2013年化学同人社発行。

仏教には三宝と呼ばれるものがある。
仏・法・僧――ブッダと真理と出家者の集まりである。

また、三蔵と呼ばれるものがある。
経蔵 (sutra)と律蔵 (vinaya)と論蔵 (abhidharma)である。
三蔵に精髄している僧侶を三蔵法師と言う。
  • 経蔵 ・・・・ 釈迦の説いたとされる教えをまとめたもの。いわゆる「お経」 
  • 律蔵  ・・・・ 出家集団の規則・道徳・生活様相などをまとめたもの。いわゆる「戒」 
  • 論蔵  ・・・・ 上記の注釈、解釈などを集めたもの。いわば「仏教哲学」

本書はこの3つ目の論蔵(アビダルマ)についての入門書である。

私たちは普通に暮らしている限り、いつでも煩悩を起こしながら生きている。特別な方法を用いない限り、それを断ち切ることはできない。その特別な方法というのが、シャカムニが自力で見つけ出した修行の道、つまり仏教である。おそらくシャカムニ自身は、その道を体系化して説くことはなかった。その時々、相手の状況に合わせて個別に指導したため、教えの内容はきわめて実際的、断片的なものであったに違いない。それを後の時代の修行者たちがきれいにまとめ上げて、誰にでも利用できる一般則として体系化した。それがアビダルマであり、『俱舎論』はそのアビダルマの代表的作品である。

ソルティ実は知らなかったのだが、アビダルマには二系統あるそうだ。
一つはスリランカを中心とするテーラワーダ仏教で伝えられてきたもの。もう一つは、インドとパキスタンの国境地帯のガンダーラと呼ばれる地方で「説一切有部」というグループが発展させ、今に残したものである。説一切有部は今は存在しない。

このブログで触れたことのあるアビダルマは、スリランカ出身のアルボムッレ・スマナサーラ長老が日本テーラワーダ仏教協会にて講義したのをまとめた本なので、前者に当たる。
一方、本書が取り上げているアビダルマは、後者の説一切有部のアビダルマの中でも最も完成された形の一冊『アビダルマコーシャ』であり、それを日本では『倶舎論』と言うのである。

「倶舎」というと奈良時代の南都六宗を思い出すが、まさにその一つである俱舎宗は『アビダルマコーシャ』を研究していた僧のグループだった。
日本でアビダルマを研究していたお坊さんがいたことに驚きを禁じ得ない。
それは、研究していた人がいたという事実に対する驚きではなく、研究していたにも関わらず、その成果が実際の日本仏教には何の影響も及ぼさなかったということに対する驚きである。

大乗仏教圏である日本に入ってきた経蔵(お経)は創作経典であり、ブッダ本来の教え(編纂経典)から遠く離れたものである。それをテキストに仏教の神髄を学ぶのはどうしたって無理がある。ブッダの悟りを求める我が国の歴史上の修行者たちの苦闘の最大の要因は、まさにここにあった。間違ったマニュアルを見ながらネットにつながろうとしても上手くいくわけない。
あれこれ試行錯誤を繰り返し、偶然ネットにつながるシステムを作動させてしまった一握りの天才のみが、我が国では悟ったのであろう。偶然達した僥倖ゆえに、方法を体系化して弟子に伝えることなどできるべくもない。

一方、(佐々木によれば)、日本に入ってきた論蔵(倶舎論)は、テーラワーダ仏教圏で伝えられてきた論蔵と大きな変わりはないそうである。それは、どちらも同じ『阿含経』という経典をベースにしているからで、この『阿含経』こそは初期仏教の代表的経典の一つであり、ブッダの説いた教えに源を発していると言われているのである。
大乗仏教圏とテーラワーダ仏教圏のそれぞれで重用されてきた経蔵の違いに比べれば、論蔵の違いは微々たるもの。佐々木の言葉を借りれば、「大乗仏教の影響を受けずに、おおもとの仏教を体系化した唯一の仏教哲学」である。

「おおもとの仏教は(論蔵という形で)日本に入っていたんじゃないか!!」
と今さらながら驚く。
「なのに、なんで広まらなかったのか?」
「俱舎宗はなぜ消えてしまったのか?」

この謎について調べるのは今後の楽しみとしよう。
ただ、思うに、やはり仏教は研究するものではない、あるいは机上の学問だけでは神髄には触れられないということではあるまいか。修行が伴われていない仏教の価値は、ペーパードライバーのようなもの、ってことじゃないか。

あとがきによれば、本書はあのエキサイティングな名著『科学するブッダ 犀の角たち』(2006年大蔵出版)の続編として企画されたそうである。
 
『犀の角たち』は「科学がどういった点で仏教に結びつくのか」という問題を科学に重点を置いて語った本である。ならば次に書くべきは、仏教に重点を置いて、「仏教のどういったところに科学的思考が現れているか」を語る本でなければならない。ではそれは、一体なにをテーマにした本なのか。科学的思考が現れている仏教の分野とはどこなのか。そこまで考えてきて決心がついた。それはアビダルマである。

ソルティは『犀の角たち』をはじめて読んだとき(2013年)、手放しの賛辞と手土産の感謝に値すると思いつつも、一方どことなく物足りない感を持った。それはまさに上記の点――仏教より科学に重点が傾いている――にあった。
ちゃんと、続編を書いてバランスを取っていたのである。
両方の本をセットで読んでこそ、科学と仏教の二卵性双生児のような関係が了解されよう。
あいかわらず、小難しいことを素人にも分かりやすいよう噛み砕いて伝える佐々木の能力は見事に尽きる。池上彰に通じるものがある。

仏教の物質論、仏教の認識論、仏教の時間論、仏教のエネルギー論、そして因果法則・・・。
微に入り細を穿つ、水も漏らさぬ緻密な理論。
最先端の科学理論と符合するかのような世界認識。
(盆のように丸い世界の真ん中には須弥山が聳えていて云々・・・といったナンセンスもあり)

仏教が、数学と論理学の往年の大家たるインドに誕生したのも、うべなるかな。


一刹那ごとに、今ある存在はすべて消え、全く別の存在が出現してくる。そのデジタルな生滅の連続が「この世の転変」というものである。私もまた、そういう転変世界の一部として生きている。今の私は、私を構成している色法、つまり肉体と、その内部に遍満する心・心所法の複合体として存在しているが、それは一刹那で消滅する。そして次の刹那にはそれとよく似てはいるが同一ではない別の複合体が現れる。それは実体としては全く別物だが、前の刹那の影響を受けて、前の刹那と連続性をもって生じてくるので、あたかも同じ「私」というものが連続して存続しているように思えるが、実際は錯覚である。この意味で私という存在は、「ある程度の全体性を保持しながら刹那ごとの消滅を繰り返す、要素の集合体」と定義することができる。
 

鴨長明さんよ。
これが無常の実態だ。

 
2012年3月屋久島&九州旅行 038