2017年講談社

 作家の三浦朱門は2017年2月3日に亡くなった。
 曽野綾子は63年以上連れ添った三浦を1年半の老々介護の末に看取った。
 このエッセイは、妻であり同僚であり同じカトリック教徒でもあった著者による、夫の介護から看取りに至るまでの身辺雑記である。

花と蝶


 曽野綾子の本を読むのははじめてかもしれない。
 自分の中では、「困ったひと、口うるさい厄介なバ〇ア」というイメージしかなかった。このブログを読めばお分かりだろうが、ソルティはこれまで一度たりとも自民党に投票したことない「左寄り」な人間である。高齢層の自民党支持者が喜ぶ独善的な保守メッセージを「不用意に」巻き散らす曽野綾子には、字面の上でも近寄りたくなかった。
 思うに、彼女がもし男だったら、世間はおそらく、「また、あの前世紀の遺物が時代も空気も読めずに失言かましているよ」とせせら笑い、あきれかえり、小馬鹿にすることであろう。彼女がもしカトリック教徒でなく統一教会信者だったら、「ああ、それじゃまあ仕方ないな」と肩をすくめてそれ以上相手にしないことだろう。あるいは、彼女がもしあれほどの人気作家でなかったら、フジテレビのアナウンサーだった長谷川某のように猛烈なバッシングを浴びた挙句、仕事を干されることだろう。曽野綾子は、「女性で、真面目なクリスチャンで、国民的人気作家で」あるということで、世間からシカトという最後通牒を突きつけられずに済んでいるのだと思う。

 ただし、曽野綾子の発言を批判する前に、彼女が生粋のクリスチャンであるという事実を念頭に置く必要があろう。彼女の保守的発言は、伝統的父権制度という既得権益によりかかった親父保守連中や、絶対的権威に己れを投機することで根深い劣等感を反転させようと試みる右翼連中とは、いささか出自が異なる。単純な儒教道徳的保守思想、底の透けて見える右翼言説として批判・反発する前に、クリスチャンという濾過が必要と思われる。それもカトリックのクリスチャンという・・・。
 では、クリスチャンとは何か、カトリック教徒とはどういう人間なのか――なんてことを述べるのは無理難題。引用から感じとっていただこう。


 私自身、長生きは必ずしも社会と自分にとっていいものではないとも思い始めていた。仮に思考が奪われた老後の自分を考えると、生き続けるのはそれほど望ましいものではなかったし、一人の老人が長生きすれば、確実にそれだけ若い世代に回すべき健康保険の費用を使うことにもなる。・・・・・
 何歳で死ぬのがいいか、ということは、実は誰にもわからない。寿命は神に任せて、自然に健康的な生活をすることにすれば、それがもっとも明るい生き方だろう。

 健康人でも病人でも、壮年でも老人でも、人生に、思い通りにならないことくらいあって当然なのだ。その手の不如意には誰もが耐えなければならないのが現世というものなのだ。

 私たち夫婦は、信仰の深さは別として一応カトリック教徒なので、少なくとも、私は人間の行為のすべての瞬間において「神の介在」を感じさせる要素が要る、と感じているのである。

 その時、朱門の命は、深い納得と許可の下にしっかりと神の手に受け取られたと私は感じとることができた。



 一人の宗教者であるということはさておいて、なお不思議なことがある。
 なぜ、曽野綾子は、自分の率直な物言いが今の世の大部分と衝突し、物議を醸し、非難の矢を向けられることになるのをいい加減知っているはずなのに、わざわざ誤解を招くような言い方で「不用意な」発言を繰り返すのだろうか。それも、「これは私一人の実感です」と但し書きをつけるならまだしも、「私が正しい」と言わんばかりの独善的な押しつけがましい、上から目線の物言いをする。まるで地雷を踏んでアクセス数アップをはかるのが目的のネットの「炎上商法」のように・・・。
 なるほど、「独善的な押しつけがましさ」は、十字軍やアメリカ帝国主義を見れば分かるように、キリスト教徒に典型的な特質(=メシアニズム)ではある。であればこそ、イエス・キリストはローマ・ユダヤ社会の癇に障って磔刑に処せられたのである。
 が、曽野綾子の「炎上商法」には、なんというか、「ワタシに注目して!」という強い欲求を感じる。寂しがりやの幼児が母親の注目を引き付けるために寝小便やウンコもらしを繰り返すみたいな感じ。情のこわい女性が急に冷たくなった男の関心を取り戻すために手首に剃刀を当てるみたいな感じ。バッシングを受け、ひと騒動あって、世間の関心が別のところに向いて、ほとぼりが冷めたと思う頃に、また新たな火種を作る。そのからくりが、メシアニズムというより、ある種の人格障害を思わせる。
 むろん、悪口ではない。偉大な芸術家、すぐれた作家は多かれ少なかれ、現代心理学風に言えば人格障害であり社会からの逸脱者である。品行方正で人格者で、良き娘(息子)、良き妻(夫)、良き母親(父親)、良き社会人である作家の書いた小説など面白いわけがない。曽野綾子は間違いなくすぐれた小説家の一人なのだから、人格障害というレッテルは勲章にこそなれ悪口にはならない。人格障害でちっとも構わない。
 曽野綾子が自覚的に「不用意な」発言を行って世間を騒がしているのを見ると、ソルティは「ああ、飽きもせずまたやってるなあ」と思う。「どこかの困ったおばさんが物干し台で何か叩きながらわめいている」図が思い浮かぶだけである。炎上商法に乗ったらそれこそ彼女の思うツボだろうから、「みんな律儀に反応しないで、放っておけばいいのに」といつも思う。
 あるいは、相手の炎上商法にそれと知りつつ乗ってあげることが、ネット時代の大人の思いやりというものなのだろうか。

 閑話休題。
 本書を手に取ったのは、むろん介護と看取りについて書かれているからである。同時に、自分が働いている老人ホームの利用者に曽野綾子の大ファンがいて、本書をすすめられたからである。縁というのはどこに転がっているかわからない。
 一読、面白かった。さすがベストセラー作家である。題材も文章も独特の視点も読ませる。
 もっとも、ソルティが面白いと思ったのは、彼女の介護や看取りや夫亡き後の身の処し方といったエピソードそのものではない。それらは、世間イメージそのままの曽野綾子らしい、自他に厳しく、勇ましく、周囲に阿ることなく、凛として取り乱さない介護や看取りの風景が展開されている。愛する夫に対する妻の献身な介護というより、平川克美の『俺に似たひと』みたいな昔気質の父親に対する息子の淡々とした介護に近い印象を受けた。63年連れ添った夫がいなくなっても「寂しい」とは口が裂けても言わない人である。(それが言えれば、世間はもっと彼女に優しいであろうに。朱門が亡くなったあとに猫を飼い始めるあたりが、「そうは言ってもやっぱりな・・・」という感じがする)


可愛い猫


 面白いのは、家族による介護体験美談や苦労話、ソルティのような介護士やケアマネなど福祉専門家による介護エピソード、あるいは医師や看護師など医療専門家による看取り模様、現場をよく知らない厚生行政関係者による机上の理想介護論、あるいはスピリチュアル視点による死生観・・・・・そういった巷にあふれた物語とはまた別の、これらの人々の思索や叙述が及ばない地点にあって特異な叡智の光が宿っていることである。つまりそれが文学者の目であり、すぐれた小説家の証なのだろう。


 会話は、老化を測る一つの目安だ。会話は自分の中に一つの生き方があることを認識し、相手は相手で、また別の世界に生きていることを意識している時に可能なのである。しかし老化は、自分の生きている場の自覚を失わせ、相手の生きる姿に興味を失わせる。

 食欲がないということは、生の拒否の情熱に繋がっていて、それは多分、ネガティヴな意味ではあっても、一種の哲学的なものだろう。そして私は、学者でもない市井の凡庸な人間の哲学というものを、或る意味で高く評価しているのである。

 この「心の貧しい人」という悪訳は、聖書の原本に忠実なのかもしれないが、日本人が言う物質的で人情に欠けた人のことではない。
 この言葉は、ヘブライ語の「アナウィム」という語から出たものだというが、それは虐げられている者、苦しむ者、哀れな者、貧しい者、柔和な者、謙遜な者、弱い者、などの意である。つまりアナウィムたちは、国家、富、健康、身分などの誇りをすべてはぎ取られ、その恩恵を受けず、神だけしか頼るもののなくなった人たちを意味する。そのような人だけが天国を見るというのだ。

 奉仕を意味する「ディアコニア」というギリシャ語の原語を考えれば、もっと厳密な意味を持つ。「ディア」は英語で言うと「through」、つまり、「・・・を通して」という意味である。「コニア」は、「塵、あくた」である。「汚いものを通して」ということは、「人間の排泄物を通して」、ということだ。
 奉仕とは、うんことおしっこの世話をすることなのだ。それ以外は、人に仕えることではない、と私の知人の神父は言った。



 食わず嫌いしないで、エッセイはともかく小説は読んでみよう。