日時 2017年12月24日(日)13:30~
会場 東京文化会館大ホール(東京都台東区)
曲目
 ワーグナー/歌劇『タンホイザー』序曲
 ベートーヴェン/交響曲第9番 ニ短調 「合唱付き」 作品125
独唱
 ソプラノ:文屋 小百合
 アルト :管有 実子
 テノール:渡邊 公威
 バリトン:大山 大輔
合唱 ソニー・フィルハーモニック合唱団
指揮 末廣 誠

 今年最後の演奏会はお決まりの《第九》である。
 クリスマスイヴの日曜日。パンダでにぎわう上野公園。人波は覚悟していたが、曇りがちで寒かったためか、思ったほどの混雑でなかった。


PC240005
東京文化会館


 会場はほぼ満席だった。前から4列目の席だったので、最初から最後まで全身で音を浴びているようであった。
 都民交響楽団の実力は折り紙付き。安心して聴いていられる。あまりに安心しすぎたのか、『タンホイザー』も『第九』も途中で意識が遠のいた。めずらしいことである。一年の疲れが出たのかしらん?
 合唱のソニー・フィルは、ソニーグループの社員およびOB・OG、家族らにより構成される合唱団で20年以上の歴史がある。これが圧巻の上手さだった。世界のSONYとしてのプライドと愛社精神を基盤とした団結力、週一回行っているという練習の賜物であろう。これほど四声(テノール、バリトン、ソプラノ、メゾソプラノ)のバランスが拮抗&均衡して、合唱の面白さを引き出している《第九》を聴くのははじめてかもしれない。とりわけ、テノールパートはたいていの場合、人数が少ないのと高音がつらいのとで客席まで声が届くのはまれなのであるが、今回は非常によく響いていた。

 今回の《第九》のポイントは、何と言っても第3楽章であった。
 「アダージョ・モルト・エ・カンタービレ」(歌うように、非常にゆっくりと)
 「アンダンテ・モデラート」(ふつうに歩く速さで)

という指示を与えられている第3楽章は、全曲中もっともテンポが緩やかで、まったりしている。ここは癒しと安らぎの章である。現世的なストレスと気ぜわしさに満ちた第1、第2楽章から曲調は一転し、心はしばし天上にたゆたう。第4楽章の歓喜の爆発を前に「嵐の前の静けさ」とも言える平和と安息を十分味わい、怒涛のクライマックスに備える。たとえベートーヴェンの指示がなくとも、どの指揮者も第3楽章をゆっくりと演奏することだろう。
 今回の末廣の挑戦は、これまでソルティが聴いた《第九》の中でも、もっともテンポの遅い第3楽章であった。あの譬えようもなく美しいメロディラインが間延びして崩壊するのではないかと思うギリギリの線だった。つまり、ある歌をあまりにゆっくり歌い過ぎると、なんの歌かわからなくなるという現象と同じである。危険な挑戦だが、これが可能なのは《第九》があまりにも有名で、あまりにも耳馴染んでおり、第3楽章の甘美そのもののメロディをほとんどの聴衆がこれまでに何度も聴いて、すっかり諳んじているからだろう。速度を落としてもメロディラインは把握できるのである。(今回はじめて《第九》を耳にした人がどう感じたかは微妙である)

 このアンダンテ(歩く速さ)で思い出したのは、盛岡人のことである。
 20代を東京で過ごしたソルティは30歳を前に仙台に移住したが、その際驚きをもって発見したのは「仙台人の歩く速さは東京人の歩く速さの半分。つまり2倍遅い!」ということであった。
 だいたい宮城県民は休日になると家族や友人らと仙台の街中に出てきて、アーケード商店街をぶらぶら歩くのが一番の娯楽なのである。基本歩行者天国なので、横に広がって連れとワイワイおしゃべりしながら、気になった店をのぞき込み、途中のベンチで休憩し、何にせかされることなく暇つぶしするのである。ソルティも半年くらいでその速度に馴染んで、仙台の街を楽しむようになった。たまに用事で東京に出ると、東京人の歩く速さに逆に吃驚する、というか恐怖を感じるまでになった。池袋や新宿の雑踏で他人とぶつからないで歩く能力を喪失してしまったのである。

長野パワースポットツアー2012夏 034
仙台市街


 数年経って、すっかり仙台人化したソルティは用事があって盛岡に行った。そして、盛岡随一の商店街を歩いて、また驚いたのである。
「盛岡人の歩く速さは、仙台人の半分。つまり2倍遅い!」
 つまり、盛岡人は東京人の4倍、歩くのが遅い。
 これは県民性・地域性の違いもあるのだろうが、単純に、盛岡随一の商店街(目抜き通り)は仙台人の速さで歩くと「あれれ?」という間に終わってしまう、東京人の速さで歩いたら瞬時に終わってしまうというところに主たる原因はあろう。(今は盛岡の街も随分発展していると聞いた)

 何の話をしていたんだっけ?
 ああ、《第九》の第1楽章や第2楽章が「東京人の歩く速さ」だとしたら、第3楽章は「仙台人の速さ」、そして本日の末廣の第3楽章は「盛岡人の速さ、というか遅さ」と感じたのである。
 そのスロウなペースがどういう効果をもたらしたか。
 タメをつくってメロディラインの美しさを強調し聴衆を陶酔させるためでないのは、上に書いたとおりである。それなら、メロディ崩壊のリスクを生むまで遅くする必要はない。
 ソルティがなにより感嘆したのは、このゆっくりした盛岡テンポによって明瞭に開示された、第3楽章の構成の巧みさ、それぞれの楽器の特色を最大限生かしたオーケストレーションの繊細さと諧謔味とウィット(才知)、つまるところベートーヴェンの天才であった!
 美しいメロディラインという長所は、そこにのみ聴き手の関心を引き付けてしまい、かえって上記のような細やかでユニークな工夫を見逃してしまうという短所にもなりうる。新幹線の車窓から見る富士山がいかに美しかろうが、鈍行列車の車窓から見る富士山のほうが味わい深いのと同様である。速度を落としたところではじめて見えてくるものがある。
 そういった意味で、今回の末廣の第3楽章は数年前に聴いたロジャー・ノリントンのピリオド奏法の《第九》を想起させるものであった。
 考えてみれば、ベートーヴェン時代のドイツ人の「歩く速さ」は現代人より相当遅いだろう。アンダンテ・モリオカーノが正解なのかも・・・。(ただ、逆に今回の第4楽章のラストは東京人を軽く追い越す加速度付きハイスピードで、会場の撤収時間が迫っているのかと思うほどだった
 
 のんびりと街を歩く盛岡人の眼に映る風景が、目的地に向かって一心不乱に歩く東京人の眼に映る風景より、豊穣で味わい深いのは間違いあるまい。


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盛岡夜景