2012年講談社文庫。


 本書は1999年に小学館ノンフィクション大賞優秀賞を受賞した作品に加筆したものである。取材・執筆時、まさにノストラダムスの大予言を間近に控える世紀末、悪魔的にはタイムリーな企画だったのだ。
 著者は1963年生まれのノンフィクション作家。日本にスローフード運動を紹介した『スローフードな人生! イタリアの食卓から始まる』や『フィレンツェ連続殺人』(ともに新潮社)などがある。イタリアに詳しいライターなのである。エクソシストへの興味も、カトリックの総本山(ヴァチカン)がローマにあることを思えば納得がいく。


ヴァチカン


 エクソシストとは「悪魔祓い」のこと。より詳しく説明すると、


 カトリック辞典には、エクソシズム、悪魔祓いという語源は、ギリシア語のエクス・ホルコス、強く誓わせるという言葉だとある。それは儀式を執り行う者が、ある人や物に取り憑いた悪霊に、そこから立ち去るように誓わせるという儀式のかたちに由来しているのだとも書かれていた。悪魔祓いそのものは、決してキリスト教だけに固有のものではない。病や不幸というものが、悪霊が憑くことによって引き起こされると信じられていた原始的社会においては、世界中で見られた、そうして今も見られる風習である。


 地域差や個人差は見られるものの、基本的には、厳格な形式をもった祈りの儀式だといいえる。カトリック教会は、これを七つの秘跡の次に準秘跡として正式に認めている。それは、天からの聖なる力が、司祭を媒介として、悪霊や悪魔に苛まれる人間たちを救済するという信仰に基づく古来の儀式である。(本書より引用、以下同)


 ソルティ含む多くの日本人がエクソシストという言葉およびカトリックの儀式について知ったのは、リンダ・ブレア主演、ウィリアム・フリードキン監督の『エクソシスト』(1973)によると思う。
 当時小学生だったソルティは、テレビで流れる映画予告CMや少年誌の特集記事でこの映画の存在を知って、夜も眠れないほどの恐怖を覚えた。少女の首が360度回転するシーンやドロドロした緑色の液体を少女が噴射するシーンなど、一生トラウマになるような衝撃であった。そして、「自分も悪魔に執り憑かれたらどうしよう」と本気で心配したのである。悪魔という存在を意識したことはそれまで一度もなかったにかかわらず。
 そう。 「日本にオバケや妖怪がいるように、キリスト教社会(西洋)には悪魔がいる」と知ったのが、この映画によってであった。
 で、子ども心にも、悪魔に較べればオバケや妖怪は可愛らしく‘情け容赦ある’ように思えた。「嘘をつくと舌を抜かれる」と小さい頃から事あるごとに大人たちに脅かされた地獄の王たる閻魔さまですら、ルシフェルやサタンに較べれば三軒隣りのカミナリ親父みたいな親しさを感じた。
 うがった見方をすれば、少年ソルティが無意識に洞察して怯えたのは、西洋キリスト社会の冷徹で容赦ない父性的な二元論――神と悪魔、光と闇、善と悪、人間と自然(獣)、男と女、大人と子供、勝者と敗者e.t.c――だったのかもしれない。

 映画公開当時はむろん、エクソシストなんて「時代遅れの非科学的蛮習」と一般的にはみなされていたと思う。コンコルドが空を劈き、アポロが月に行く時代に何を言ってる! であればこそ逆に、現代人の増長する科学万能信仰の足元をすくうようなこのオカルト映画は大ヒットしたのであろう。
 とは言え、それは映画の話。現実には最早エクソシストなんて廃業同然、ヴァチカンも公式には推奨していまい、と思っていた。しかも、あの映画からすでに40年以上が経っているWINDOWSが支配する今となっては・・・・。
 と思ったら大間違い。本書によると、エクソシスト(ができる神父)は増えているのである。イタリアでは80年代後半には30人ほどだったエクソシストが、2010年には300人を数えている。エクソシストを必要とする人は年間50万人にも及び、供給が需要に追いつかない状況だという。
 悪魔は増えているのか? 闇の勢力が増しているのか?

悪魔


 著者は述べる。
 

現在、脚光を浴びているのは、こうした癒しとしてのエクソシズムである。なぜなら、そこに押しかける人々の中には、精神科や心理カウンセラー、内科や外科を訪れても、芳しい成果の得られない人たち、あるいは、原因不明の現代病を拗らせている人々が増え続けているからだ。あるイタリアのジャーナリストは、エクソシストのことを、病院をたらい回しにされた人々が、最後に行き着く岸辺に譬えた。
 祓うべき悪霊や悪魔とは、いったい何者なのか。心理学者たちは、相談者が憑依していると信じている悪魔や悪霊の正体を、合理的な説明のつかない病状やたび重なる不条理な不幸といったものだと考えていた。

 
 この心理学者たちの解釈が当たっているなら、こういうことが言える。
 人は、‘合理的な説明のつかない病状’や‘たび重なる不条理な不幸’というものが(少なくとも自分の周囲には)あってはならないと考えている。だから、それをありのままに受けとめることができない。なにかしら納得のいく原因を見つけ出さずにはいられない。その結果が、Old Boy(古くからのお馴染み)たる悪魔の役目なのだろう。
 
 現代のエクソシストたちは、こういう人間心理の綾を熟知している。エクソシストを求めに来る人に無条件にすぐさま儀式を施すことはなく、まず医学的・精神的な原因の可能性を検討し、連携している病院やクリニックを紹介する。エクソシスト自身もその養成過程で医学や心理学を学ぶ。つまり、依頼のあった時点で現代文明の観点からの厳しい選別にさらされる。実際に97%以上が精神の病だと言う。
 残り3%はなにか。
 これが結局、あらゆる他の可能性を消去されて「悪魔憑き」としてエクソシストの対象になる。著者は、悪魔祓いの現場に第三者を立ち会わせることに抵抗する司祭たちに取材の限界を感じるが、ひょんなきっかけから、ある辺鄙な田舎町の教会でエクソシストの模様を目撃することになる。その対象となった‘悪魔に執り憑かれた’女性の話を聞くことにも成功する。
 が、その正体について本書では追求し切れていない。現代エクソシズムをめぐる諸相を広範な取材と研究によって多角的にわかりやすく面白くまとめている本書の唯一‘隔靴掻痒’たる部分はそこである。
 悪魔はいるのか、いないのか。

mamushigusa


 
 本書を単なる興味深い異文化レポートあるいは非常にエキセントリックな現代イタリア世相レポートに終わらせていないのは、しばしば登場する一人の神父の圧倒的な存在感による。ヴァチカンに公認されて50年代から80年代にかけて活躍した最も有名なエクソシスト、ガンディド神父がその人である。
 ガンディド神父は、1914年トスカーナ州の山村で生れた。12歳で志願して厳しい修道生活に入る。1952年、38歳のときにローマ大司教よりエクソシストの任命を受け、以来78歳で亡くなるまでの40年間を、悩み苦しむ人を救うために生きた。
 残念なことに、著者の島村が神父の住まう教会を訪れたときには、神父は4ヶ月前に亡くなっていた。
 しかしながら、神父のエクソシストに立ち会った弟子たち、エクソシストにより救われた人たち、神父との出会いで人生が変わった人たち、神父の示した様々な奇跡を目撃した人たち、質素で謙虚で寡黙で自分のことより他人を優先する神父の日常生活を間近に見ていた人たち――著者が取材したこれらの人たちの語りから、確固たる信仰と自らに与えられた使命に誠心誠意身を捧げたガンディド神父の敬虔にして慈悲深い姿が紙面から浮かび上がってくる。そのオーラーの輝きは本書のすべてのページのすべての行間に浸透しているかのよう。(本書を枕元に置いておくと、夜間悪魔が忍び寄ってくるのを十字架さながら追っ払うことができるかもしれない)
 エクソシストという文化や儀式について関心を持ち取材を開始した著者が、取材過程で一番強く惹きつけられ、心をつかまれ、深く影響されたのはガンディド神父の人となりであり、一番筆に‘気’が込められているのもそこである。
 

エクソシズムの本質は魂の救済にあった。カンディド神父は、マリーニス医師も、エクソシズムは告解であり、一人ひとりと向き合い、その心の声に耳を傾けることなのだと語った。そして、こうも言った。
「その人の心が癒えることが、むしろ病の癒しよりも重要なのだ」


 ガンディド神父という人物について日本人に紹介してくれたというだけでも、本書には賞賛すべき十分な価値が見出せる。