ハンセン病の〈誤診〉を受けた森田ミツのドラマチックな人生を描いた遠藤周作の代表作である。1997年に熊井啓監督、酒井美紀、渡部篤郎主演で『愛する』(日活)というタイトルで映画化されたのを観た記憶がある。ミツには井深八重という実在のモデルがいた。

 『海と毒薬』『沈黙』『深い河』などと同じ系列の格式高い(こむずかしい)純文学かと勘違いしていた。当時『主婦の友』に連載されていたことが示すように、どちらかと言えば軽いタッチの通俗小説である。すらすらと読めた。
 とは言え、「キリスト(神)のとは何ぞや?」――というこの作家ならではのテーマとその切り込みの深さは、上記の純文学作品と較べておさおさひけを取らない。むしろ、余分な形而上学的叙述や煩瑣な描写がない分、テーマは際立って開示されていると言えるのではないか。
 本書解説の中で、キリスト教の文芸評論家武田友寿がこう述べている。


 遠藤氏が描く人間の救いはいつもエゴから脱出する機会の発見におかれている。それは特定の教派の信仰心をもつことでなければ主義、思想というようなイデオロギーに身を委ねることでもない。自分の弱さを自覚しつつ、弱さに耐えて自分を生き、弱さゆえに他者の弱さを共に哀しみ、苦しむことのできる〈運命の連帯感〉に自分を委ねることのできるとき、エゴをこえる機会が訪れるのだ。


 この文章を読んで、北海道浦賀の「べてるの家」を想起した。あるいは、読んだばかりの『御直披』や別記事で書いた『オペラ座の怪人』を。
 「強さ、喜び、幸運」を通してよりも「弱さ、苦しみ、逆境」を通して人は人と本当に繋がることができるというのは、人間に与えられた大いなる逆説であり、手酷いジョークである。世界が凍り付くような神のおやじギャグを、一抹の苦さと共に笑い飛ばすときに「ユーモア」が生まれる素地ができるのだろう。
 クリスチャンの純文学者・遠藤周作が、まるで二重人格者であるかのように、狐狸庵先生というぐうたらでとぼけたキャラを合わせ持っていたのは、そういった背景があったのかもしれない。


白アジサイ