謎の皇太子

1997年日地出版。

 謎の皇太子とは平安時代に実在した正真正銘のプリンス、高丘親王のことである。
 名前だけは、1987年刊行の澁澤龍彦『高丘親王航海記』で広く知られるようになったのだが、ソルティは読んでいない。同書は伝記ではなくて幻想小説なので、どこまで史実か怪しいなと思っていた。

 高丘親王は平城天皇の第三皇子だった。平城天皇は、藤原薬子の艶技に骨抜きにされ、彼女とその兄仲成の意のままに操られたダメ帝である。精神衰弱で皇位を弟に譲る(嵯峨天皇)。そのお返しに嵯峨天皇は平城の息子の高丘親王を皇太子に指名する。ところが、平城上皇は薬子らに唆されてカムバック宣言し、弟との対立を招いてしまう(薬子の乱)。のちに賢帝と称される嵯峨天皇が勝利し、平城上皇は出家を余儀なくされる。結果、謀反人の子供である高丘親王は廃太子の憂き目にあい、若い身空で仏門に入る。

 このへんまでは知っていた。が、今回本書を読み高丘親王のその後を知ってびっくりした。

 仏教の道を究めるべく空海上人に師事、十大弟子と称される。俗塵を嫌い、雲水として山間を歩き、托鉢行脚の生活を好む。空海亡きあと、東大寺大仏修理の最高責任者に任命され、平安仏教界において地位名声ともに最高位に立つ。その直後、すべてを捨てて天竺(インド)の祇園精舎目指して船出する。ときに62歳。

 結局、親王は憧れのインド到着叶わず、途中のシンガポールあたりで客死した(虎に食われたという説もある)のだが、なんとまあ波乱万丈たる人生か。当時の62歳と言ったら今の90代か。普通なら、もうあとは栄華に包まれた安楽な余生をたくさんの弟子にかしずかれながら伽藍の奥で送るだけである。それを、三蔵法師さながら真実の仏法を求めて天竺を目指すとは!
 運命の悪戯から出家を選ばざるをえなかった乳母日傘のブルジョア青年が、しまいには前代未聞の命がけの巡礼を挙行する仏教者になったのである。凄い!

シンガポール
シンガポール


 本書は、高丘親王に興味を持った旅行会社企画部長の合掌氏が、シンガポールやマレーシアや日本国内で親王のことを仲間と調査しているうちに、現地のあちこちから親王の墓や遺物らしきものの発見が相次ぎ、空前の高丘親王ブームが到来、それに合わせて一大観光ビジネスが立ち上がっていく模様を、ミステリアス&コミカル&パッショネイトに描いている。いったん読み始めたら、最後まで「巻を措く能わず」の面白さ。文句なし傑作である。
 なんと合掌氏こそは若き日(70年代)の著者・葭原幸造(よしはらこうぞう)自身であり、この話は本当にあった話、つまりノンフィクションであるらしい。それを踏まえて読むと、「事実は小説より奇なり」という言葉がやっぱり浮かんでくるし、なんとまあ世の中は面白いんだろうと感動してしまう。

 葭原幸造は1930年生まれの旅行ジャーナリスト。プロフィールによると若い時に新東宝映画撮影所で助監督をやっている。ネット検索すると、『汚れた肉体聖女 (1958)』、『スター毒殺事件 (1958)』、『童貞社員とよろめき夫人(1958)』、『海女の化物屋敷 (1959)』といった新東宝映画の原案・脚本を担当している同姓同名の人物がいる。(こちらは葭原「あしはら」と読むらしいが)
 同一人物だろうか?
 著者の人生行路もまた面白そうだ。

 こういう本に出会うから、古本屋巡りは止められない。