6年4カ月勤務した老人ホームを退職した。
現在、無職。
M78星雲に無事帰還した。

星雲2


辞めた一番の原因は肉体的限界である。
6年あまり酷使ししてきた腰、膝、肩の痛みが、もう誤魔化しようなくなった。
とくに、ここ1年程で急激に悪化した左肩の痛み。
左腕を床と水平以上に挙げると鈍い痛みが走る。
トイレの高い棚に置いてある介護用品(オムツパット)を腕を伸ばして取ろうとすると、ズキンッと鋭い痛みが走る。
思わず新しいパットを便器の中に落としてしまったこと数回(ヒミツ)。
五十肩の兆候である。
(ツクシさん、奇遇です)

10年ほど前に四十肩をやったことがあり、その苦しみはいまも忘れていない。
早めに治療すれば良かったのだが、自然治癒するだろうと高をくくって悪化させてしまい、四六時中痛むようになった。
重い荷物が持てない。
列車の吊り革がつかめない。
頭を洗えない。
頭から被るタイプの上衣が着られない。(前開きのシャツばかり着ていた)
夜も痛くて眠れない。
地蔵化した子泣きジジイが24時間肩に乗っている感じだった。
それが半年以上続いた。

今回も、ほうっておけば悪化の一途をたどることは目に見えている。
早めの治療が必要だ。
が、通院したところで、介護の仕事を続ける限りは治療効果は期待できまい。

しばらく休暇を取る?

痛みは消えるかもしれないが、仕事を再開したら同じことだ。
老後はきっとつらいことだろう。
無理して働けば、そのうち修復不可能なほど、肩や腰や膝を毀してしまうかもしれない。
自分の体だけならまだしも、利用者を抱え損ねてケガさせてしまうかもしれない。

また、一年くらい前から存在を主張してきたモロボシダン病もここ数カ月で本格化してきた。
健康診断や脳ドックで異常は見つからなかった。
とりあえずホッとしたけれど、原因が特定されないのもかえって気味が悪い。
さまざまな症状から素人判断するに、自律神経失調症じゃないかと思われる。
精神的な要因である。

元来、ソルティはストレスに弱い。
12年ほど前に耳鳴りとめまいが続いたことがあり、そのときはメニエール病の可能性を示唆された。
原因は「ストレスだろう」と医者が言った。
たしかにその時期は、職場の人間関係のゴタゴタで、ストレスフルな日々であった。
治療薬が効いたのか、ゴタゴタが収束したためか、そのうちに耳鳴りは治まった。
メニエールではなかったのだろう。
今回のモロボシダン病は、おそらく「ストレス+更年期障害」が原因だろうと思われる。
更年期障害は仕方ない。
半世紀以上生きてきたのだから。
(ソルティが20代の頃、今のソルティの年齢でもう定年=余生だった!)

問題はストレスである。

これまで介護の仕事をして、あんまりストレスを自覚したことはなかった。
仕事を覚えるまではもちろん精神的プレッシャーは多々あったけれど、いったん仕事を覚えて、フロアをまずまず穏便に回せるようになってからは、むしろ楽しい日々であった。
ご利用者との会話は楽しいし、認知症高齢者の介護は自らのコミュニケーション能力を磨く絶好の機会となってチャレンジングであった。
何より彼らの突拍子もない言動が面白くて、大いに笑かしてもらった。
観察眼の鋭くなってきた結果、自ら異常を訴えられない利用者の熱発や便意や発疹などをいち早く発見し、医療職に報告し然るべく対応できた時など、「自分はこの仕事が合っている!」と内心誇らしく思った。
職場の同僚もいい人ばかりで、介護現場でよく聞く派閥争いやイジメはなかった。(自分が気づかなかっただけかもしれないが)

加えて、ソルティは多趣味である。
山登り、寺社巡り、家庭菜園、クラシック鑑賞、落語、読書、映画、芝居、ボランティアやデモ、乗り鉄、資格試験にチャレンジ、こまめなブログ更新・・・・・・我ながら活発である。
職場をいったん離れたら、仕事のことはほとんど頭になかった。
そのうえに、何と言っても自分には仏教がある。
仏教という生きる糧、仏法という心の礎、瞑想修行という生き甲斐があるので、日常(=俗世間)のこまごましたことは、「どうでもいいや」と内心思っている。
仕事も人間関係も決していい加減にするわけではないが、やるだけやって上手くいかなくても、それはそれで仕方ない、別に深刻に思うほどのことではない、と思っている。
どちらかと言えばストレスとは縁遠いと思っていたのである。


夏空


一方、心のどこかで「だいぶ無理してるな」と感じているところもあった。
それは、介護の仕事5に書いたことに関係する。
そこでは、介護の仕事をはじめて10ヵ月したところでソルティが感じた違和感を挙げている。
  1. 利用者が「外に出られない」ということ
  2. 利用者が「好きなものが食べられない」ということ
  3. 利用者が「始終監視される、あるいはプライバシーがない」ということ
  4. 利用者が「好きな時に起床できない、横になれない」ということ
  5. 利用者がリハビリする意味について
  6. 利用者が「暇をもてあます」ということ
  7. 介護者であるソルティが「嘘をつくこと」について

施設の外の世界(一般人の生活空間)と施設の中の世界(介護生活空間)とは勝手が違う。
外の世界の「あたりまえ」が中の世界では通用しない。
中の世界の「常識」が外の世界では「非常識」。
当初、そのギャップに強烈な違和感を持った。
「これでいいのだろうか?」「これしかないのだろうか?」という疑問を抱いた。
が、最近はそれが薄れている。
施設の「あたりまえ」がだんだんと自分の「あたりまえ」になってきているのを感じる。


簡単に言えば、ソルティははじめて老人ホームに入って介護の仕事を始めたときに、非常なカルチャーショックを受けたのであった。
「こんなのまともな人間の生活じゃない!」
「何十年も家族や社会のために尽くしてきた人間の最期がこれなのか!? これしかないのか!?」
と半ば同情し、半ば義憤にかられたのである。
ところが、上記のように、歳月を重ねるごとに違和感がだんだんと薄れてきて、6年たった時点ではまったく感じられなくなっていた。
中の世界の「常識」が、すっかり介護者である自分の「常識」になってしまった。
「洗脳された」「流された」ということだろう。

もっとも、上記のような不自由な境遇に置かれている利用者に対し、「少しでも安楽に過ごしてもらおう。」「日々の生活を楽しんでもらおう」と、それなりに心がけたつもりではある。
他の職員よりは積極的に利用者と会話するよう努めたし、いろいろなレクリエーションを考案し少しでも楽しい時間を持ってもらおうと骨折った。
介護そのものも、機械的・事務的にならないように、目の前の利用者とコミュニケーション取りながら、できる限り丁寧にやってきたつもりではある。
幾人かの利用者とは心の通う関係がつくれたと自負している。
現場の雰囲気も、利用者の表情も、ソルティが働き始めたときより格段と良くなったと感じている。(これはもちろんソルティひとりの力ではない。)

しかし、やっぱり限界はある。
というのも、「自分の親をこの施設に入れたいか?」「自分が年とった時にこの施設に入りたいか?」と問われたときに「YES!」と自信をもって言えないのは、開始10ヵ月の新人のときも、6年以上経ちベテランと呼ばれるようになった現在も、変わってはいないからである。
勤めていた施設が悪いからではない。
これは、施設介護の限界であり、いまの介護保険の限界であり、我が国の少子高齢化対策の失敗の結果であり、日本の社会福祉政策の貧弱さの露呈であり、家族や地域の力が弱体した帰結であり、現代日本人の死生観の空洞化の表れなのである。
すなわち、何十年も家族や社会のために尽くしてきた人に、本人が望むような最期を提供できていない、あるいは少なくとも、本人が望まないような最期を提供しないことができていない――ということだ。

砂の城


当初感じた強烈なカルチャーショックや違和感に蓋をして、「まずは同僚に迷惑かけないよう仕事を覚えるのが先決だ」と心の底に封じ込めてきた結果が、5年過ぎたところで自律神経失調症となって浮上したのではあるまいか。

実際、利用者がトイレで用を足しているまさにその最中に、ドアを開けて入っていくことにあれほど抵抗を感じた自分であったのに、今では半開きしたドアの敷居に立って、トイレの中の利用者を見守りながら、同時にフロアにいる転倒リスクの高い利用者を見守ったりしている。(それもこれも、数十人を見守るには職員数が足りないからだ。)
要領が良くなった、仕事のコツを覚えたと言えば聞こえはいいが、高齢者の「尊厳の保持」という介護保険の理念からすれば、「???」であろう。

そもそもソルティの前職は、人権関係のNGOだったのである。
当時自分があちこちの学校の講演で生徒たちに偉そうに話していたことと、介護現場で自分がやっていることとのギャップは、何よりも自らの心に隠しようもない。

ここいらで少し、現場を離れてみることが必要なのかもしれない。
いろいろな体の不調はそのことを告げているような気がする。

――というわけで退職を決めた。

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6年4カ月の介護の仕事を一言で振り返ると、「面白かった!」というに尽きる。
介護という仕事の奥深さややりがい、さまざまな人生を歩んできた高齢者との出会い、利用者と家族とが織りなす人間模様の綾、相談員や看護職やリハビリ職との連携、自分の様々な経験や特技がじかに活かされる現場、不穏な利用者など困難なケースを同僚たちと頭をひねって対策を講じ、なんとか乗り越えた時の達成感・・・。

思った以上に介護職が、現場が、性に合っていた。
お世話になった方々には感謝するばかりである。


P.S.
現在、鍼治療に通っている。
初回に院長に体を触診してもらった時に、「どこもかしこもコンクリートのよう」と言われた。
ツボ押しの痛いこと。
鍼のズドンと地鳴りのように響くこと。
体が一斉に悲鳴を上げた。
というか、文字通り喉頭から悲鳴が上がった。
やっぱり、限界だったのだ。


石のバランス