2012年NHK出版
笠井潔と言えばミステリー作家である。読んだことはないがそう思っていたので、こういった真面目な社会評論を書く人とは知らなかった。これが本業の傍らの手すさび?と思ったら大間違い。きわめて質の高い、鋭い、並み居る評論家を恥じ入らせるに十分な内容である。プロフィールをみると、1948年生まれで学生運動をしていたとある。若い頃から、社会的関心高く、読書量はんぱなく、思考訓練を積んできた人なのであろう。
終戦記念日、近所の古本屋で見つけて購入した。
本書のテーマを簡潔に言えば、日本および日本人論ってことになる。日本とはいかなる国か、日本人とは何者かということを、近・現代史上の二つの大事件を手掛かりに論じている。それが、8・15(=日米戦争)と3・11(=福島原発事故)である。
難解な読み物を想像するかもしれないが、そんなことはない。巻措く能わない面白さで一気読みした。
さすが本格ミステリーの大御所である。読者を物語に引きずり込むプロローグ(つかみ)の上手さ、切れ味鋭い論理、容赦ない真実の探求姿勢、謎が謎よぶサスペンス、トリック解明のスリルと説得力、心髄にこたえる真相。社会評論でありながら、やっぱりミステリー作家の手腕ここにあり、といった感じである。
とりわけ面白いのが、つかみにあたる序章。日本(東宝)が生んだ国際的スター怪獣ゴジラを登場させる。
ゴジラが、日米戦争の「戦死者の亡霊」を象徴しているという説ははじめて知った。海から上がってきて、東京に上陸し、怒りの雄叫びをあげながら、平和と繁栄をむさぼる戦後の日本を破壊する。その平和と繁栄こそは、大戦の反省も戦死者の追悼もなおざりのまま、敵国アメリカによってもたらされた民主資本主義下に花開いたものであった。
「なるほどなあ」と感嘆した。
同時に、ではソルティは子供の頃ゴジラをどう見ていたかを思い返したとき、ハッと気づくものがあった。
自分は「ゴジラ=アメリカ」と無意識ながら受け取っていた。
つまり、海の向こうからやって来て、放射能を巻き散らしながら日本に上陸し、日本の街を(国会議事堂を)破壊する、恐ろしく強い者=アメリカの比喩ととらえていたのである。それが証拠には、その後に東宝がモスラを登場させたとき、「モスラ=日本」と即座に受け取ったからである。ザ・ピーナッツの神秘的な唄によって、南海の孤島の緑深き森から甦るモスラ(=蚕)こそは、日本的アニミズムの象徴であろう。そんなに強くないところも日本っぽい気がした。
笠井は、日米戦争について、開戦を決定する過程や戦時中の戦艦大和の無謀な出撃、ポツダム宣言受諾、手のひらを返したように鬼畜米英からアメリカ礼賛に変貌した戦後日本人の姿を追っていく。そこには、当ブログでも取り上げた猪瀬直樹『昭和16年夏の敗戦』や、岸田秀✕山本七平対談『日本人と「日本病」について』に述べられているような、日本人の宿痾とも呼びうるような負の国民性が伺える。
福島原発事故についても同様に、戦後の原子力政策が闇雲な原発建設につながった経緯をたどり、東電を含む原子力ムラの閉鎖的体質と計画性の致命的欠如を、暴き出していく。加えていえば、3・11後の対応の拙劣さと責任の曖昧化、そして再びの原発推進路線は、ニッポン・イデオロギーによる専横以外の何物でもあるまい。別記事で取り上げた若杉冽『原発ホワイトアウト』や朝日新聞特別報道部編『プロメテウスの罠』などで指摘されているところに通じる。
このあたりは、ソルティも認識していた。いや、現実直視する勇気があり、冷静にものを見る目のある日本人なら誰だって、ニッポン・イデオロギーの存在とその長所と短所には気づいていることだろう。そしてそれが、多様な文化との折衝が避けられない国際社会においては、人類が原子力という魔物を手にしてしまった現代においては、むしろ短所に傾くであろうことも・・・。
問題は、このニッポン・イデオロギーをいかにして克服できるのかである。
そのためには、そもそもこれがどうやって生まれたのかを検証する必要がある。
本書の一番の魅力は、そこを丁寧に行っているところにある。推理小説でいえば、まさにトリックの謎解きにあたるワクワク部分であり、ミステリー作家笠井潔の本領発揮である。
ソルティが解したところ、次の4点がニッポン・イデオロギーの形成に関わっている。
① 土着のアニミズム的心性
② 風土に合わない稲作文化
③ 天皇制による支配システム
④ 外来文化の変容と吸収
順に見ていこう。
② 風土に合わない稲作文化
③ 天皇制による支配システム
笠井は、出雲の国譲りの神話を例に挙げている。オオナムチを信仰していた古代出雲の共同体は、アマテラスを信仰する高天原勢力(のちの天皇制につながる)の侵略にあって支配権を譲った。その際、オオナムチは大国主命(オオクニヌシノミコト)と改名され、アマテラスの弟であるスサノオの子孫と位置付けられた。もとからの出雲の共同体の人々は、虐殺されることなく、オオナムチの信仰を許されたまま、高天原勢力の支配下におさまった。平和的な王権簒奪(支配される側から見れば自主的隷属)といったところか・・・。
なるほど、このグラフト国家論を適用すれば、諏訪大社の謎や伊勢神宮の謎に迫ることができるのかもしれない。もといた土地の神が名前と役割を変えられて、イザナミ・イザナギ・アマテラスを発端とする神統譜にグラフト(接ぎ木)される。天皇制に組み入れられていく。
面白いなあとウキウキしていたら、しっぺ返しが待っていた。
このグラフト国家的侵略システムが、まさにポツダム宣言受諾以降の日本で、戦勝国アメリカ(GHQ)との関係において自主的に敢行されてしまったというのである。
笠井の容赦ない追究の槍は、戦後日本人の欺瞞を突く。
痛いッ。
これぞ本当の自虐史観の名にふさわしい
6世紀に大陸から入ってきた仏教が日本風に変わっていく様相は末松文美士『日本仏教史』に、16世紀にフランシスコ・ザビエルによってもたらされたキリスト教が日本という「すべてのものを腐らせていく沼」の中で変容していく様子は遠藤周作『沈黙』に描き出されている。マルクス主義もまた、日本的な学生運動や政治闘争のあげくの果てに、連合赤軍事件という目も当てられない悲惨な結末に堕してしまった。
この問いかけに対して、笠井は二つの処方箋を掲げている。
まず、原発拒否を梃子として、ニッポン・イデオロギーにNOを突きつけること。
それによって、「日本独自の歴史意識が形成されはじめることを期待しよう」と笠井は結ぶ。
本書を読んで疑問に思った点が二つある。
だいたい、親鸞の教えがニッポン・イデオロギー克服に役立つのなら、浄土真宗信徒が一番多い日本はとっくの昔にそこから脱しているはずである。
親鸞では無理、と思う。
では、誰か?
あるいは、何か?
各自が自らの頭で考えてみることが肝要だ。
ここは本格推理小説の人気ある仕掛けさながら、「読者への挑戦状」とするのが適切であろう。
笠井潔と言えばミステリー作家である。読んだことはないがそう思っていたので、こういった真面目な社会評論を書く人とは知らなかった。これが本業の傍らの手すさび?と思ったら大間違い。きわめて質の高い、鋭い、並み居る評論家を恥じ入らせるに十分な内容である。プロフィールをみると、1948年生まれで学生運動をしていたとある。若い頃から、社会的関心高く、読書量はんぱなく、思考訓練を積んできた人なのであろう。
終戦記念日、近所の古本屋で見つけて購入した。
本書のテーマを簡潔に言えば、日本および日本人論ってことになる。日本とはいかなる国か、日本人とは何者かということを、近・現代史上の二つの大事件を手掛かりに論じている。それが、8・15(=日米戦争)と3・11(=福島原発事故)である。
70年という時を隔て、一見関係なさそうに見える二つの大事件に共通して存在し、両者を結びつけるものとして、ニッポン・イデオロギーという概念が呈示される。
ニッポン・イデオロギーが必然的にもたらした二つの破局、8・15と3・11は、たんに並列的に存在しているわけではない。「終戦」の歴史的な結果として福島原発事故は生じている。8・15を真に反省し教訓しえなかった日本人が、「平和と繁栄」の戦後社会の底部に3・11という災厄の種を蒔いた。これこそ戦後史の死角である。3・11という破局的な体験が突きつけている意味を真に了解するには、8・15で切断されたように見える戦前日本の錯誤を明らかにしなければならない。
難解な読み物を想像するかもしれないが、そんなことはない。巻措く能わない面白さで一気読みした。
さすが本格ミステリーの大御所である。読者を物語に引きずり込むプロローグ(つかみ)の上手さ、切れ味鋭い論理、容赦ない真実の探求姿勢、謎が謎よぶサスペンス、トリック解明のスリルと説得力、心髄にこたえる真相。社会評論でありながら、やっぱりミステリー作家の手腕ここにあり、といった感じである。
とりわけ面白いのが、つかみにあたる序章。日本(東宝)が生んだ国際的スター怪獣ゴジラを登場させる。
ゴジラが、日米戦争の「戦死者の亡霊」を象徴しているという説ははじめて知った。海から上がってきて、東京に上陸し、怒りの雄叫びをあげながら、平和と繁栄をむさぼる戦後の日本を破壊する。その平和と繁栄こそは、大戦の反省も戦死者の追悼もなおざりのまま、敵国アメリカによってもたらされた民主資本主義下に花開いたものであった。
「なるほどなあ」と感嘆した。
同時に、ではソルティは子供の頃ゴジラをどう見ていたかを思い返したとき、ハッと気づくものがあった。
自分は「ゴジラ=アメリカ」と無意識ながら受け取っていた。
つまり、海の向こうからやって来て、放射能を巻き散らしながら日本に上陸し、日本の街を(国会議事堂を)破壊する、恐ろしく強い者=アメリカの比喩ととらえていたのである。それが証拠には、その後に東宝がモスラを登場させたとき、「モスラ=日本」と即座に受け取ったからである。ザ・ピーナッツの神秘的な唄によって、南海の孤島の緑深き森から甦るモスラ(=蚕)こそは、日本的アニミズムの象徴であろう。そんなに強くないところも日本っぽい気がした。
さて、ニッポン・イデオロギーとはなんであろう?
日米戦争の経緯を簡単に見てきたが、一目瞭然といわざるをえないのは、戦争指導者の妄想的な自己過信と空想的な判断、裏づけのない希望的観測、無責任な不決断と混迷、その場しのぎの泥縄式方針の乱発、などなどだろう。
国会事故調が福島原発事故の「人災」性として列挙した、権威を疑問視しない反射的な従順性、集団主義、島国的閉鎖性など、あるいは目先の必要に目を奪われた泥縄式の発想、あとは野となれ山となれ式の無責任など・・・(略)
笠井は、日米戦争について、開戦を決定する過程や戦時中の戦艦大和の無謀な出撃、ポツダム宣言受諾、手のひらを返したように鬼畜米英からアメリカ礼賛に変貌した戦後日本人の姿を追っていく。そこには、当ブログでも取り上げた猪瀬直樹『昭和16年夏の敗戦』や、岸田秀✕山本七平対談『日本人と「日本病」について』に述べられているような、日本人の宿痾とも呼びうるような負の国民性が伺える。
福島原発事故についても同様に、戦後の原子力政策が闇雲な原発建設につながった経緯をたどり、東電を含む原子力ムラの閉鎖的体質と計画性の致命的欠如を、暴き出していく。加えていえば、3・11後の対応の拙劣さと責任の曖昧化、そして再びの原発推進路線は、ニッポン・イデオロギーによる専横以外の何物でもあるまい。別記事で取り上げた若杉冽『原発ホワイトアウト』や朝日新聞特別報道部編『プロメテウスの罠』などで指摘されているところに通じる。
「空気」の支配と歴史意識の欠落を二本の柱とするニッポン・イデオロギーの背景には、日本に固有の自己欺瞞的な精神構造がある。
このあたりは、ソルティも認識していた。いや、現実直視する勇気があり、冷静にものを見る目のある日本人なら誰だって、ニッポン・イデオロギーの存在とその長所と短所には気づいていることだろう。そしてそれが、多様な文化との折衝が避けられない国際社会においては、人類が原子力という魔物を手にしてしまった現代においては、むしろ短所に傾くであろうことも・・・。
問題は、このニッポン・イデオロギーをいかにして克服できるのかである。
そのためには、そもそもこれがどうやって生まれたのかを検証する必要がある。
本書の一番の魅力は、そこを丁寧に行っているところにある。推理小説でいえば、まさにトリックの謎解きにあたるワクワク部分であり、ミステリー作家笠井潔の本領発揮である。
ソルティが解したところ、次の4点がニッポン・イデオロギーの形成に関わっている。
① 土着のアニミズム的心性
② 風土に合わない稲作文化
③ 天皇制による支配システム
④ 外来文化の変容と吸収
順に見ていこう。
① 土着のアニミズム的心性
天皇制以前の神道的部分である。狩猟採集民に共通して見られる山川草木はじめ自然そのものに神を見る多神教的世界観。丸山眞男はその核心を「つぎつぎになりゆくいきほい」と表した。
「いきほい」をもって、「なりゆく」自然の、無限とも思われる繁殖力に人々は感嘆し、畏怖の念さえ覚える。こうした感嘆、この畏怖がアニミズム的な宗教意識の背景にある。
日本の徳は勢いと不可分である。中国思想とは真逆に、徳ある者が勢いを得るのではなく、「いきほい」に感応した者に徳があると見なされる。「いき」は息=空気であり、ようするにアニマだ。霊(アニマ)に感応しうる者が共同体を支配する。
② 風土に合わない稲作文化
国民の性格は風土に規定される。日本人は「熱帯的、寒帯的の二重性格」を有しているとする和辻哲郎の風土論を踏まえ、笠井はそれを風土に合わない稲作文化との関係からとらえ直す。
自然環境的に不適切な作物を無理に栽培するため、集団的な農作業が過重なまでに義務化された。契約や規律を撹乱する者を排除しなければ、全員が共倒れになりかねない。
生産経済が普及して以降の日本列島住民の心性は、不適切な自然環境で稲作を選好した事実を規定としている。過重で単調な反復作業に耐え(「頑張ればなんとかなる」)、しかも集団的な農作業(「みんなで一緒に」)のため共同体的な相互抑圧に耐えるという二点が、この国の住民の心性を根本的に規定してきた。
この精神的抑圧が、ときとして「日本の特殊な現象としてのヤケ(自暴自棄)」という激情の嵐を生じさせる。しかも「忍従に含まれた反抗はしばしば台風的なる猛烈さをもって突発的に燃え上がるが、しかしこの感情の嵐のあとには突如として静寂なあきらめが現れる」。
③ 天皇制による支配システム
ここでは吉本隆明による「グラフト国家論」を援用としている。グラフトとは「接ぎ木」のことである。
解するに、これは侵略の一つのシステムのことである。16世紀スペイン人がインカ帝国を滅ぼしたように、あるいは17~18世紀にアメリカ入植者がインディアンを虐殺して土地をのっとったように、もとから土地に住んでいた民族を滅ぼし、その共同体を破壊するという典型的な侵略のシステムがある。古代日本の場合、これとは異なった形での侵略が起こった。
解するに、これは侵略の一つのシステムのことである。16世紀スペイン人がインカ帝国を滅ぼしたように、あるいは17~18世紀にアメリカ入植者がインディアンを虐殺して土地をのっとったように、もとから土地に住んでいた民族を滅ぼし、その共同体を破壊するという典型的な侵略のシステムがある。古代日本の場合、これとは異なった形での侵略が起こった。
それ以前にあった共同体における宗教的・イデオロギー的な中枢・核といったものを、次の共同体あるいは国家の権力は、自分たちのイデオロギー構造の中に包括してしまうことです。既存の共同体の宗教的な、あるいはイデオロギー的な中核の部分だけをとりいれてしまうと、どういうことがおこるかと申しますと、自分たちがすでに遠い以前からそれを掌中にしていたのだというイデオロギー的な擬制が可能になります。(吉本隆明『敗北の構造―吉本隆明講演集』弓立社)
笠井は、出雲の国譲りの神話を例に挙げている。オオナムチを信仰していた古代出雲の共同体は、アマテラスを信仰する高天原勢力(のちの天皇制につながる)の侵略にあって支配権を譲った。その際、オオナムチは大国主命(オオクニヌシノミコト)と改名され、アマテラスの弟であるスサノオの子孫と位置付けられた。もとからの出雲の共同体の人々は、虐殺されることなく、オオナムチの信仰を許されたまま、高天原勢力の支配下におさまった。平和的な王権簒奪(支配される側から見れば自主的隷属)といったところか・・・。
なるほど、このグラフト国家論を適用すれば、諏訪大社の謎や伊勢神宮の謎に迫ることができるのかもしれない。もといた土地の神が名前と役割を変えられて、イザナミ・イザナギ・アマテラスを発端とする神統譜にグラフト(接ぎ木)される。天皇制に組み入れられていく。
面白いなあとウキウキしていたら、しっぺ返しが待っていた。
このグラフト国家的侵略システムが、まさにポツダム宣言受諾以降の日本で、戦勝国アメリカ(GHQ)との関係において自主的に敢行されてしまったというのである。
奴隷である事実を隠蔽し忘却することで実際的に、あるいは理念的に保身をはかるという絶妙の自己欺瞞システムが、日本文化の基底には埋めこまれている。なにも大昔のことに限らない。8・15の翌日から日本人の大多数が望んだのは、まさに「継ぎ目」の消去だったのではないか。
東条英機をはじめとする少数の軍国主義者が暴力と洗脳で、自分たちを「無謀な戦争」に巻きこんだ。戦争の被害者である日本国民を、軍国主義から解放してくれたのがアメリカだ。マッカーサーに与えられた戦後憲法こそ、われわれが望んだものだ。
笠井の容赦ない追究の槍は、戦後日本人の欺瞞を突く。
痛いッ。
これぞ本当の自虐史観の名にふさわしい
④ 外来文化の変容と吸収
日本列島に棲まう太古からの精霊たちは、海を渡って襲来する世界宗教や絶対観念の暴威に屈服し、いったんは征服される。しかし長い年月をかけて、仏教や儒教からキリスト教やマルクス主義にいたる普遍的で絶対的な輸入観念を骨絡みにし、最終的には消化し吸収してきた。だから日本に存在するのは、征服され頽落したアニミズム的心性と、原型をとどめないまでに変形された輸入観念の奇妙な折衷形態である。
6世紀に大陸から入ってきた仏教が日本風に変わっていく様相は末松文美士『日本仏教史』に、16世紀にフランシスコ・ザビエルによってもたらされたキリスト教が日本という「すべてのものを腐らせていく沼」の中で変容していく様子は遠藤周作『沈黙』に描き出されている。マルクス主義もまた、日本的な学生運動や政治闘争のあげくの果てに、連合赤軍事件という目も当てられない悲惨な結末に堕してしまった。
挫折し頽落したアニミズム的基層は、原型をとどめないまでに外来の観念や思想を変形してしまう。両者の複合体であるニッポン・イデオロギーは、いったんは成功を収めるが、歴史意識を欠如した「空気」による決定によって、繰り返し大破局を招かざるをえない。
われわれはニッポン・イデオロギーを克服することができるのだろうか?
それとも、8・15と3・11に続く第3の――そしておそらく最後の――破局の到来を指をくわえて待つしかないのだろうか?
それとも、8・15と3・11に続く第3の――そしておそらく最後の――破局の到来を指をくわえて待つしかないのだろうか?
この問いかけに対して、笠井は二つの処方箋を掲げている。
まず、原発拒否を梃子として、ニッポン・イデオロギーにNOを突きつけること。
事故を起こす危険があるから原発に反対するのではない。社会に埋めこまれて際限なく肥大化する権力装置だから、諸個人の自由を必然的に制限し剥奪するシステムだからこそ、原発は否定されなければならない。
8・15にはじまる戦後日本の「平和と繁栄」は、さまざまな意味で原発に依存してきた。あえて原発を拒否することは、「ゴジラ」と化して日本列島を襲った戦争犠牲者たちに、真に向き合うための唯一の道である。
すなわち、ほとんど無意識レベルで日本国民に共有され、日々更新され、日本をすっぽり覆っているニッポン・イデオロギーという権力構造を見抜き、それに支えられ延命している原子力政策に対して、その権力構造の非人間性ゆえにNOと言おう、ということであろう。
蓋し、正論である。原子力を扱えるだけの成熟は、まだ日本人には、否、人類には到来していない。
蓋し、正論である。原子力を扱えるだけの成熟は、まだ日本人には、否、人類には到来していない。
そして、もう一つの処方箋として挙げられているのは親鸞である。
もしも8・15と3・11を超える契機として、日本人の宗教意識を再評価するのであれば、頽落したアニミズムとしての「神道の神々」ではなく、親鸞の絶対他力思想にこそ注目しなければならない。
それによって、「日本独自の歴史意識が形成されはじめることを期待しよう」と笠井は結ぶ。
謎の解明部分の密度に比べると、処方箋の呈示部分はかなり手薄で粗雑な感があるのは否めない。紙幅の関係があるのかもしれない。まだ、笠井自身も答えを探っている途中なのかもしれない。あるいは、ニッポン・イデオロギーの存在に気づき、それに支配されていることを各自が意識化することが、一番の克服手段ということなのかもしれない。人は、無意識レベルにある動機づけには抵抗できないのだから。
であるなら、本書を書くこと、読むこと、広めることが何よりの処方箋である。
当ブログ内の多くの記事とリンクすることから分かるように、本書は、ソルティの日本および日本人に関する問題意識とほぼ重なるものであった。笠井の幅広い知識と鋭い洞察力、緻密な論理とで、自分が漠然と考えていることが文章化され、クリアに証明されていくのを見るのは、胸のつかえがとれるような爽快感があった。もっとも、暗澹たる気持ちを伴った爽快感ではあるが・・・。
何でもっと早く笠井潔を読まなかったのだろう?
であるなら、本書を書くこと、読むこと、広めることが何よりの処方箋である。
当ブログ内の多くの記事とリンクすることから分かるように、本書は、ソルティの日本および日本人に関する問題意識とほぼ重なるものであった。笠井の幅広い知識と鋭い洞察力、緻密な論理とで、自分が漠然と考えていることが文章化され、クリアに証明されていくのを見るのは、胸のつかえがとれるような爽快感があった。もっとも、暗澹たる気持ちを伴った爽快感ではあるが・・・。
何でもっと早く笠井潔を読まなかったのだろう?
本書を読んで疑問に思った点が二つある。
一つは、ニッポン・イデオロギーはどのようにして相続されるのだろうか、ということである。
どのようなシステムによって相続されるのかが判明することなしに、そこから脱出することは難しいと思うのである。
家庭や共同体や教育機関や社会の中で、子供が長ずるにしたがい洗脳されてゆくのか。
暮しの中に溶け込んだ神道や儒教や仏教の無数のしきたりを通して、知らず体が覚えこんでいくのか。
日本人のDNAに書き込まれているのか。
それとも、日本列島を包む大気の中に、目に見えない分子のように存在しているのか。
同じ日本人でも、帰国子女のように海外生活が長ければそれに染まらないのか。
日本に生まれ、日本で育った在日やアイヌや沖縄の人々はどうなのか。
大部分の日本人が稲作から離れたこれからもなお、それは引き継がれていくのか。
天皇制がなくなれば、自然消滅するのか。
・・・・e.t.c
どのようなシステムによって相続されるのかが判明することなしに、そこから脱出することは難しいと思うのである。
家庭や共同体や教育機関や社会の中で、子供が長ずるにしたがい洗脳されてゆくのか。
暮しの中に溶け込んだ神道や儒教や仏教の無数のしきたりを通して、知らず体が覚えこんでいくのか。
日本人のDNAに書き込まれているのか。
それとも、日本列島を包む大気の中に、目に見えない分子のように存在しているのか。
同じ日本人でも、帰国子女のように海外生活が長ければそれに染まらないのか。
日本に生まれ、日本で育った在日やアイヌや沖縄の人々はどうなのか。
大部分の日本人が稲作から離れたこれからもなお、それは引き継がれていくのか。
天皇制がなくなれば、自然消滅するのか。
・・・・e.t.c
いま一つは、親鸞についてである。
親鸞についてはよく知らない。三國連太郎の監督した映画『親鸞 白い道』を観て、『歎異抄』を読んだくらいである。他力本願や悪人正機説は言葉としては知っているレベル。
なので、はずしているかもしれない。
親鸞の教え(=浄土真宗)がニッポン・イデオロギー克服の手段、すくなくとも契機となるという笠井の意見には賛同できない。
むしろ、逆じゃないかとさえ思える。
他力本願、阿弥陀さまにすべてをおまかせするという「あなたまかせ」な態度こそは、日本人の「神風」妄想に通じるものじゃなかろうか。年金問題も少子高齢化問題もエネルギー問題も、「お国にまかせておけばなんとかなる」という、現実逃避と行き当たりばったりと自助努力の放棄を助長するものではなかろうか。それこそ、戦時中の浄土真宗本願寺派第22世宗主・大谷光端(1871-1948)の言説に見るように、国体を正当化するのに恰好な論理となったではないか。
親鸞についてはよく知らない。三國連太郎の監督した映画『親鸞 白い道』を観て、『歎異抄』を読んだくらいである。他力本願や悪人正機説は言葉としては知っているレベル。
なので、はずしているかもしれない。
親鸞の教え(=浄土真宗)がニッポン・イデオロギー克服の手段、すくなくとも契機となるという笠井の意見には賛同できない。
むしろ、逆じゃないかとさえ思える。
他力本願、阿弥陀さまにすべてをおまかせするという「あなたまかせ」な態度こそは、日本人の「神風」妄想に通じるものじゃなかろうか。年金問題も少子高齢化問題もエネルギー問題も、「お国にまかせておけばなんとかなる」という、現実逃避と行き当たりばったりと自助努力の放棄を助長するものではなかろうか。それこそ、戦時中の浄土真宗本願寺派第22世宗主・大谷光端(1871-1948)の言説に見るように、国体を正当化するのに恰好な論理となったではないか。
大谷光端は、大慈大悲の阿弥陀如来とその教えに信従する信徒との関係を、天皇と臣民との関係に適用することによって、大慈大悲の如来のごとき天皇の聖旨にただひたすら信従すべきであるという、臣民の道を説いていたのである。それは信徒のあるべき心的態度の臣民道への拡大・適用を意味した。(栄沢幸二著『近代日本の仏教家と戦争 共生の倫理とその矛盾』289ページ、専修大学出版局、2002年発行)
だいたい、親鸞の教えがニッポン・イデオロギー克服に役立つのなら、浄土真宗信徒が一番多い日本はとっくの昔にそこから脱しているはずである。
親鸞では無理、と思う。
では、誰か?
あるいは、何か?
各自が自らの頭で考えてみることが肝要だ。
ここは本格推理小説の人気ある仕掛けさながら、「読者への挑戦状」とするのが適切であろう。