日時 2017年7月9日(日)15:00~
会場 所沢市民文化センター「ミューズ」アークホール
曲目
- メンデルスゾーン: ヴァイオリン協奏曲 ホ短調 Op.64
- チャイコフスキー: 交響曲6番ロ短調「悲愴」 Op.74
アンコール
- マスネ: タイスの瞑想曲
- チャイコフスキー: 「眠れる森の美女」よりワルツ
指揮 山上 純司
ヴァイオリン独奏 三浦 章宏
晴天の夏日とチャイコの『悲愴』ほど似合わないものはないけれど、炎天下に『悲愴』を聴くのは怪談を聞くのと同じ効果が期待できるかもしれない。これが、体の芯まで凍えるような曇天の冬日としたら、演奏後は心まで凍りついて陰鬱になりそうである。翌朝起きたとき仕事に行こうという気も湧いてこないかもしれない。どんなに素晴らしい演奏で、どんなに深く落ち込んでも、ホールから一歩外に出れば灼熱たる陽光が降り注ぎ、緑が燃えている。このバランスがちょうどいいのだろう。
・・・・・なんてことを考えながら、西武新宿線・航空公園駅からの並木通りをミューズに向かう。
アークホールはほぼ満席。
所沢フィル、しっかり地元に根付いているではないか。

まずは、メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲(愛称メンコン)。
ここ最近立て続けにヴァイオリン協奏曲を聴いているが、それぞれのヴァイオリン奏者の個性が較べられて面白い。むろん、素人のソルティにはテクニックの差はわからない。みな圧倒的に凄いと言うほかない。個性は音色というか音の造型に窺うことができる。
ここ最近立て続けにヴァイオリン協奏曲を聴いているが、それぞれのヴァイオリン奏者の個性が較べられて面白い。むろん、素人のソルティにはテクニックの差はわからない。みな圧倒的に凄いと言うほかない。個性は音色というか音の造型に窺うことができる。
今回の三浦章宏はNHK交響楽団や東京フィルハーモニー交響楽団などに所属し、都下のあちこちの有名ホールでリサイタルを開いているプロ中のプロ。第一音から観客の耳目を惹きつけてしまうパフォーマンスはベテランの名に恥じない。
その音楽は・・・・・古い樫の巨木を思わせた。
どっしりと太い幹をもち、大地にしっかり根を張り、梢は天を突く。古老のような賢さと重々しさと慈愛を備え、一人悠然と立っている。風を孕んでは逃がし、光を受けとめては撒き散らし、雨に洗われては葉を緑あざやかに幹をいっそう黒々と塗り替える。軽やかな葉っぱのさざめきや美しい小鳥のさえずりが聞こえるかと思えば、リスがするすると木を登る音やどんぐりがパラパラと地面を打つ音がする。幹のどこかに深く暗い洞もあって底知れぬ内部に通じている。


所沢フィルの伴奏は第1,2楽章においては控えめなものであった。まさしく主役たるマラソン選手の後ろを邪魔にならないように追いながら見守る伴走者のよう。あるいは、亭主の三歩後ろを歩くことが美徳とされた戦前の妻のよう。
が、第3楽章の途中から、金管メンバーを中心に覚醒し、俄然レースに参加してきたかのような気迫が見られた。
いまや樫の巨木は一人ぼっちで大地に立っているのではなかった。樫の周囲に次々と樹木が伸び上がり、木立となり、林となり、しまいにはさまざまな生命が育まれる森となった。ヴァイオリン協奏曲が森林交響曲に変貌した。
これぞ協奏曲の醍醐味。
盛大なる拍手と湧き起こる「ブラボー」は当然の結果と思えた。
盛大なる拍手と湧き起こる「ブラボー」は当然の結果と思えた。
後半の『悲愴』は、「これぞ所沢の悲愴だ」と言いたいものであった。
馬鹿にしているのではない。がっかりしているのでもない。
所沢と言えば、おそらく埼玉県で一番知名度の高い町である。西武ライオンズと所ジョージのおかげである。他に県外の人が知っていそうなのは、朝のテレビ小説『つばさ』の舞台となった川越と、『クレしん』の舞台である春日部と、「関東のカルカッタ」熊谷くらいではないか。別枠で秩父があるが、秩父に山はあっても町はない(ウソ)。所沢こそ埼玉の顔にして象徴である。
で、埼玉のイメージたるや、もはや言うまでもなかろう。魔夜峰央のディスる漫画『翔んで埼玉』を挙げるまでもなく、東京に隣接する巨大ベッドタウンであるにも関わらず、永遠に垢抜けないトッちゃんボウヤ的扱われようである。たぶん、‘東京の隣であるにも関わらず’ってところが笑いの根源なのだろう。でなければ、まったくの田舎である秋田県や岐阜県や山口県に較べれば断然都会であるはずなのに、こうまで馬鹿にされる理由が見当たらない。東京にコンプレックスを持っているが東京を馬鹿にできない地方出身の人々が、意趣返しに東京の腰巾着である埼玉や千葉を馬鹿にしているのでは?――というのがソルティの推察である。
そんな‘だサイタマ’であるが、ソルティの心の拠り所なのである。むろん、生まれ故郷ということもある。
埼玉の‘だサイタマ’性は、別の見方をすれば、‘癒し系、ゆる系、まったり系’ではないか。喰うか喰われるかの厳しい生存競争と虚飾と見栄の張り合いである‘幻想の東京’――まことの東京=下町はそんな高尚なものではない――で終始緊張を強いられ、心身疲れた人々が、鎧兜を脱いでほっと一息つくところが埼玉である。緊張や体裁とは無縁の‘のほほん’としたマイペースこそが埼玉の真骨頂。所ジョージやクレヨンしんちゃんはまさにその代表であろう。なんと言っても、ベートーヴェン第九のコンサート会場で地場産のさといもを来場者全員に配布する町がそうそうあるとは思えない。
そんな埼玉の地域オケたる所沢フィルに、哀切極まりない『悲愴』を完璧にやられた日にはソルティの心の拠り所が粉砕されてしまうではないか。逃げ場がなくなるではないか。この先、どうやってこの世知辛い世のなかを渡っていけようか。
所沢らしい『悲愴』。
これで良いのである。
これからも地域に愛されるオケであってほしい。


航空記念公園に展示されている天馬(C-46A輸送機)