1992年新潮社

 この本がどういう本なのかは、橋本治の解説に言い尽くされている。
 この本は、「日本の仏教の歴史を書く本」ではなくて、「日本にやって来た仏教というものが、“日本の仏教”という独特なものに変化してしまったのは何故か? 何故日本人はそのことを不思議に思わないでいるのか?」ということの理由を探ろうとする本です。

 瞬時に要点を見抜き、あっけらかんと言い放つ橋本治の「王様は裸だ!」ぶりはここでも健在である。

 今さらではあるが、日本の仏教は大本の仏教(=ブッダの説いた教え)ではない。

 東南アジアの仏教はインドの初期の仏教を伝え、チベットの仏教はインドの後期の仏教を伝えて、その面影を残しています。それに対して、日本の仏教は中国や朝鮮を媒介として入っていますから、二重、三重に屈折したものになっています。それに、日本に伝来してからの変容も小さくありません。キリシタン時代に日本にやって来た宣教師は、最初は日本の仏教が東南アジアの仏教と同じ起源をもつ宗教だとは気がつかなかったほどです。

 なぜ仏教は変容したのか、どう変容したのかを探っていく中で、日本人の思想史なり宗教観なりを探ってみよう。そのための取っ掛かりを提供してくれるのが本書である。
 
 末木文美士(すえきふみひこ)は、1949年山梨県生まれの仏教学者。2011年4月に中外日報という宗教専門紙に「東日本大震災は日本への天罰である」という主旨の論稿を発表し批判を浴びたことがある。ソルティは石原慎太郎発言のほうしか知らなかった。

 さて著者は、大方の日本仏教史の本と同様、聖徳太子時代の仏教伝来から語り始めて、移り変わる時代ごとの日本仏教の変容の様を概観し、その時代を代表する有名な僧侶たちの思想や行動を取り上げて紹介していく。おおむね、学生の頃日本史の授業で習った通りである。
 東大寺大仏に象徴される護国仏教、最澄と空海の対立、末法の到来と浄土教の隆盛、天才祖師たちの出現で庶民に爆発的に広がった鎌倉仏教、檀家制度ができて葬式仏教に収斂していく江戸期・・・・。
 歴史上の事件を箇条書きに順列していくのではなく、川の流れのように物語っていく。つまり、前の時代に作られた「原因」が様々な「条件」に影響されつつ、次の時代に「結果」となって現れ、その「結果」がまた「原因」となって次の時代につながっていくという、まさに仏教の因縁の理を思わせるように叙述が展開していくので、読み物としても面白いし、啓発的でもあり、日本仏教の変容の必然性が腑に落ちる。いくつかの重要なトピック(「大乗仏典とその受容」「本覚思想」「仏教土着」)については別に項目を立てて詳述している。これが、より広く深い観点から日本仏教を考える手がかりとなっている。
 奥付けによると、平成20年の時点ですでに16刷を重ねている。名著と言っていいだろう。

 日本人にとって仏教とは何だったのか? 
 日本人にとって宗教とは何なのか?
 興味をひかれた部分を引用する。
 
● 仏教の受容の仕方 「仏は神のレベルで受容された」 
 こうした仏教の受容の仕方は、単にその時点だけの問題だけでなく、日本仏教全体の問題として後まで尾を引くことになる。すなわち、法(教理・思想)や僧(教団)よりも仏の崇拝が中心であること、難しい理論ではなく現世利益が重んじられること(のちにはこれに死者供養が加わる)、古来の神の崇拝と一体化することなど・・・

 ソルティなりに言い換える。仏教ははるか昔、
① 思想(法)でもなく、実践(修行)でもなく、崇拝すべきものとして
② 現世からの離脱(解脱)を希求するものでなく、現世利益をもたらすものとして
③ 神への信仰を否定するものでなく、土着の神々(自然神含む)と同じような役割を果たしてくれる新しい神として
日本という国に、日本人に、受け入れられたということである。
 であればこそ、社会の上層にとっては「欲望実現のためのまじない」となり、下層にとっては「苦しみから救ってくれる偽薬(プラセーボ)」となったのであろう。
 

●本覚思想の跋扈 「あるがまま=悟り」
 
 あるがままのこの具体的な現象世界をそのまま悟りの世界として肯定する思想は、じつは草木成仏というだけにかぎらず、より広いすそ野をもち、古代末期から中世へかけての日本の天台宗でおおいに発展し、天台宗のみならず仏教界全体、さらには文学・芸術にまで大きな影響をおよぼす。それが本覚思想とよばれるもので、草木成仏はその一局面をなすものである。(ゴチックはソルティ付す)
 
 このように現象世界をそのまま悟りの世界として肯定するならば、わざわざ修行して悟りを開く必要もないことになり、宗教としての堕落に陥りやすく、事実、その点から近世以降本覚思想は批判され、それがために研究も遅れることになった。また、そもそも「本覚」という考え自体が、もともとのインドの仏教にはなかったものであり、異端的な性質をもっているということもできる。
 
 凡夫と仏の距離が圧縮されて零となり、まったく修行を必要とせずに、凡夫の状態のままで現象世界が全的に肯定されるようになったのが本覚思想である。


仏性の登場

・・・仏の悟りと凡夫の距離がきわめて大きく考えられると、修行をつづけてもいつになったら悟りに達するかわからず、修行への意欲が失われることにもなりかねない。そこで、凡夫と仏を結ぶものとして如来蔵・仏性がたてられることになる。すなわち、凡夫のなかにも仏の性質が内在しているわけであるから、要は煩悩の曇りを拭い去って内在している仏性を顕現させればよく、修行に時間がかかっても仏性が失われることはないから、その点不安を抱く必要がないわけである。この思想はインドやチベットの大乗仏教では主流とはならなかったが、中国・日本ではほとんどすべての仏教思想がこの上に築かれているといってよいほど大きな勢力となった。

 修行要らない、現世肯定、仏性主義。
 中世における本覚思想の跋扈が、本来のブッダの教えとはかなり異なったものとして日本に受容されていた「仏教」を、もはや初期化もリカバリー(原状回復)も再インストールも修正も不可能なほど、決定的に別物に変えてしまったのである。はじめに間違い、中間に間違い、終わりも間違えた挙句の「葬式仏教」誕生というわけだ。
 むろん、「間違い=悪い」ではない。各時代の日本仏教の形と思想は、その時代に生きた日本人が(為政者も庶民も)現実に必要としたものであるのは間違いない。1500年近くの間、上つ方から下々まで日本人の役に立ってきたからこそ「仏教」という名前を借りた「それ」は生き残ってきたのである。そこは否定しようがない。
 ただ、「それ」は本来の仏教とは異なるというだけの話である。

 それなら、本来の仏教とは何か。そもそも宗教とは何か。
 著者はこう述べている。
 
 宗教のもつ一つの大きな特性はつねに現実の世界、現世を超越しようとする意志、現世に埋没せずにそれを超えた価値を追求する姿勢にあるのではないかと考えています。ご承知のとおり、釈尊は人生の苦からの離脱を求めて出家しました。この苦は生・老・病・死の四苦、あるいはそれに愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五陰盛苦を加えた八苦としてまとめられますが、現世における人間存在に必然的な苦悩です。それゆえ、仏教は現世離脱的な要素を強くもっています。
 
 苦しみの現世を離脱(解脱)するためには「悟る」ことが必要であり、悟るためには「修行」が必要である。
 ブッダの説いたこの基本は、いみじくも仏教を名乗るなら、決してくずしてはならないものであろう。現世を肯定し、「あるがまま」で悟っているとし、修行を否定する本覚思想はどうみても仏教とは違う。

 本覚思想という形で現世主義化を進め、日本の地に土着するようになったその一つの帰結は、仏教自体の風化であったということができそうです。

 末木もまた橋本治同様、王様の裸をずばりと口にしてしまう少年のようである。東日本大震災時の‛空気を読まない’不用意な発言も彼のそんな性格から来ているのかもしれない。(ただ、「東日本大震災は日本への天罰である」と考えるような心的構造こそが、本来の仏教を日本仏教に変容させた無視できない要因であるように思う)


銭壷山合宿 045


 ソルティが最近気にかかるのは、中世に花開いたこの本覚思想が、現代も消えることなく唱えられているんじゃないかということである。つまり、ブッダの「悟り」とは別種の「悟り」というか「意識の解放状態」があるらしく、それを至高のものとして推奨しているグルや霊的指導者、それを求めている探求者が多くいるんじゃないかということである。
 西洋スピリチュアリズムで人気の高い「非二元の教え(ノンデュアリティ)」がその典型である。このブログでも取り上げたトニー・パーソンズヤン・ケルスショット、日本人なら阿部敏郎なんかもそうかもしれない。
 彼らの言説の共通点を挙げるなら、
① 人はすでに「悟って」いる、ただそこに気づかないだけ。(仏性主義)
② ありのままの世界を肯定することが「悟り」(現世肯定)
③ そのためには修行など特別な手段は必要ない。「いまここ」で悟れる。(修行不要)

 見事に本覚思想に一致するではないか。現代本覚思想とでも言おうか。
 以前にも、トランスパーソナルの悟りとブッダの悟りの違いについて考察したことがあったけれど、いったい「悟り」には本物と偽物があるのだろうか。それともレベルの違いがあるのだろうか。修業とは何なのだろうか。クリシュナムルティの悟りや禅の悟りは、どこに位置付けられるのだろうか。
 そして、悟りを求める多くの人がいる好機、日本仏教はどこを向いているのだろうか? いやそれよりも、ソルティはどこに向かっているのだろう?