2017年新潮社

 このところ新潮社から仏教関連の良書の発行が続いている。
 魚川祐司著『仏教思想のゼロポイント』を嚆矢とし、同じ魚川訳のウ・ジョーティカ著『自由への旅 マインドフルネス瞑想実践講義』や『ゆるす』、宮崎哲弥✕呉智英対談『知的唯仏論―マンガから知の最前線まで―ブッダの思想を現代に問う』他である。おそらく社内に初期仏教に関心の高い、有能な編集者がいるんじゃないかと推測する。ありがたいことだ。

 この本もまた、初期仏教すなわちブッダ本来の教えの核心をつく、目からウロコの刺激的な対談本である。対談者は、科学と仏教の連関を唱えるエキサイティングな名著『科学するブッダ 犀の角たち』を書いた佐々木閑と、中観派の仏教徒を自認する評論家宮崎哲弥。どちらも今をときめく仏教スポークスパースンである。
 本書の裏表紙には『根本から問い直す「最強の仏教入門」』と紹介されている。内容も仏教の三つの宝である「仏(=ブッダ)」「法(=ダンマ)」「僧(=サンガ)」のそれぞれについて、碩学の二人が長い仏教の歴史の根本に立ち戻って、その本質を語り合っている。
 けれど、やはりこれは入門書というには敷居が高い。「仏教ってなに?」と入門書を期待して手にした人は、門前払いを食らうかもしれない。とくに、「法」についての章は、かなり学問的に高度で難解である。察するに、恰好の対談相手を得て熱くなった宮崎の逸る追求心のせいかと思う。これはこれで面白いが、単純に初期仏教について知りたいのなら、岩波文庫から出ているワールポラ・ラーフラ著『ブッダが説いたこと』に如くものはなかろう。
 ある程度初期仏教を学び瞑想修行を実践してきた人が、自らが拠り所とする仏教の基盤をもう一度確かめ、さらなる飛躍を期す布石とするには恰好の本である。

以下引用(すべて佐々木発言)

仏教という宗教は、ふだん他人事として忘れている老病死という人生の最大の苦しみを、我が身のこととして実感した人にとって、はじめて必要となるものなのです。

釈迦の生き方は、苦しみを生み出す世俗の価値観をひっくり返して、正反対の価値観の中で安穏の境涯を手に入れようというものです。したがって当然ながら、仏教の真理というものは、世の流れに逆らう非社会的な視点だということになるわけです。

つまり仏教は、教えを説き広めることによって、すべての人間を幸せにする義務もなければ、そのような課題も持たず、基本的に釈迦の言うことに反応する人だけを受け入れる。他の宗教のように万人に積極的に布教することはしない。仏教に救いを求めている人がいたら、そこではじめて手助けをするというだけ。

一切皆苦の本質は、私たちが生命体であるというところにあります。「四苦」とは、つまり生命体が生命体であるがゆえに必然的に抱え込む苦であり、したがって「決してそこから逃れられない」ものであり、「誰にでも等しく襲いかかる」ものです。

仏教がいう無常とは、無常をよしとする考えではなく、無常という法則性を前提として世界観を構築せよ、ということです。

秩父札所めぐり2日 065


 内容とは別に、対談を読んでいて感じるのは、宮崎哲弥の「言語」に対するこだわりの強さ。やっぱりインテリなんだなあと思った。言語脳が異常に発達しているのではなかろうか。
 一方の佐々木閑は、学者としてのブレない姿勢に感嘆した。もとが理系であったせいもあるかと思うが、仏教を学問として研究するにあたり、純粋に科学的方法――仮説の設定、材料の分析、論理的思考による証明といった――を実直に適用している様が伺える。その語りも客観的かつ論理的である。
 その一環として、本書の最後では、同じ仏教研究者で『浄土真宗は仏教なのか?』の著者である藤本晃(浄土真宗僧侶)のことを「テーラワーダ歴史原理主義者」と呼び、宣戦布告(むろん学問上の)している。以前、サンガ発行の仏教雑誌『サンガジャパン』で、藤本が佐々木の発表した論文について批判したことを受けてのことだ。
 ソルティは、学問としての仏教にはほとんど興味ないし、読んでもどうせ理解できないので、両者の対決にはさして関心がない。藤本が本当に「テーラワーダ歴史原理主義者」なのかどうかも知らない。
 ただ、以下の佐々木の発言には、一顧の価値置くものがあるとは思った。

私自身、釈迦の絶対的信者ですから、テーラワーダ仏教に非常な親近感を持つ人間です。しかしそのテーラワーダが、藤本氏のような強固なテーラワーダ歴史原理主義者の方向に傾きかけている状況をとても心配しています。藤本氏の説に納得するか、それとも疑問を抱くかは、その当の本人のその後の生き方にきわめて大きな影響を与えるということに留意して欲しいのです。
  
 なにごとにせよ、原理主義は好ましくない、という意味において。