2014年学研パブリッシング刊行
事実は小説よりも奇なり――
だが、ある人物は、その事実が「フィクション」であると言う。
この世は「フィクション」で成立している。
この世で起こる「怪事件」やさまざまな「事象」「出来事」の真相や真実は巧妙にコーティングされ、“監禁”されてきた。
監禁された真相や真実には何が隠されているのか――
すべては、日本という国家の本当の姿へと繋がっていく・・・・・
(本書裏表紙の紹介文より)
ネットが登場する前、庶民がニュースを知るのは新聞やテレビ・ラジオのニュース番組が主だった。
そこでは字数や尺(放送時間)の制限もあるし、第一報はできるだけ客観的な事実に即したものにしようとするメディアの方針もあって、5W1Hに基づいた表面的な事実の列挙、いわばニュースの単純な骨格が提示される。
たとえば、
19××年10月5日、栃木県Y市の市営住宅に住むA子(29歳)が、同居の父親B男(53歳)の首を着物の紐で絞めて殺害した。逮捕されたA子の供述によると、「最近できた恋人と一緒に暮らすために実家から出ようとしたが、父親に猛反対された。このままでは自由になれないと思い殺してしまった」
この記事だけを読みそれ以上の関心を持たなければ、
「育ててくれた実の親を殺すとはなんて性悪な娘だ」
「それも結婚に反対されたというだけの理由で。最近の若者は短絡的だ」
「きっと、娘がロクでもない男につかまったのを父親が阻止したのだろう」
「若い女一人の力で壮年の男を絞殺できるものだろうか。もしかしたら、その恋人は共犯者かも・・・」等々、想像をたくましくするかもしれない。最近の若者のキレやすさに批判的な目を向けつつ・・・。
事件になにがしかの新奇さ(視聴率につながるような)や社会的重要性があれば、ニュースはテレビのワイドショーや週刊誌に引き継がれる。より突っ込んだ取材と扇情的な構成のもと特別な報道枠が設けられる。事件の起こった土地の様子が描き出され、近隣の住民の声が紹介され、専門家やコメンテーターの憶測が垂れ流される。視聴者は事件の背景をおぼろながら知るようになる。骨格が肉付けされる段階である。
父親は無職で昼間から酒ばかり飲んでいた。
気に食わないことがあると暴力を振るっていた。
A子は一人で家計を支え、父親と幼い妹を養っていた。
母親はとうの昔に愛想をつかして家を出ていた。
恋人の男は職場で評判の好青年だった。
A子は以前にも一度父親の反対で結婚をあきらめたことがあった。
紐で首を絞められるとき父親はいっさい抵抗しなかった。
「ロクでもないのは父親のほうだったんだ」
「A子も可哀そうに。思いあまったんだろうなあ」
「家出した母親はともかく、だれか周りに相談できる人はいなかったのだろうか」
「父親はなぜ抵抗しなかったんだろう? 酔っぱらっていたのか。あるいは死にたかったのか?」
「でも、実の親を殺したのだから極刑は免れまい」
視聴者はメディアが組み立てたストーリーを興味津々読んで、おおむねそのとおりに解釈し、事件を理解する。理解した気になる。A子は裁判にかけられ、事件は司法の手に渡る。よほど大きな事件でない限り、あるいはよほど衝撃的な展開がない限り、裁判の様子が細かに報道されることはない。あとは「どういう判決が下ったか」が忘れた頃に分かればよい。

週刊誌でもワイドショーでも、報道される内容には限界があることを知ったのは何歳くらいだったろう? 記者がどんなに深く丁寧な取材をしても、警察に食らいついて情報を仕入れどんなに真相に迫る説を組み立てても、それがそのままメディアに乗るとは限らない。いや、真相に迫れば迫るほど、報道の自由が失われていくことがあると知ったのは?
おそらく、それを知ったときにソルティは“社会”と出会ったのだと思う。
つまり、タブーというやつである。
日本には様々なタブーがある。
天皇制、右翼、裏社会、政治権力がらみ、アメリカがらみ(GHQ、在日米軍など)、同和問題、マイノリティの人権(障がい者、LGBT、在日、先住民族など)、原発、エイズ、宗教関連、犯罪加害者及び被害者の人権、少年犯罪・・・・。
他にも地域には地域特有のタブー(風習、迷信、禁忌など)があることだろう。
メディアにおける最大のタブーは広告主の逆鱗に触れることだろう。Jニーズ事務所もか。
他にも地域には地域特有のタブー(風習、迷信、禁忌など)があることだろう。
メディアにおける最大のタブーは広告主の逆鱗に触れることだろう。Jニーズ事務所もか。
こういったタブーに報道内容が抵触する時、真実のほうが歪められる、少なくとも大衆の目から覆い隠されるということが起こる。
あるニュース報道に接した時に、どこか違和感をもったり、すっきりしないものを感じたり、奥歯にものが挟まったような扱いをしているなあと思ったり、唐突にその事件の報道が立ち消えになったとき、上のようなタブーによって煙幕をかけられている可能性がある。
それは別に全部が全部悪いことではない。
犯罪被害者の人権を守るために氏名や場所が特定されないからといって、「真実が伏せられている!」と憤るのはあまりに幼稚である。場合によっては、真実よりも、真実を知ることよりも大切なことがある。
一方、国家権力とか国際圧力とかマスコミの「自主規制」という名の畏縮(=事なかれ主義)によって真実がたわめられているのを見るのは、気持ちのよいものではない。
ネットの登場がこのあたりの事情を変えたのは言うまでもない。マスコミ関係でも警察関係でもない一般大衆が、事件の詳しい背景を知るのはワイドショーや週刊誌を通してが関の山であった。とくに離れた地域で起こった事件について不審に思ったとしても、個人で取材や調査のしようもない。せいぜいが(ソルティがよくやるように)週刊誌の記事の行間を読んで、「なにかタブーの匂いがするなあ。あれかな、これかな?」とあたりをつけるくらいである。
匿名性と即時性と脱地域性を特徴とするネットの登場によって、我々はいまや離れた地域で起こった事件についても、警察の公式発表以上のこと、マスコミの報道する以上のことを知ることができるようになった。(1997年に起きた神戸児童連続殺傷事件の被疑者の少年の顔写真がネットで流れたことを覚えている人は多いだろう)
インターネットはタブーの最大の破壊者である。事件の裏に潜んでいる隠された事情を、事情通の人間が匿名性という防御に恃んで大っぴらにすることができる。
国家権力や資本家による情報操作を見抜いて洗脳されないようにするには、それは利点と言えるかもしれない。一方で、虚偽が無責任に垂れ流されることで、さらなる人権侵害や混乱が生じる可能性もある。
匿名性と即時性と脱地域性を特徴とするネットの登場によって、我々はいまや離れた地域で起こった事件についても、警察の公式発表以上のこと、マスコミの報道する以上のことを知ることができるようになった。(1997年に起きた神戸児童連続殺傷事件の被疑者の少年の顔写真がネットで流れたことを覚えている人は多いだろう)
インターネットはタブーの最大の破壊者である。事件の裏に潜んでいる隠された事情を、事情通の人間が匿名性という防御に恃んで大っぴらにすることができる。
国家権力や資本家による情報操作を見抜いて洗脳されないようにするには、それは利点と言えるかもしれない。一方で、虚偽が無責任に垂れ流されることで、さらなる人権侵害や混乱が生じる可能性もある。
本書はまさに、テレビや週刊誌では報道されない怪奇な事件の裏事情について記したものである。
取り上げられている事件は、上にあげた酒鬼薔薇事件、数年前に犯人宮崎勤が死刑になった連続幼女誘拐殺人事件、菅家利和氏の冤罪が確定した足利事件、都会のど真ん中に建つ幽霊マンション、羽田空港の大鳥居にまつわる祟り、暴走族を懲らしめようと夜の公園に誰かがロープを張った水元公園ロープ殺人事件、33人もの死者を出した1982年のホテルニュージャパン火災事件、高松塚古墳の有名壁画消失事件などなど、どれも世事に疎いソルティの記憶にも残っているほど有名で興味深い事件ばかりである。
取り上げられている事件は、上にあげた酒鬼薔薇事件、数年前に犯人宮崎勤が死刑になった連続幼女誘拐殺人事件、菅家利和氏の冤罪が確定した足利事件、都会のど真ん中に建つ幽霊マンション、羽田空港の大鳥居にまつわる祟り、暴走族を懲らしめようと夜の公園に誰かがロープを張った水元公園ロープ殺人事件、33人もの死者を出した1982年のホテルニュージャパン火災事件、高松塚古墳の有名壁画消失事件などなど、どれも世事に疎いソルティの記憶にも残っているほど有名で興味深い事件ばかりである。
謎だと思われている事件の多くは、些細な事情で便宜的に中身を伏せられているだけということもある。だが、近代法感覚に慣らされた現代人は、なんでも白黒つけたがる癖がある。古来の共同体の知恵に従えば、物語を使った朦朧法が得策なのに、である。
さまざまな事件を調べてみると、真相そのものよりも、朦朧法によるグレーゾーンの作られ方のほうはおもしろかったりする。真相は知ってしまえばどうということもないのだが、わからないうちは不思議に思えて、なぜグレーなのかと問いたくなる。(本書「あとがき」より)
著者の小池壮彦(たけひこ)は1963年東京生まれの作家・ルポライターである。歴史上の事件の分析を通じて日本の暗部と宿命にメスを入れている。
本書で小池の描いた暗部なり事件の真相なりもまた、一つの「フィクション」である可能性は高い。
だが、真相など結局だれにも分からないのであってみれば、あるいは視点の数だけ真相があるのだとするのなら、主流を占めるフィクションには別のフィクションをぶつけていくことが権力による洗脳から距離を保つひとつの方法なのかもしれない。
面白い作家を見つけた。
P.S. 記事内のA子による父親殺しは、1968年に栃木県で起きた尊属殺人事件をモデルにしています。当時の新聞やテレビ、ほとんどの週刊誌で書くことができなかった事件の真相(=タブー)についてはこちらを参照ください。
石井様
本当にそうですねえ。
酷い人間のことをよく「鬼畜」とか「犬畜生に劣る」とか言いますが、畜生(動物)はここまで酷くないですよね~。
あらゆる生命の中で人間が一番「悪」だと思うのは、自虐的すぎるでしょうか?
東京は現在大雨です。これからが台風本番。
被害の少ないことを望みます。