1953年新東宝
104分

 戦艦大和乗組員であり生還した吉田満が書いた『戦艦大和ノ最期』(1952年)を原作とする。

 重要な役どころを、藤田進(大和副長・能村大佐)、中山昭二(大森中尉)、高島忠夫(高田少尉)らが固めている。吉田満にあたる主役・吉村少尉を演じている(語り手でもある)のは舟橋元という役者。これまで知らなかったが、これ一本で記憶されることだろう。好演である。
 音楽は芥川也寸志。


戦艦大和


 坊ノ岬沖海戦における戦艦大和出航は、巨大な棺桶による水葬というにふさわしい。
 これは、「撃沈という結果を知っている現時点だから、さかのぼって言える」というものではない。当時の状況において、まさに死への旅路であり、そのことは軍司令部も、艦長ら上官たちも、乗組員もみんながみんな知っていた。片道分の燃料のみ搭載、空軍による援護なし、アメリカとの戦力差は歴然。そもそも「空」対「海」の闘いではどう考えたって「空」に分がある。少なくとも当時の武器事情においては・・・。小学生だって分かる。
 大和乗組員は、いわば、自殺しにいったのである。
 これを美化して賛美したり自己陶酔するのは勝手であるが、日本人以外の国民が観たら、まさに「狂気の沙汰」と言うほかない愚行である。

 思うに、日本という国家を一人の人間Jに譬えるしたら、日米戦争においてJはそもそもの初めから自殺を企図したのだろう。「戦争に敗けて国体(=天皇制)が崩壊するくらいなら、いっそ自爆テロしてやれ」という気分だったのかもしれない。
 あるいは、どうだろう。Jは列強であり続けることにいい加減疲れていたのかもしれない。黒船来航以降、強制開国、文明開化、富国強兵、殖産興業を経て、「列強に追いつけ、追い越せ」と自らのケツをたたき続け、「なにものか」になろうと死に物狂いの奮闘を続け、無理を承知でストレスを溜め込み、開戦時にはすでにバーンアウトしていたのかもしれない。深刻な鬱状態から、判断力を失っていたのかもしれない。もともとのJは、どちらかと言えば、太平お気楽な享楽的人間だったのだから。
 それに「国体、国体」と言うけれど、江戸時代までの日本人(むろん庶民のことである)が、本当に天皇制をアイデンティティとするほど重要と感じていたのか、ソルティは疑問に思うのである。天皇に対する畏れや敬愛はもちろんあっただろうが、天皇制そのものに本当に執着していたのだろうか? 
 テレビもラジオもインターネットも全国レベルの新聞も持たない江戸時代以前の庶民が、たとえば元号が変わったことをどのくらい意識していたのだろうか?
 
 この映画は、愛国心高揚あるいは反戦平和を声高に訴えるイデオロギー色強い作品ではない。
 友情、家族愛、軍隊内での師弟愛は出てくるけれど、人間ドラマというほど濃くはない。
 死ぬ意味、生きる意味を問う哲学的テーマも一瞬触れられるけど、たくさんある艦内エピソードの一つに過ぎない。
 全般、事実を淡々と描こうとしている。
 それだけに、この映画をどう観るか、どうとらえるか、どこに感動するかで、その人の国家観、人生観、人間観が浮き彫りにされる。
 そんな映画である。