秩父と言えば、わらじカツ
須崎旅館は素晴しいもてなしの宿である。
チェックイン時、雨に濡れたポンチョと靴の扱いに手間取っていると、女将が「明日までに乾かしておきましょう」と引き取ってくれた。
館内は、木を基調としたアンティークな落ち着いたしつらいで、真綿色の照明が木目の美しさを引き立て、目にもやさしい。
生け花や休憩スペースのコーヒーサービスなど細かい配慮が行き届いている。
館内は、木を基調としたアンティークな落ち着いたしつらいで、真綿色の照明が木目の美しさを引き立て、目にもやさしい。
生け花や休憩スペースのコーヒーサービスなど細かい配慮が行き届いている。
フロント
休憩&団欒スペース
案内された部屋はこぎれいな四畳半。
一泊の一人客には十分な広さである。
疲れて動きたくない体には、使いたい物にすぐ手が届く手狭さこそ好ましい。
部屋に入ってすぐ気づいたのは、お茶を使ったアロマテラピー。
狭山茶を焙じる香ばしく懐かしい香りが、身を清め、心を静める。
夕食は外で食べるつもりで頼んでいなかった。
秩父名物「わらじカツ」の元祖を名乗る店が近くにあるので、そこに行く予定であった。
が、小鹿野の夜は早い。
露天風呂に入って一休みしてから出かけると、18時前ですでに店じまい。
そこから、開いている店を探してずいぶん遠くまで放浪してしまった。
店を出たら20時、すでにあたりは深夜モード。
懐中電灯を持って出かけるべきであった。
朝食は7時から食堂でいただく。
滋養ある季節の野菜と虹マスの甘露煮にご飯がすすむ。
ゆっくりくつろいで、昨日の疲れは癒えた。
預けていたポンチョと靴を受け取って
さあ出発!
預けていたポンチョと靴を受け取って
さあ出発!
●挙行日 2018年9月3日(月)
●天気 曇り一時雨(最高気温25度)
●行程
08:00 須崎旅館出発
歩行開始
08:20 須崎旅館再出発
08:45 大日峠入口
09:35 第32番・法性寺門前
10:00 お船岩頂上
大日如来、お船観音参拝
休憩(15分)
11:00 法性寺門前発
13:00 第33番・菊水寺
休憩(20分)
14:20 椋神社
15:00 龍勢会館
歩行終了
昼食
17:28 西武秩父駅行きのバスに乗る
●所要時間 7時間(歩行時間6時間+休憩時間1時間)
・・・休憩時間には各寺での滞在時間を含む
●歩行距離 約18キロ(毎時3キロ)
意気揚々と旅館を後にしたはいいが、10分ほど歩いたころで部屋に竹笠を忘れたことに気づく。
戻って20分のロス。
早く気づいて良かった。
大日峠入りしていたら諦めたことだろう。
その後も峠の入口を探して右往左往で10分のロス。
小鹿野町の素晴しい政治姿勢に賛同しつつ、やっと道標を見つける。
住宅地を抜けると、超えるべき山が見えてきた。
大日峠入口
しばらくは林道を進む。
小さな集落の道端に祀ってあった✕✕✕に拝んで、パワー注入を期す。
こんせい宮
金精大明神(こんせいだいみょうじん)は、男根の形をした御神体
山道入口
金精大明神(こんせいだいみょうじん)は、男根の形をした御神体
山道入口
ちゃんとした山登りの装備が必要なレベルの本格的な山道である。
なんども沢を渡り返しながら、高度を上げていく。
息が切れる。
第32番法性寺に到着。
やった!
峠は越えたぞ!!
山門わきに置いてある杖を借りる
これがこの先、非常に役立つ
これがこの先、非常に役立つ
石段を登ったところに納経所がある。
が、参るべき観音堂はさらに先。
奥の院であるお船岩はさらにずっと先。
「上まで行ってきます」
納経所に竹笠とリュックを預かってもらう。
観音堂・奥の院へのアプローチ
おしゃれである
おしゃれである
身投げした美女を助けたイケメンはご本尊だった!
御詠歌「願はくは 般若の船に のりを得ん いかなる罪も 浮かぶとぞきく」
ここからが本番であった。
さきほどの大日峠越えが小学校の遠足と思えるほどの恐怖の岩登りが待っていた。
法性寺のある般若山のてっぺんは、大きな船の形をした一枚岩でできている。
お船岩と呼ばれるゆえんだ。
観音堂から先は、垂直に近いこのお船岩を登っていくことになる。
岩に刻まれた足場と鎖だけが頼りである。
気になる崖の洞窟を覗けば
可愛らしい夫婦雛を祀った祠
岩肌に穿った石段を登れば
一寸先は奈落の底
さらに鎖を頼りに昇り詰めると
畳一帖ほどの岩のてっぺんに大日如来
冠が切れているのは、あと一歩下がると撮影者が墜落するため
大日如来の視点から見た景色(正面)
大日如来の視点から見た景色(右手)
大日如来の視点から見た景色(左手)
・・・・・・。
言葉を失うのは絶景のためか。
それとも高所恐怖症のためか。
これまでも絶景過ぎて怖い山頂はいくつも見てきた。
大月の稚児落とし
山梨の乾徳山
甲府の弥三郎岳
筑波の女体山
北杜市の瑞牆山
どれも山頂が岩壁の上にあり、足の置き場がすこぶる狭い上に、岩肌なので滑りやすい。
下を覗けば背筋が凍るような絶壁。
ふざけるのが好きな友人とは絶対に登りたくない面々である。
しかるにこの般若山。
これらの高所恐怖症キラーズを恥じ入らせるに十分なレベル。
全米パニック必死の絶叫ホラーアクメである。(注:アクメとは頂上のこと。なにか勘違いしないように)
しかも、さっきから雨が降り出して、「イナバウアーしろ」とばかりに岩がアイスリンク化している。
マジ、怖いっす・・・
ここは、ある程度山登り経験ある人じゃなければ、無理しない方がよいかもしれない。
岩のふもとにある観音堂でお参りすれば御朱印はもらえるのだから。
大日如来は船の艫(トモ=船尾)のほうにある。
そこから岩のへりをつたって、舳(ヘサキ=船首)に立つお船観音に向かう。
お船観音へ向かう道
お船観音
美しくたおやかな立ち姿
法隆寺の百済観音をモデルにしたんじゃなかろうか
法隆寺の百済観音をモデルにしたんじゃなかろうか
船首に立つ(映画『タイタニック』を連想)
船の胴部分
納経所に戻って住職(?)に尋ねた。
「これまでに誤って頂上から落ちた人とかいないんですか?」
「いないねえ~」
調べてみると、江戸時代に参詣した人が岩船から墜落した事故が2例あるらしい。
が、二人ともケガがなかったばかりか、ある手代のケースではその同時刻に盲目の主人の目が見えるようになったそうな。
ありがたや~。
納経所の前にあった蛇口から、霊験ある般若山の水、文字通りの般若湯をマグに詰める。
雨も止んだ。
杖を返して、いざ出発。
時刻は11時ちょうど。
ここから次の33番まで約1時間半。
ちょいと頑張って12時半に33番を出られるようにすれば、16時過ぎには34番水潜寺に着いて、結願できる。(納経時間は17時まで)
いよいよラストワンだ。
法性寺から県道209号に通じる道こそ、小鹿野路のクライマックスである。
左右に森が続く里山の道を、畑や民家に咲き誇る雨に洗われ色鮮やかな季節の花を愛で、道端の古仏の来歴を尋ねる。
秩父遍路とはまさに「花と信仰の道」なのだと感じる。
I LOVE CHICHIBU.
I LOVE OGANO.
I LOVE OGANO.
山肌を覆い尽くす秋海棠(シュウカイドウ)
秋海棠 西瓜の色に 咲きにけり (芭蕉)
木槿(ムクゲ)
百日紅(サルスベリ)の群生
百日紅に包まれた立派なお堂
「七辺廻りの堂」と呼ばれている
「七辺廻りの堂」と呼ばれている
中には金色の仏像
裏側に「しちへんめぐってどうのなか」と刻まれているとか
裏側に「しちへんめぐってどうのなか」と刻まれているとか
夢見心地で歩いていたら、道に迷ってしまった。
法性寺で教えられた通りの道を進んできたのだが、県道209号を越えたところで、どうにも味気ないバイパス風の車道につながってしまった。
遍路道っぽくない。
秩父札所連合会作成の地図で確認すると、どうやら途中で分岐を間違えたらしい。
というか、お寺で教えられた通りの道でも33番につながるらしいのだが、それは自動車で回る巡礼者用の道だったのである。
徒歩で行くなら、やっぱり、なるべく情緒豊かな江戸巡礼古道を歩きたい。
たとえ幾分近道だとて、車の往来激しい幹線道路なぞ遠慮したい。
巡礼古道に戻る。
約15分のロス。
国道299号の赤平橋を渡って農道に入ると、田園風景が広がり、彼方には土砂崩れのためか層位を見事にさらした崖が見える。
理科の授業にもってこいだ。
と思ったら、「おがの化石館」という看板があった。
このあたりは化石が多く出土するのである。
「ようばけ」と呼ばれる大露頭
ようばけとは「日の当たる崖」の意
ようばけとは「日の当たる崖」の意
奈倉橋を渡って、小鹿野町から吉田町に入る。吉田町は2005年に合併して今は秩父市になっているので、秩父市から小鹿野町を経て、また秩父市に戻ったことになる。
第33番菊水寺到着。
納経所は観音堂内にある。
お経をあげて、御朱印帳を差し出すと、お坊さんが言った。
「いまのお経は何語ですか?」
「パーリ語です」(ソルティは般若心経でなく、パーリ語の日常経典を唱えている)
「ああ、やっぱり。駒澤大学にいた頃に片山一良先生に習ったのを思い出したよ。ブッダン、サラナン、ガッチャーミって・・・」
「いまのお経は何語ですか?」
「パーリ語です」(ソルティは般若心経でなく、パーリ語の日常経典を唱えている)
「ああ、やっぱり。駒澤大学にいた頃に片山一良先生に習ったのを思い出したよ。ブッダン、サラナン、ガッチャーミって・・・」
よもや片山先生という仏教学の大家の名を耳にするとは思わなかった。
観音堂の本尊に向かって右側の壁には「子返し」、左側の壁には「孝行和讃」の絵入りの額が飾られている。
前者は間引き(嬰児殺し)を諫めるもので、後者は老親孝行を讃えるものである。
逆に言えば、この地方にはかつて「間引き」と「姥捨て」の風習があったことを想像させる。
観音堂の本尊に向かって右側の壁には「子返し」、左側の壁には「孝行和讃」の絵入りの額が飾られている。
前者は間引き(嬰児殺し)を諫めるもので、後者は老親孝行を讃えるものである。
逆に言えば、この地方にはかつて「間引き」と「姥捨て」の風習があったことを想像させる。
かわいい稲荷様がいっぱい住んでいる祠
お堂の横の竹林
ここでしばし瞑想
ここでしばし瞑想
33番到着は13時ちょうどだった。
案内書によれば、ここから34番までは3時間半かかる。
無理をすれば、破風山の札立峠を越えて、17時前に34番に着くことができる。
が、しばし考えて、今回はこれで打ち終えることにした。
急いで回ることに意味はない。
時間に追われて先を急ぐのも本来の巡礼の趣旨からはずれる。
昨日の雨でぐっちょり濡れた靴の中に発生した右足親指のマメも疼く。
それに、今日の出がけの笠忘れによる20分のロスは、何かを告げている気がする。
「お前、急ぐなよ」
と、観音様が耳元でささやいている気がする。
急いで回ることに意味はない。
時間に追われて先を急ぐのも本来の巡礼の趣旨からはずれる。
昨日の雨でぐっちょり濡れた靴の中に発生した右足親指のマメも疼く。
それに、今日の出がけの笠忘れによる20分のロスは、何かを告げている気がする。
「お前、急ぐなよ」
と、観音様が耳元でささやいている気がする。
「よし。今日はこれで店じまいだ。あとは、巡礼路に沿って進み、どこかで昼飯をとって、西武秩父駅行きのバスのある所まで歩こう」
地図で確認すると、33番から30分ほど歩いたところに龍勢会館がある。
道の駅が付設しているので食べ物にありつける。
龍勢祭や秩父事件など、地域文化の勉強もできる。
ふと見れば、龍勢会館の近くに「椋神社」という見覚えのある文字がある。
そう、明治17年(1884年)に起きた秩父事件の際に、武装した地元の男たちが決起集会を開いた場所である。
「これはぜひ足を運ばなくては」
そう、明治17年(1884年)に起きた秩父事件の際に、武装した地元の男たちが決起集会を開いた場所である。
「これはぜひ足を運ばなくては」
33番をあとにし、もはや時間に追われない気楽なペースで椋神社を目指す。
椋神社(むくじんじゃ)は、延喜式神名帳に掲載された武蔵国秩父郡の式内社である。
元は井椋(いくら)五所大明神と号しており「いくらじんじゃ」が本来の呼称である。近世になり地元以外から「むくじんじゃ」と読まれることが多くなり現在の呼称になったという。例祭の際に龍勢を打ち上げる龍勢祭りは有名である。
社伝によれば、日本武尊が東征の折創建したという。
(ウィキペディア「椋神社」より抜粋)
主祭神は猿田彦命。
格式ある長い伝統を持つ神社なのである。
毎年10月第二日曜日に実施される龍勢祭(りゅうせいまつり)は、国の重要無形民俗文化財に指定されているもので、火薬を詰めた木筒をロケットの如く打ち上げて、龍勢(流星)の様を競い合う。
この猛々しく勇ましい風習によって培われた反逆精神こそが、秩父事件という近代日本稀なる民衆蜂起(市民革命)を可能にしたのであろうか。
ちなみに、椋神社の発音は「アマガエル」と同じ抑揚ではなくて、「ポリデント」と同じである。
昭和59年 吉野康彦制作
車で来た参拝者のための入り口
車で来た参拝者のための入り口
龍勢会館へ向かう途中にある橋の親柱
龍こそが旧吉田町のシンボルなのだ
なんだかんだ言っても 秋は来てるらしい 椋の里
龍勢会館・道の駅でおにぎりを買って、店の前の東屋で遅い昼食とする。
七十がらみの男と世間話。
秩父からバスで来たと言う。(ここも秩父市だよ)
やはり合併しても、吉田に対する地元感はないようだ。
文化が微妙に違うのを感じる。
東屋の横に、どう見ても巨大な✕✕✕としか見えない岩のモニュメントがでんと置かれている。
やっぱり勇ましい。
というか、逞しい・・・。
西武秩父駅行きバスの時刻まで1時間以上あったので、龍勢会館を見学した。
次回はここから歩くことになる。
西武秩父駅隣接の祭りの湯で疲れを癒し、昨晩食べ損ねたワラジかつ(冒頭写真)を頬張る。
恵まれた環境に感謝!
恵まれた環境に感謝!