2004年公開された神山征二郎監督『草の乱』は秩父事件を描いたものである。

主演は緒形直人。
ほかに林隆三、杉本哲太、山本圭、原田大二郎、藤谷美紀、田中好子らが脇を固め、実際の事件の舞台となった秩父神社、23番札所音楽寺、吉田町(現秩父市)の椋神社などが撮影に使われている。
主人公・井上伝蔵の家「丸井商店」を撮るにあたっては、当時住み込んでいた使用人の記憶や現存する写真を頼りに、間取りや大きさを忠実に再現して復元したそうである。
そのセットは、現在、龍勢会館の秩父事件資料館・井上伝蔵邸として一般公開されており、ソルティも秩父巡礼5日目に見学することができた。
(注:丸井商店はいまのマルイと関係ない)

秩父巡礼4~5日 167
龍勢会館


秩父巡礼4~5日 169
井上伝蔵の家(映画『草の乱』セット)


秩父巡礼4~5日 168


神山監督はほかにも、江戸時代宝暦年間(1750年半ば)に郡上藩(いまの岐阜県郡上市)で起こった大規模な百姓一揆を描いた力作『郡上一揆』(2000年)を撮っている。
こちらも緒形直人主演で、脇を固めた前田吟が橋田寿賀子ドラマの彼と同一人物とは思えぬほどの颯爽とした演技を披露して、強い印象を残す。

ソルティはこの映画のDVDを、まさに霊峰白山を望む郡上にある友人の別荘で視聴した。
日本三大盆踊りに挙げられる郡上踊りのクライマックス「徹夜踊り」直前で、街は活気に満ちていた。
事件が起こった土地の非日常的エネルギーの中で観た『郡上一揆』は、臨場感あふれる体験であった。
神山監督の手堅く、丁寧な、役者の魅力を生かす演出にも感銘を受けた。
なので、未見であるが『草の乱』にも期待大なのである。
秩父巡礼を終えた今、同じ秩父事件を扱った『山襞の叫び』と並んで、もっとも観たい映画の一つである。

大霧山2017 022
粥仁田地蔵
『山襞の叫び』のフィルムを埋葬している


この井上伝蔵の生涯がまことに面白い。

武蔵国下吉田村(現秩父市)の名のある商家「丸井商店」の六代目として、地域の顔役として人望を集め、妻と娘に恵まれ、何不自由なく暮らしてきた。
が、明治17年(1884年)、30歳にして秩父事件の首謀者の一人となる。
養蚕農家の困窮に見るに見かねてということもあろうが、その頃巷に吹き荒れていた自由民権運動の風に目覚め呼応するものがあったのだろう。
秩父自由党の中心人物となり、秩父困民党の指導的立場になった。

秩父事件が官によって制圧された後、多くの首謀者たちは捕らえられ、死刑ないし無期懲役になった。
ところが、井上伝蔵は違った。

事件後、下吉田村関の斉藤新七(新左衛門)の土蔵に匿われ、翌18年に欠席裁判で死刑を宣告されたが、19年秋、下吉田村を抜け出した。20年に北海道に渡り、石狩原野の開拓民募集の広告を見て、伊藤房次郎名で応募、25年、石狩の樽川村の土地16町歩を借り下げた。(秩父市龍勢会館の設置資料より抜粋)

なんと、北海道に高飛びして、別人に成りすましていたのである。
その後、伝蔵もとい房次郎は、現地で高浜ミキという女性と再婚し、3男3女をもうけている。
その間、代書屋をしたり、札幌で下宿を開いたり、古物商を営んだり、次男坊を幼くして亡くしたり、苦労続きの人生だったようだ。
大正7年(1918)、札幌の病院に入院。

死期を悟ったのであろう。
枕元に妻と長男を呼んで、はじめて自分の正体を明かしたのである。
「自分は秩父事件の首謀者の一人で、死刑判決を受けている井上伝蔵である」と――。

絵にかいたようにドラマチックな生涯である。
当時の日本はまだ、こういったこと――逃避行し別人に成りすまして生きる――が可能だったのである。(いまも福田和子の例があるか・・・)
伝蔵は退院後すぐに亡くなった。

マンジュシャゲ


自分は伝蔵の心理が気にかかる。

一緒に闘った仲間たちが次々処刑される中で、土蔵に独り匿われて、何を考えていたのだろう?
故郷吉田村を家族を残して後にするときの気持ちはどんなものだったろう?
両家の子息として育てられた彼にとって、北海道開拓民の生活はどのようなものだったのか?
そして、家族にも正体を隠し伊藤房次郎として生きてきた30年間、遠い北海道から変わっていく日本を見ながら、日々何を思って暮らしていたのであろう?


井上伝蔵
井上伝蔵


さて、近代史における秩父事件の意義は、江戸時代までの百姓一揆(たとえば郡上一揆)とは違って、そこに自由民権運動の息吹が強く渦巻いているところにあろう。
蜂起自体も、一時の怒りやヤケにまかせての無鉄砲・無計画のものではなかった。
組織を結成し、総理(田代栄助)・副総理(加藤織平)・会計長(井上伝蔵)といった役割を決定した。
「私ノ遺恨ヲ以テ放火其他乱暴ヲ為シタル者ハ斬」といったような5カ条からなる軍律を採用した。
急襲によって大宮郷(秩父市)をいっとき占拠した際に、困民党メンバーやその同調者は「自由自治元年」という私年号を用いたそうである。
いわば、西洋諸国に見られるような市民革命の匂いがここにはある。

ソルティは巡礼している間、秩父事件にゆかりある風物(寺や記念碑など)に出くわすたびに思った。
「なぜ、秩父だったのか?」
「なぜ、秩父農民だったのか?」


秩父札所めぐり2日 062
札所23番音楽堂から見た秩父のまち


巡礼5日目、龍勢会館の井上伝蔵資料館を見学していると、一角に映画『草の乱』上映コーナーがあった。
見どころを20分くらいに編集したものである。
伝蔵の家屋セットの縁側に腰を下ろしてスタートボタンを押した。
すると、映画の出だしのナレーションがこうであった。

「秩父では米がとれない」

途端に脳内の離れたシナプス同士が結合し、スパークした。
  • 大前提  本来日本の風土に合わない稲作を強いられたことが日本人の国民性(ニッポン・イデオロギー)の基盤を作った。(笠井潔著『8・15 と 3・11 戦後史の死角』)
  • 小前提  秩父では米がとれない。だから伝統的に養蚕業が主だった。
  • 結論   秩父人はニッポン・イデオロギーを免れている。

「権威を疑問視しない反射的な従順性、集団主義、島国的閉鎖性、目先の必要に目を奪われた泥縄式の発想、あとは野となれ山となれ式の無責任」などを特徴とするニッポン・イデオロギーからは、市民革命の必然性は育たないであろう。

秩父事件の起こりは養蚕と関係していたのではなかろうか。

――なんて仮説を立て想像を巡らせるのも、秩父巡礼ならではの醍醐味である。

この武装蜂起で発揮された秩父農民の楽天性や高揚したエネルギー、それと、より良い未来をめざした志は、今もなお多くの人びとに感銘をあたえている。(同上資料)


どうやらソルティの秩父巡りは終わらないようである。


秩父札所めぐり2日 057
われら秩父困民党 暴徒と呼ばれ暴動といわれることを拒否しない