは霊(たましい)の存在があることを心理学者は示してくれたのである。それは、物理学法則にいう「ゆらぎ」によって導かれるものである。われわれの透徹した意識は、このゆらぎを通して巨大な力に対抗し、すでに定められた運勢を少しでも良い方向に転換させることを可能とするのである。
前野隆司は現在「人間が幸福になるためにはどうすればよいか」をテーマにした幸福学研究に取り組んでいるらしい。ならば、ぜひやってもらいたいと思うことがある。
「激流に揉まれる一枚の葉のごとく無意識に突き動かされている生命が、どうやってその流れから脱出できるのか。我々は無意識の支配からいかにして抜け出せるのか」という問いについての純粋に‘科学的’な考察であり研究であり解明である。
「なぜ人は悟れるのか」ということである。
人間が、そのなかに自分が囚われている冷酷なメカニズムを深く理解したとき、あらんかぎりの力でこのメカニズムの性質を十全に把握したとき、そのとき初めて彼は、彼の一切の行為の起源である分離の意識を自発的に吟味するであろう。英知をもって、感情と思考をもって、彼は、誰も実際に避けて通れないこの中心問題に直面するであろう。(ルネ・フェレ著『クリシュナムルティ 懐疑の炎』より)
ソルティ 様
暑中、お見舞い申し上げます。
記事の更新、大変お疲れ様でした。
昔読んだ桐山靖雄の本に、「人間の運命は、五分五分だ!」と書いてあり、ある意味納得した事があります。
未来は、ある程度決まっているのかも知れないけど「決定」はしていない。
だからこそ、我々生きている人間は努力出来るし、しなければいけないと思います。
(そこに、人間の生きる価値がある・・・)
仮に、運命の進路を選ぶ意識が「潜在意識」であっても、広い目で見れば「自分自身」に代わりは無いので、「自分は選んではいない・潜在意識に突き動かされているだけだ」と理屈をこねても何の利益にもなりません。
「私」を主語にした体験がすべて幻想・錯覚なら、本当に悩むことなど「この世界」には何一つ存在しないことになりますが、現実的には「生きることは苦しみ」であり、少なくても肉体を維持していく為に、人はこの世界で「もがき苦しんで」生活しています。
この「もがき苦しみ」は、現実以外の何ものでもありません。
幻想・錯覚と言って消え去るものでは無いのです。
そう考えたら、我々凡夫には「気休めの悟り」は必要無く、あえて必要なのは「苦を解決する方法」なのかも知れません。
「論のための論」・・・まさに、アビダルマ仏教が衰退し、大乗仏教が出現した時代と同じ「思考の過ち」が進行しているようにも感じます。