聞いた話だが、ソメイヨシノは世界に一本しか存在しないという。
どういうことかと言うと、オオシマザクラとエドヒガンを両親とする交配種であるソメイヨシノは、実(み)すなわちサクランボをつくらないので種ができない。親木の一部を切り取って、接ぎ木や挿し木によって増やすほかないのである。日本中、いや世界中のソメイヨシノは、江戸時代に染井村(現・東京都豊島区駒込)で誕生した最初の一本のソメイヨシノが、接ぎ木や挿し木よって分散し広がったものなのである。世界中のソメイヨシノの遺伝情報はまったく同じで、親木の性質すべてをそのまま受け継いでいる。ソメイヨシノにとって、世界中のソメイヨシノが自分自身、いわば互いにクローンなのだ。
だから、同じ土地、同じ気候であれば、一斉に開花し一斉に花を散らす。
日本人が愛するソメイヨシノの潔さの秘密はここにある。
思うに、我々人類もこれと同じように元は一つなのではなかろうか。
もちろん遺伝情報が同じというのではなく、大昔アフリカに存在した一人の母から世界各地に分散したという話でもない。意識のことを言っているのだ。
仏教における生命の定義は、「意識(無意識を含む)をもつこと、あるいは環境を知覚・認識する機能(認識力)が備わっていること」である。別の表現で言えば、「‘気づき’があること」である。
で、この「意識=気づき」というものは、性別も年齢も国籍も人種も知能レベルも身体機能も超越した「非人格的・非人間的な‘何か’」なのではなかろうか。上記のような様々なアイデンティティが備わる前から、つまり生れたときから‘意識’は存在しているし、人生のどんな瞬間においてもそれが消失することはない。気絶や熟睡している時でさえ、寝返りを打ったり失禁したりと無意識レベルの認識機能は常に働いている。
この「非人格的・非人間的な‘何か’」は、地球上のすべての生命体に流れている単一にして同一の動力なのではなかろうか。いろいろな機械をいろいろなふうに動かすことのできる電気エネルギーみたいな・・・。
仮にそれを生命エネルギーと呼ぼう。
一つの機械が壊れて動かなくなっても電気エネルギーそのものが無くなるわけではないように、一つの個体が死んでも生命エネルギーそのものは無くならない。一方、電気がなければ機械が動かないように、生命エネルギーがなければいかなる生命も存在し得ない。
すべての人類は、もとい地球上のすべての生命は、同じ一つの生命エネルギーという親木から挿し木のごとく生まれ、形態こそ違えど同じ生命エネルギーを動力として生きている。生命エネルギーに限りがあると錯覚しているので、互いに与え合い、あるいは奪い合いして、生きている。あるいは、他人と違った独自のアイデンティティを確立しようと頑張るあまり、甲殻類のように硬いシェードのうちに孤立し、大本の生命エネルギーから寸断される。
ソメイヨシノが未練の‘み’の字もなく見事に散ってゆくのは、世界のどこかで常に咲いている‘分身’の存在を知っているからではなかろうか。
