四国遍路にはいろいろな慣例というか、決まりごとがある。
誰がいつ決めたのか、もはやよく分からないが、初心者のためのガイドブックなんか見ると、まず書いてある。
例えば、
1. 札所では般若心経を唱える
2. トイレでは輪袈裟を外す
3. 橋の上では杖をつかない
4. 知り合った遍路仲間やお接待を戴いた相手には、名前と連絡先を書いた納め札を渡す
といったことである。
最初のうちはソルティも「郷に入っては郷に従え」の謙虚さで決まりを守っていたのだけれど、今やどうでもよくなってしまった。
1. 般若心経を唱える
もともとそれほど好きなお経ではない。
なぜ、観自在菩薩が、阿羅漢であり完全な悟りに達しているはずのサーリプッタ(舎利子)に今さら仏法を説くのかよく分からない。
最後の呪文も意味不明である。
が、そこを抑えて1番札所では唱えた。
2番札所で唱えようとしたら、隣りに来た関西弁のおばさんが大声で願い事をまくしたて始めた。
娘の病気が良くなりますようにとか、孫が無事大学に受かりますようにとか、個人的なことである。
それが7つか8つくらいあった。
それから叩きつけるように般若心経を唱え始めた。
それを横で聞いていたら、気持ちが悪くなってしまった。
過去から現在までの膨大な人々の願いごとや呪詛、すなわち欲や怒りが、般若心経には纏わり付いている。
それが札所の空間に消える暇もなく立ち込めている。
そんなイメージが湧いた。
3番からは唱えていない。
2. トイレで輪袈裟を外す

輪袈裟は、お坊さんの着る袈裟の代用である。
お坊さんはトイレに行くときわざわざ袈裟を脱ぐだろうか。
まさか!
なぜ輪袈裟はいけないのか?
思うに、男の場合(むろん昔は男だけだった)輪袈裟をつけたまま小便すると、誤って輪袈裟の先端を濡らしてしまうからじゃないか。
が、そもそも袈裟はその名も糞掃衣(ふんぞうえ)と言われたくらい粗末なものだったのである。
何を気取る必要あろう?
ソルティは輪袈裟を後ろに回して小便している。(さすがに大の時は外している!)
3. 橋の上で杖を突かない
これは別格8番十夜ヶ橋(とよがばし)の故事から来ているらしい。
修行中の弘法大師が十夜ヶ橋の下で野宿した。
なので、杖の音を立ててお大師様を起こしてはいけない、ということだ。
だが、実際の十夜ヶ橋は杖の音どころか、朝から晩まで車がひっきりなしに行き交う超騒音地帯である。
思うに、昔の橋は木でできていたから、巡礼たちが杖をつくと木材が傷み劣化が激しくなる。
それを避けるためにそういう戒めが生まれたのではなかろうか。
ソルティは最初のうちは橋が来ると、意識的に杖を上げていた。
今は橋を気にせずに歩いている。
なのに不思議なことに、橋が来ると杖を持つ手が自然と上がる。
歩いていて、ふと杖を持つ手が上がるので、「どうしたんだろう?」と思ったら、目の前に橋があった、なんて展開も多い。
4. 納め札について
本来、お参りした記念に、お堂の前に設置してある納札箱に入れるものである。
四国ではそれが、遍路同士の連絡先交換やお接待のお礼として使われている。
納め札に何らかの効用というか価値が付与されている。
それが高じて、巡礼した回数によって使用できる納め札の色が決まっている、なんてアホくさいことが起きている。
1~4回は白、7~24回は赤、25~49回は銀、50~99回は金、100回以上は錦というように、納め札に冠位十二階ばりの格付けがあり、上位のものほど有り難がられる。
錦色の納め札を求めて、納札箱をあさる人もいるらしい。
アホくさ。
遍路に来てまで、そんな俗世間的なランキングごっこやって、どうしようというのか?
馬鹿らしくて付き合っちゃいられん。
連絡先を交換したいなら、携帯番号かメールアドレスで事足りる。
徳島の瀬戸内仏具店で買った納め札は、ほぼ使われないままリュックの底で眠っている。
もちろん、遍路の決まりごとを大切に思い、一生懸命やっている人もいるので、あえて口に出して否定することはない。
ただ、弘法大師が現状を見たらどう思うだろう?
お釈迦様だったらどう言われるだろう?
そう考えると、
「どうでもいいや」
と思うのである。
誰がいつ決めたのか、もはやよく分からないが、初心者のためのガイドブックなんか見ると、まず書いてある。
例えば、
1. 札所では般若心経を唱える
2. トイレでは輪袈裟を外す
3. 橋の上では杖をつかない
4. 知り合った遍路仲間やお接待を戴いた相手には、名前と連絡先を書いた納め札を渡す
といったことである。
最初のうちはソルティも「郷に入っては郷に従え」の謙虚さで決まりを守っていたのだけれど、今やどうでもよくなってしまった。
1. 般若心経を唱える
もともとそれほど好きなお経ではない。
なぜ、観自在菩薩が、阿羅漢であり完全な悟りに達しているはずのサーリプッタ(舎利子)に今さら仏法を説くのかよく分からない。
最後の呪文も意味不明である。
が、そこを抑えて1番札所では唱えた。
2番札所で唱えようとしたら、隣りに来た関西弁のおばさんが大声で願い事をまくしたて始めた。
娘の病気が良くなりますようにとか、孫が無事大学に受かりますようにとか、個人的なことである。
それが7つか8つくらいあった。
それから叩きつけるように般若心経を唱え始めた。
それを横で聞いていたら、気持ちが悪くなってしまった。
過去から現在までの膨大な人々の願いごとや呪詛、すなわち欲や怒りが、般若心経には纏わり付いている。
それが札所の空間に消える暇もなく立ち込めている。
そんなイメージが湧いた。
3番からは唱えていない。
2. トイレで輪袈裟を外す

輪袈裟は、お坊さんの着る袈裟の代用である。
お坊さんはトイレに行くときわざわざ袈裟を脱ぐだろうか。
まさか!
なぜ輪袈裟はいけないのか?
思うに、男の場合(むろん昔は男だけだった)輪袈裟をつけたまま小便すると、誤って輪袈裟の先端を濡らしてしまうからじゃないか。
が、そもそも袈裟はその名も糞掃衣(ふんぞうえ)と言われたくらい粗末なものだったのである。
何を気取る必要あろう?
ソルティは輪袈裟を後ろに回して小便している。(さすがに大の時は外している!)
3. 橋の上で杖を突かない
これは別格8番十夜ヶ橋(とよがばし)の故事から来ているらしい。
修行中の弘法大師が十夜ヶ橋の下で野宿した。
なので、杖の音を立ててお大師様を起こしてはいけない、ということだ。
だが、実際の十夜ヶ橋は杖の音どころか、朝から晩まで車がひっきりなしに行き交う超騒音地帯である。
思うに、昔の橋は木でできていたから、巡礼たちが杖をつくと木材が傷み劣化が激しくなる。
それを避けるためにそういう戒めが生まれたのではなかろうか。
ソルティは最初のうちは橋が来ると、意識的に杖を上げていた。
今は橋を気にせずに歩いている。
なのに不思議なことに、橋が来ると杖を持つ手が自然と上がる。
歩いていて、ふと杖を持つ手が上がるので、「どうしたんだろう?」と思ったら、目の前に橋があった、なんて展開も多い。
4. 納め札について
本来、お参りした記念に、お堂の前に設置してある納札箱に入れるものである。
四国ではそれが、遍路同士の連絡先交換やお接待のお礼として使われている。
納め札に何らかの効用というか価値が付与されている。
それが高じて、巡礼した回数によって使用できる納め札の色が決まっている、なんてアホくさいことが起きている。
1~4回は白、7~24回は赤、25~49回は銀、50~99回は金、100回以上は錦というように、納め札に冠位十二階ばりの格付けがあり、上位のものほど有り難がられる。
錦色の納め札を求めて、納札箱をあさる人もいるらしい。
アホくさ。
遍路に来てまで、そんな俗世間的なランキングごっこやって、どうしようというのか?
馬鹿らしくて付き合っちゃいられん。
連絡先を交換したいなら、携帯番号かメールアドレスで事足りる。
徳島の瀬戸内仏具店で買った納め札は、ほぼ使われないままリュックの底で眠っている。
もちろん、遍路の決まりごとを大切に思い、一生懸命やっている人もいるので、あえて口に出して否定することはない。
ただ、弘法大師が現状を見たらどう思うだろう?
お釈迦様だったらどう言われるだろう?
そう考えると、
「どうでもいいや」
と思うのである。
宿毛市代表さま
コメントありがとうございます。
「すくも」の「す」は「すぐやる」の「す」
「すくも」の「く」は「くふうする」の「く」
「すくも」の「も」は「もみあげ」の「も」
でしたっけ?
ソルティはかた
が
しました